オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

弁当にも進化を

2009-01-11 | Weblog
1/13(火) 昨年春から、弁当作りに興じて足掛け二年となる。

そろそろ、進化を遂げなくてはなるまい。

其処で、オヤジ弁当の基本に立ち返り、コスト・コスト・コストこれに挑戦する。

安くて、美味い弁当。更に、早いが加わればベストだろうが、そんなことは考えない。
何しろ、時間つぶしが目的でもある。

これからのテーマは、安くて美味い、なのだ。

ついては、毎日の食材を含めた費用概算をUPします!(光熱水料と労務費は省略、僕の人件費を加算するとバカ高い弁当は必定)

さて、今日の弁当は、幾ら?

今日のメニューは、豚肉がメイン。これを煮物と炒め物にする。添えるのは、大根・人参・インゲン・マイタケ・蒟蒻。味付けに、あの取って置き、青ヶ島マツヨおばちゃんの秘伝・島たれを使う。食材は、冷蔵庫の半端物を使用、効率化に勤める。

これに、胡瓜と若布の酢の物を加える。

概ね、5人分のおかずが完成。

食材費・ご飯〆て、1000円と目算する。弁当換算で200円~250円となった。
買うより安いか・・・・。大したものだ。
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墓参 その2

2009-01-11 | Weblog
その年、4月から6月にかけ墓参した人々。

既に記した、吉田さん、大澤さんの他。新和プランニングの社長だった佐々木さん。
私の大先輩、書斎人だった若山先生。
三島のBAR「リラ」のオーナー田村勝利さん。

そして、郷里の墳墓の地で祖先を。若い頃お世話になった寺尾先生(元郵政大臣)、郵便局に勤めていた佐々木さん。38歳で逝った従兄弟で弟のような武本章。

新和プラニングの佐々木社長とは、広報課長時代に知り合い知遇を得た。
バブル前夜の景気が沸き立っていた時代。ゴールデンウィーク直前で納期まで10日程しかないポスター制作を、急遽せざるを得なくなった。

大手の代理店を含め、それまで取引のあった会社からは全て断られた。その時、知人の紹介で面識を得ていた佐々木さんに相談した。即断で引き受けてくれた。
良いアイディアのポスターができ、面目を施した。それ以来、お付き合いを頂くようになった。
私が、その職を離れて何年か後、病で逝かれたが葬儀に参列できなかった。厚木市の郊外に眠る墓前には、会社の後を継がれたIさんのご案内で訪れることが出来た。


若山先生とは、26~7歳の頃に友人のフリージャーナリストK君の紹介で知り合い、出入りを許された。
大学の先輩でもあり、以来、家族を含めた長い付き合いをさせてもらうこととなった。

仕事のストレスで、酔って深夜に伺い大騒ぎをしたこともあったが、受け止めてくれた。
先生は、本名「若山幸男」ペンネームを若山嘉成と名乗っていた。
趣味が嵩じて、星生占いもされた。私の4人の子供の名付けも、若山先生にお願いした。

晩年の10年ほどは、伊豆大川に蟄居された。何度か訪ね、一緒に散歩し、岸壁に釣り糸を垂れた。

かの地で逝かれたが、奥様からの連絡は、一切を終えて、落ち着かれてからであった。
大島を望む、山の中腹にある墓前に立ったのは、うららかな陽光が注ぐ日であった。



三島のBAR「リラ」のマスター田村勝利さんとは、私が19歳の春、三島・中央通の店に偶然入ったことから交流が始まった。

田舎出の生意気な小僧だった僕が、下宿の同級生H君と、初めてBARなるものを探訪すべく入った店がリラだった。店では、サントリー白が一番安く、シングルで100円。

ママは、田村さんの奥さんだった。初心なH君は、すっかり美人のママに一目ぼれ。何と、100円を握り締めて一人飲みに行ったことがる。勇敢・無謀、何と世間知らずか!

