10/24(火) 私にとっての会津への旅は、故・吉田多津夫さんを偲ぶとともに、東山温泉で一夕を愉しませてくれた姐さん芸者のその後を訊ねる旅であった。旅の幹事役を務めてくれたマッチャンに、手数を掛けさせたが『芸者を手配すること、それは女白虎隊を踊れる芸者であること』を念押しした。
早いもので、吉田さん他と東山温泉で一夕を共にした宴会があってから三十年以上も経つ。仕事がらであろう、吉田さんは東山温泉の原瀧旅館と何人かの芸者さんと懇意だった。私たちが行った時もその旅館に宿泊し、馴染の芸者衆を呼んでくれた。
白虎隊を踊る姐さんと、客扱いの上手な年増と大年増の姐さんだった。初めて見た女白虎隊の踊りと唄に酔った。この地の武士(老若男女を問わない)たちの戊辰の戦での無念が、踊りと唄から伝わり、胸が熱くなったことは未だ忘れようもない・・・・。
強烈な印象は刻み込まれたままであるし、吉田さんの行き届いた配慮はそれ以降も何度もあった。東山温泉には以降、三度宿をとったが、最後はサリーマンを辞めた年の四月か五月だったので十五年も経った。吉田さんが動脈瘤で急逝してから二十年以上になるが、十五年前の東山温泉は吉田多津夫さんを弔う旅であった。
盟友のTUGAWAさんに同行を願って東山温泉の、その旅館に泊まって芸者を頼んだ。その時の芸者は多分、女白虎隊を披露してくれた芸者だったはずだ。昔のことを、火傷のある芸者とカルタ姐さんのことを伝えると連絡をとってくれた。
火傷のある姐さんは既に芸者を廃業、大年増のカルタ姐さんは家で寛いでいたそうだ。が、二人とも駆け付けてくれた。杯を交わしながら、吉田さんを偲び、在りし日のヨッチャンのことを語り合った。
今回の会津は、東山温泉はそれ以来であった。吉田さんを偲び、それ以来の姐さん達のその後について尋ねたかったのだ。東山温泉といっても芸者衆の数は知れているだろうし、狭い土地だ。訊ねれば分るだろうと。大姐さんは年齢から考えても逝去してる可能性が高い、火傷の姐さんは存命だろう。元気に暮らしていればいいがと、そんなことを思っていた。
宴会場には「人形町パトロール隊」の文字
我等が宴会を始めて暫く経し、宿を通して頼んであった姐さんが来た。年増の姐さんと、踊りを舞う姐さんの二人が。酒を注いで貰い、杯を重ねる。頃合いになって踊りの準備をとなった。処が「白虎隊の踊りは聞いていたが、女白虎隊のことは聞いてない」となった。何処かで手違いが生じていた。
『踊れるが小道具の薙刀がない」と、・・・・。大急ぎで手配をし、自宅なのか置屋なのかしれぬが、急遽、取り寄せた。
白虎隊の踊りにつづいて、女白虎隊を踊ってくれた。三味線と唄の大姐さんは、あの時のカルタ姐さんのように客あしらいが上手で、我等を上手く乗せてくれる。マッチャンも、HOYA兄いも、NAKAMUAR大将も楽しげであった。
頃合いを見計らって、私が気になっていることを訊いた。すると・・・・。
「火傷あったといえば、トモエさんだね。亡くなってから十年近く経つかな」との言葉が・・・。亡くなるような歳ではなかろうに・・・、と思いながらもそれ以上のことは聞けなかった。
「カルタ姐さんは、亡くなってから三年近いかも。体調が悪いからと病院に行った翌日に亡くなったの」とのことだ。丸々した、踊りを見せてくれたこの姐さんは、殊の外、カルタ姐さんに可愛がってもらったと目頭を濡らしながら、亡くなった前後のことを語った。
「姐さんは、ぽっくり逝きたいと言ってたの。お腹が痛い、黒い便が出ると言ってたけど、風呂に入って温まると治ったとか言ってたけど。また痛くなって、病院に入った翌日に亡くなったの。」
「姐さんは卵焼きが好きで、作ってやったの。私も姐さんが作る、小豆餅が好きで作ってってお願いしたのよ。亡くなったて聞いて家にいったけど、人前で涙流すのもと・・・・台所さ行ったの。そしたら小豆が水に浸けてあって、姐さん約束を守って作ってくれようとしたんだ・・・、そしたら涙、止まんなくなって大泣きしたんだ」
人の生き死には辛いものがある・・・・。消息を尋ねた姐さんも、二人とも亡くなっていた。会うが別れの始めと云うが、吉田さん、そして姐さん二人と、会津の灯が消えたことを知る夜となった。
カルタ姐さんは、初めて会った時は五十代末だったのか、享年八十六歳だったそうだから。席を同じくしていたKATUTAは、オカルト婆さんとか言ったが・・・・。十五年前、風呂上りだと駆け付けてくれた姐さんの律義さが甦るよ。
トモエさんが色恋沙汰から油を被ったこと、男と女の出来事。杯を重ねながらそんな話を聞いたのはついこの前のことのようだが。吉田さんはそんなことを承知で、座敷の声を掛ける。そんな優しい漢だった。外は、台風とともに雨が風が、強よくなってきたようだ・・・・。