そんな世間知らずの若者を笑って迎えてくれる人柄だった。(当然僕は、H君に馬鹿だねお前は、と説教したが・・・。そのHも、今やある会社の役員に納まり、世の中の裏表、森羅万象全て呑みこんだような事を云う)

三島の地を離れてからも懐かしく、年に何度か訪ねた。サラリーマンとなった後も、思い立つと新幹線に乗り通った。

自宅に泊めて貰い、二日酔いの頭を抱えながら牛伏の海水浴場に行くご一家に付き合ったこともあった。

その後、店はパブに改装され、カラオケができる若者向けとなった。新しく出来た大型ショッピングセンターに軽食喫茶も出して、時代を読んだ商売をされていた。

私の部屋の書棚に、「リラより愛をこめて」田村勝利、裕治と署名されたボールがある。そのボールには、1976年1月17日の日付。

33年前になるのか。その年の秋、結婚することなった僕が、彼女を連れて行った時に寄せ書きをしてくれた記念のボール。裕治と云うのはバーテンダー。気持ちのいい男だったが、早世した。僕も、この町を離れる前、二月ほどを、この店のカウンターの中で過した。

マスターは群馬の出、生まれ故郷を偲んでか、二日町の駅前に「榛名」と云う喫茶店も出していた。詳しい生い立ちは聞いたことがないが、三島の人になりきっていたように思う。

三島の飲食業組合の理事長になり、20周年だかの記念行事があった。TVの世界に入っていたH君の伝で、名前が売れていた歌手を格安で仕込み、記念パーティで唄って貰った。
Hも若気の至りで、100円で飲ませた貰った借りが少しは返せたか。

その後、伊豆に遊ぶ途中、喫茶店に顔を出したこともあったが、マスターに会えなかった。

暫くして、ママから手紙が届いた。声を失い、闘病の末に逝ったとあった。

優男だった。筋を通さなければ許せない、激しい気性も持っていた。酒場のマスターを続けながら色んな夢を描いていたに違いない。

三島の外れにある「竹林寺」そこに田村さんのお墓が立っていた。

小雨の降る日だった。随分と遅くなってしまったが、漸く墓参が叶った。
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墓参

2009-01-10 | Weblog
平成14年3月、会社を辞めた後に始めたことが二つある。

一つは、日々の綴りと題した日記を付けること。日記と云っても食べたものや出来事を簡単に記したものだが。
もう一つは、出納帖を付け始めたこと。これは、それまでの杜撰な金の使いようを、退職を期に具体的に掴もうと思った次第。

会社を辞めた頃の日記を見返すと、暫く仕事に就かなかったこともあり、少しだけ詳しく日々を記している。
殆ど、夜の席が続いているが、それでも在宅の日は、働く妻の変わり(指示か)に夕食の用意をしている。例えば、鯖の味噌煮だとかアマダイの煮付けを作る、記述がある。

弁当に嵌る要素は、十二分にあったわけだ。


この頃は、お世話になった方々、従兄弟たちの墓参を中心に動いていた。自分自身の心の整理でもあった。

金沢の野田山に眠る「大澤さん」の墓参に訪れたのもこの頃であった。
金沢電話局長として、長い単身赴任生活に終止符を打って郷里に錦を飾られ、更なる活躍を嘱望されていながら病に倒れた。

私は、大沢さんが、本社の課長時代に側に仕えた。

言葉数は少なかったが、信念の人だった。細かいことは言わないが、全てを透徹している人だと思っていた。畏敬していた。

昭和59年1月、金沢に赴任される大澤さんを羽田でお見送りした。
既に違う部局の課長に就かれていたが、仲人して貰っていたI君と、この日の離京を聞き駆けつけた。

朝早くの便の所為か、或いは見送りを固辞されていたのか、I君と私、大澤さんの部下一人でのお見送りだった。

3月に、金沢に暮らしている妻の妹の結婚式があり行くことが決まっていたので、「3月24日に伺います」と伝えた。
『待ってるよ』の一言と。『アリさんの行き先は決まっているから』とボソりと云った。
その年の春、私は転勤の時期を迎えていた。
前の職場の部下、一介の担当者の人事まで考えていてくれたことが有りがたかった。

3月、僕は金沢に行った。体調を崩され入院中であることは聞いていた。

天気の所為か、夕方だったか、薄暗い中、病室を訪ねた。

『今日は、外泊です』と看護婦から聞かされた。「快復されていますか」と訊ねた。
看護婦は、頭を振った。病名を聞くと膵臓ガンだと言った。そして、『難しいですね』とつけくわえた。

その夜、ご自宅へ電話をした。

明るい声で電話に出られ『寄ってもらったのに、すまなかったなあ』そんな、声を聞いたのが最後だった。

暫くの闘病の末、5月下旬、大澤さんは逝かれた。

私は、転勤して日も浅かったが、休みを貰い、葬儀に参列した。
金沢独特の湿りっ気がある初夏の陽射しの中、大澤さんの人柄が偲ばれる、葬儀だった。大勢の参列者の悲しみで満ち溢れていた。

其の夜、大澤さんに仕え、お世話になった金沢在住のHさん、東京からのI君、w君たちと香林坊で通夜酒を飲んだ。

その後、出張やプライベートの機会を作っては、野田山に眠る大澤さんを訪ねた。大概は、地元の仲間やI君が一緒だった。大澤さんの墓参に行くと云うと、皆が集まった。
墓参の後は、香林坊やゴルフ場で更に故人を偲んだ。

平成14年5月24日の日記。

「金沢寺町の大澤家を訪問。お線香を上げ、一緒に仕事をした頃の写真を見せて頂く。大澤家では、私は、アリさんで通っていたそうだ。若い頃の自分がいた」「奥様は15年振り、一回忌、三回忌以来と言われるが、ご自宅を訪問せず、何度か野田山に墓参してる」「奥様にご案内頂き、野田山の墓地へ行く。お墓が山の中腹から、頂上の方に移動している」
等と記している。

こうして、一つ、けじめの墓参を果たすことができた。

私が、サラリーマンとして生きてこれた、生かされたことへの感謝。
色々な人達に出会い、支えられてきたことへの御礼。

最早、それを伝える術は、墓参しかなかった。人々。
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蛇に棒・・・

2009-01-09 | Weblog
かって、私が仕えていた重役(最近は聞かない言葉)が云った喩え。

その方は、話好きで、話上手な方。嫌味は言わないが、ポイントの衝きかたが絶妙。

或る時、何かの説明で部屋に伺った。

話の中で、重役は「〇〇ちゃん(僕)、彼(或る部長)はねえ、例の案件について乗り気じゃないねえ~」。まるで「『蛇が棒を飲んだ』ようなことを言うんだよ・・・」。

『蛇が棒を飲んだ』様を想像して、思わず笑った。

云い得て妙なるとは、この喩えようであった。その部長の性格、考え、仕事のやり方をまさに言い当てていた。

そうか、こう云う言い方があったんだと納得した。

それ以来、重役からこのワードは何度か聞かされた。


本来、柔軟・捉えようのない・変化自在であるが故に存在をしてきた生物。

遥か昔より、アダムとイブを篭絡した知恵と狡猾で生き抜いてきたものが、棒を飲んで真っ直ぐになるとは、肥大化したアメーバ、蚤のようになった象、そんな処か。

我が身を振り返りもせず、私も、時々この例えを使わして貰っている。

我々も、平素の営みにおいて「蛇に棒」の発想・言動に陥ってはいないか、注意するは必定。

俺達は蛇に上手く騙されても、しぶとく生き延びてきた人類の末裔。

飲むのは棒でなく、「しなやかな鋼(ハガネ)」。変化自在、如何様な形になろうが、時代が流れようが、「ハガネを呑み込んだ蛇」であれ。
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プロには敵わん

2009-01-09 | Weblog
1/9(金) 6時半前に起床し、弁当に着手。

昨夜、23時に帰宅。思い立って、今日の弁当の用意をする。

竹輪が冷蔵庫で寝ているので、これをベースに野菜煮。大根・エノキ・白菜をぶち込み、おまけに鶏肉も少々入れたごった煮。

処が、大失敗。竹輪を水から煮た所為で魚臭さが出てしまった。
妻に、言われる。煮立ってから入れなくちゃ~。勉強させて貰いました。

この他に、ポテトサラダ。ジャガイモを初めて電子レンジで柔らかくする。
発見!サラダが水っぽくない。そう云うことなんだ・・・。
人参・卵を茹で、玉葱をスライス。塩・胡椒・マヨネーズで完成。冷蔵庫へ。

従って、今朝は楽々。シラスと卵炒り。ホウレンソウ炒めを昨日のリベンジで作る。
一寸淋しいので、豚肉の玉葱炒めを塩・コショウ味で間単に作る。

しかし、炒め物が多いな~。簡単、手軽からだが知恵が出てない。
流石に妻は、私が思いつかないものを手軽にバリエーション豊かにこなす。脱帽!


朝風呂の前に、体重を測る。

なっなんと!4日前とまったく変化なし。
今週から、重ね弁当を一段にしてきた努力は何処へいったんだ・・・。

上質のラードに覆われたこの身は、そう間単には衰えないと云うことか?
或は、私の防衛本能が、迫り来る食糧危機が近いと察知しているのか?

どう~でも善いけど、早く、体重落ちないかな~と、祈る。
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Yさんへのレクエイム

2009-01-08 | Weblog
平成5年、私は職場が変わり、落ち着かずイライラとした日々を過していた。

Yさんとは、暫く音信が途絶えていた。

夏前の或る日、山のように鶏卵が届いた。Yさんからだった。

Yさんは、その後、鶏卵の会社「伊勢」に勤めていた。宅配の電話番号を頼りに連絡すると、その会社の電算室に勤務しているとのこと。

一緒に仕事をした頃とは様変わりな転進であったが、元気な声を聞き安心した。

「秋になり涼しくなれば卵が良くなるから、また送るよ」と云った。
その内に会おうよ、そう言って電話を切った。

それが、Yさんと話をした最後となった。

彼は平成7年、初夏の深夜、腹部大動脈瘤が破裂、大出血。緊急入院したが還らぬ人となった。
後に、T物産O氏からの連絡で知った。

葬儀に行けなかった。それが、何時までも心残りだった。申し訳なかった。


平成14年、私はそれまで勤務した会社を辞めた。

先ず、最初にしなくてはならなかったのは、これまでお世話になった人達への御礼。葬儀にも行けなかった、亡くなった人達へのお詫びの墓参であった。


Yさんが克って勤めていた靴メーカの知己を求めて連絡をした。
「Yさんの身内と、お墓の場所を教えてほしい」

何週間が経ち、漸くお姉さんの居所がわ分かった。
連絡を取り、お墓に案内をしてもらえることとなった。

平成14年5月7日。小雨の日、柏駅で待ち合わせ、Yさんの眠るお墓にタクシーで向かった。「妙照寺」そこに、Yさん一家の墓があった。

これまで、会いにこれなかったことを詫びた。

Yさんの鎮魂に、もう一つするべきことがあった。

あの思いで深い会津の地、東山温泉で彼のことを偲び、弔う。

私の心を、気持ちを解放してくれた、かの地を訪ね、Yさんを語ることであった。
それは、あの時に居たお姉さん達と共に。

その旅に同行してくれたのは、相棒のヒロさんだった。訳を話、付き合ってもらった。

飯盛山、白虎隊、鶴ヶ丘城。そして、東山温泉「原瀧」旅館。

宿の仲居さんに事情を話し、Yさん馴染みの芸者さんを聞く。

もう芸者は止めているとのことだったが、連絡はとれるとのこと。
電話を変わって貰い、話をすると、よく覚えていてくれた。

タクシーを飛ばして来てくれた。あの頃のことをよく覚えていた。

昔、男に捨てられたか、恋に破れたか。油を被って死のうとした、その名残が残っている姐さん。そんな話をYさんからも聞いたし、本人からも聞いた覚えがある。

Yさんは、そんな姐さんだからこそ贔屓にする男だった。悲しさがわかる男だった。

芸者を辞めた姐さんと、80歳を過ぎた東山一の大姐さん「カルタ姐さん」(家で休んでいた処を来てくれた)を相手に飲み・酔い、芸者を呼んで「白虎隊」を舞ってもらった。


漸く「吉田多津夫」さんへの鎮魂に、私なりの一区切りをつけた。

一緒に地方周りをし、隣の部屋でも目が覚める程の大鼾。帰りの社中で、最初から最後までウィスキーを飲みとおしたこと。駅弁を家族への土産と沢山買い込んだ彼。僕の家をたまさか訪ねてくると「子供はこれが好きなんだよ」と、ケンタの特大箱のフライド・チキンを携えてきた彼。

何時の間にか、僕は「吉田多津夫さん」の年を越えてしまった。

或る時、酒場で会うと「アリさん、背中が、怒っていたよ」と云った。
私は、上司の席の前に座り怒られていた。自分では、納得が行かなかった。
Yさんは、その姿を事務所の入り口から見ていたようだった。

あの時、あの場、貴方の言葉は忘れられない。

心がわかる人だった。

一生懸命生きてきた、昭和の男の姿を「吉田さん」にみたと思っている。吉田さん、有難う。

出会うことはないだろう、吉田さんの子供達に伝えたい。

「君達の親父は、男だったよ」と。
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オニギリ

2009-01-08 | Weblog
1/8(木) 今日は、オニギリ弁当。

紅鮭とおかか&シラスが具材。これに、卵焼きとベーコン&ホウレンソウの炒め物を、おかずととして付ける。簡単、楽々弁当である。

ホウレンソウを炒めすぎてしまう。失敗!どうも火加減と時間が上手くいかない。反省。

今日は、自分の弁当は不要。だからと云って簡単弁当では決して有りません。念のため。
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Yさんの想いで

2009-01-07 | Weblog
靴メーカに勤めるYさんは、僕より7~8歳上であった。

工場勤務も経験し、営業で永く培ってきた経験と人脈。各メーカのお家事情、営業担当者の癖、個性、社内での状況。業界の裏・表、全てを分かっている人だった。

素人の僕には、いい教師役であった。それだけでなく、我々が望んでいる製品、スペックの実現に勤めてくれた。

在るとき、会社に来てもらえないかと打診があった。
会社に伺うと、会議室に通され窓のブラインドを下ろした。

海外メーカとの提携で、新規開発中の靴だと云う。
「ブラインドまで下ろして大袈裟じゃないの」と云うと、社内も含め厳秘で開発中だという。「特に見てほしかった、意見を聞かせてほしい」と云う。
半年程経って、我々が望むスペックの製品が出来た。
それまで、業界とプロジェクトを組み、各地の現場でヒヤリングと実態調査を重ねてきた。
現場の要望は、軽量化と着脱性だった。

安全性・着脱製・軽量化・耐久性等の満足は勿論だが、問題はコスト、納入価格である。

価格の折り合いをつけるのに暫くを要した。

私の口説き文句は「これが、内に納入されれば、実績ができる。他社への納入の切り口になる。数が出るようになればコストは低減できるはずだ」と。

Yさんは、社内を説得し折り合いが付いた。

護送船団方式の業界を納得させて、画期的な製品の導入ができた、と思っている。
この新製品の、生産工程チェックや検査の為、会津工場にはその後、2~3度お邪魔した。

宿は、何時も東山温泉に取った。


そんなことが有りながら、僕は担当セクションを離れ転勤した。
Yさんも担当が変わり、そして関連会社に出向した。折に触れ、連絡を取り会った。
年齢を重ね、出向の先環境もあるのかYさんは少しづつ元気を無くしていたようだった。

在るとき、病気で入院したとの風の便りが届き。T物産のO氏と入院中の小平の病院に見舞った。脳梗塞だったが、もうすっかり元気になっていた。
病院のベットの上で、腕立て伏せを20回もやってみせ、喧嘩が強かった頃を彷彿させた。


その後、Yさんは会社を辞めて暫く音信が途絶えた。その間に奥さんを亡くされていた。
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鳥と定番

2009-01-07 | Weblog
1/7(水)今日は、鶏肉のオイル焼き・マイタケ・ピーマン添え、昨夜の煮物、定番卵焼き
ホウレンソウ御浸し。それにK君のオニギリ2個(小ぶり)。

今朝も5時前に目覚めるが、起床は5:45分。直ぐに弁当に用意。
今朝は、全農Bsへ9:30分新年の挨拶う訪問。その前に一旦出社したくなり、大急ぎで弁当創りに入る。

この頃は、手際がよくなった。風呂に入り、8:45分出社する。
今日は、ゆっくりと弁当の時間がとれるかな・・・。
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懐かしき人々

2009-01-06 | Weblog
過ぎ去りし時の中で、忘れられないことがある。忘れたいこともある。
忘れられない人、時のことを記しておきたい。

35歳頃から10年ほど、夜毎酒場を徘徊していた。家族は在っても家庭は無いが売り文句だった。
仕事は、充実していた。やるべきこと、やらなければならないことが沢山あった。
吸収し、発散しなければ自分が保てなかった。

仕事は、2~3年で転勤を繰り返していた。

ある時期、古くからある業界を相手の仕事に就いていた。社員の被服を調達する仕事だった。
取引先は、総てこの業界の生え抜き。表もあれば裏もある。本音の処は自分達業界の秩序、パワーバランスの中で処理されている。

調達側の私達は、2~3年で変わっていくお客さん、であったろう。

私が、その職に着任して最初に考えたこと。「自分は何のためにこのポジションに就いたのか、何をすべきであるか」であった。
応えは、明白「最適な品を、最適なコストで調達すること。その品を着用する社員の満足度を如何に高めるか、社員がお客」である。

私の考えを徹底して行くと、業界との摩擦が生じてくる。彼等からすると、自分達が営々と築いてきた商権でありルールなのだ。
高々2~3年しか在職しない担当者に何が分かるか、これまでの遣り方を変えたくない。弄られたくない、と云う思いがある。
それは、既存の利権を守りたい云うこと。(私が、反対の立場であれば、当然そうしたい)

彼等にすれば、これまでの利益を守りたい。
私は、丼に3杯も4杯も喰うのは止めてくれ、適正値があるだろうと責める。
これまでの在庫方式を、直送方式に替え、在庫コストを削減する。国際調達方式を導入することで購入単価を下げる。せめぎ合いだった。

そんな或る日、お世話になった元上司から電話が入った。
「たまには飯でも食べよう」と。趣旨は即座に理解したが、断るような野暮はできない。
呼ばれた席には、業界を代表する会社の課長が同席していた。

「〇〇君(私)、気持ちは分かるが、田圃の畦道から石を投げると泥が跳ねて大変だよ」と諭された。
「いいえ、田圃の畦道から石を投げる気はありません。田圃の中に入り、泥だらけになるつもりです」と、生意気盛りの僕は応えていた。

その方には、その後もご厚誼を頂いたが、顔を潰すこととなった。
今なら、もう少し違う対応ができるのかもしれない。

この時、私が導入した調達方法は、その後、他官公庁に波及し定着していったと聞く。
業界にすれば、恨みを残しているかもしれない。

思い切ったことがやれたのは、時の上司がすべて任せてくれたこと。
実務を推進した、よき部下に恵まれたことにある。(僕は、5時以降は酒ばかり飲んでいたから)

そして忘れてならないことは、業界の人間でありながら、先駆的な取組に共感し、惜しみない協力とサポートをしてくれた人が居たからである。

何事も、周りの理解と協力を得ることが早道だと思う。


Yさんの想いで

そんな仕事をしていた頃にYさんと会った。Yさんは、靴メーカの営業担当で、我々の会社の担当に途中からなった。たまたまその会社は剣道が盛んで、私はその会社のことを知っていた。
Yさんは、かって剣道部の部長をしていたとのこともあり親しくなった。

業界のことを含めいろいろと教えてもらった。

初めて、靴メーカの工場を見させてもらったのもYさんの会社の工場だった。この時は、他の靴屋さん達も同行し、呉越同舟だった。

会津坂下のその工場は、廃校となった小学校跡を利用していた。
4月下旬、私と担当のK君が訪れた時は、鶴ヶ丘城の桜の蕾は固く、工場の校庭には雪の小山が残っていた。

整然とした工場で働く人たちは、折り目正しく、好感を覚えた。

夜、東山温泉で呉越同舟の宴会となった。
芸者さんが踊る、「白虎隊」「女白虎隊」の唱と踊りに、何故か涙した。
大年増のカルタ姐さんの、軽妙な唄と踊りに大いに湧いた。

夜中まで、飲んだ。愉しんだ。
工場での、真摯な作業風景。整然とした中を見て安心したこともある。呉越同舟で皆さんが喜んでくれたことも。会津の鄙びた風土と、戊辰戦争の無念の欠片を吸った所為も・・。

その年の秋、会津の芸者の姐さんから柿が一箱届いた。気の早い部長が齧った。
「渋い!」よくよく箱の上書きを見れば、食べごろが書いてある。名産の晒し柿だった。

後から、Yさんに聞いた。「あれは、あんたが送らしたろう」彼は、笑っていた。
体型に似合わず、そんな細やかな芸もできる人だった。

ある夜、K君とYさんの三人で赤坂で飲んだ。バブル前の景気が上向いた時代。
遅くなったので、僕は先に失礼した。YさんとK君はまだ残っていた。

翌日、出勤するとK君が顔を腫らしている。会議室に呼んで事情を聞いた。
どうしたんだ?

「実は、あの後ケーキを買って、僕の家に行くことになったんです。タクシーを止めたところ、他の人と取り合いになり喧嘩になりました」と云う。

「Yさんがあっと云うまに相手を殴り倒したんですが、僕はケーキも持って見ていたら、相手の連れに殴られてしまいました。お土産のケーキがグチャグチャになりました」
「Yさん喧嘩強いわ~」

馬鹿野郎、何故お前もやらなかったんだ。

暫くして、Yさんを呼んだ。
「Yさん、あんたとこは精々、数百億円の会社。内は何兆円規模だぜ。事件になっちゃ困るんだよ。気を付けてくれよ」と、嫌味な言い方を敢えてした。

一緒に飲むたび、それから暫くは「内は高々100億の会社だから」と云うのが彼の十八番となった。

良き時代と云える。
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