オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

札幌

2018-11-06 | Weblog

11/6(火) 昨日、10時の便で札幌に発ち、今日の12時30分発の便で帰京した。一泊二日の小旅行ながら楽しい時間を過ごした。札幌では、サラリーマン時代からの友人TAKASHIMA女史と、その仲間のSATO&NAKADA女史の三人が歓待してくれた。

TAKASHIMA女子とは凡そ四半世紀になる交流。肝っ玉の据わった女史で、サラリーマンを辞めた後の仕事、ナチュラルの情報誌の仕事では、大いに助けられた。それやこれやで、今回は御礼の挨拶を兼ねての懇談を企てたのであるが・・・。あに計らん、こっちがご馳走になると云う結末に至った。赤面汗顔、極まりないことになった。

そんな結果になることも知れず、昨日は千歳空港から札幌を通過して小樽まで電車に乗った。昼ごろに札幌に着いたが、空は曇天、夜の懇談まで時間はタップリとあった。と云うわけで、さほど時間を要しない小樽までのした。

小樽駅前の小さな市場、通称三角市場でビールを飲み、未だいったことのない「小樽水族館」を覗いて見ることにした。駅から近いと思っていたが、あにはからん路線バスで30分も要した。おまけに、バスを降りたら雨までが・・・・。水族館そのものは、幻の魚と言われるイトウが目についたぐらいであった。早々と切り上げて札幌に戻った。

              

駅前から宿泊のホテル、札幌グランドホテルに向かう途中で、ライトアップされた時計台の前を通りかかったので写真を撮った。時刻は丁度五時だったが、北の街は暮色に染まっていた。

                          

私のお気に入りのグランドホテルに着くと、丁度TAKASHIAM女史が出迎えに来た処であった。何はさておき、一服したいからと、BARでハイボールをすすりながら煙を吐いた。歩いて10分ばかりの処の店を、後の二人が予約していた。余談だが、この二人は3~4年前に東京に遊びに来た。その折に、私が出没する店や築地市場を案内し、ローカーボマスターとはFB友達になっている。

                            

                         ホテルの窓越しに道庁の赤い丸屋根が

北海道料理と云うお店は洒落た作りで、ゆったりとした個室は和食と云うよりは応接室と云う感じで、出てくる料理は上品な作りであった。この店で二時間、飲み放題で遊び。次はカラオケとなったが、このカラオケルームも高級感漂う雰囲気。その雰囲気を壊すが如くに、演歌を唄うのは小生であった。

                    

四人で大騒ぎし、23時過ぎであったろうかお開きにとなったが…、支払いはまたしても地元組が・・・。これじゃ何のために札幌に来たのか・・・、我が面目は丸潰れの訪問となってしまった。札幌の敵は、江戸と土佐で返すと云うことにしたが、果たして結末や如何に?。

                                               

本日、新千歳空港には11:30到着。昨日のここに降り立った時間と同じ出会った。ゲート内に入り、札幌に来てラーメンすらも食さないとは是如何に。と気付き、ゲート前に在る食事処で数ヵ月ぶりにラーメンを食べることにした。富良野ラーメンとかで、麺の色が黒く蕎麦のような色合い。スープをすすると、煮干しの香りがたった。

これは、私にとっては最悪の事態だ・・・・。我が胃の腑にとっても、久々に食すラーメンがこれじゃ気の毒。半分ほど食して断念したが、ビールだけはしっかりと空けた。

                     

曇天の新千歳空港を発ち、羽田に降り立った時は雨が・・・・それでも、。旅先での雨が小降りだったので良しとしよう・・・・。

                         

四時からのアポイント先を訪問し、一応の務めは果たしたかな。明日一日、東京にいるだけで、明後日から郷里へ・・・・・。

 

 

 

 

 

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墓参 Ⅱ

2018-11-02 | Weblog

11/2(金) 昨日は予定通りに東戸塚の霊園を訪ねて、恩人の霊に頭を垂れた。その後、藤沢駅にて後輩と会った。年下は、一括りに後輩と云う言い方をしているが、サラリーマン時代の部下と云うことになる。が、今や年下の友人と云うべきであろう。その彼が、泥沼にはまったような状態と聞き、話を訊くことにした。

水曜日に彼が人形町まで来ることになっていた。来たらしいが、会えなかった。携帯を自宅に忘れていたとのことで、私も一時間ばかり駅周辺をうろついたが会えず仕舞い。酒場にいるところに、自宅に戻った彼から電話を貰い、改めて会うことにした次第。

余談だが、携帯電話での待ち合わせでは往々に有り得る。以前、AJIRO君と新宿駅で待ち合わせたときも、同じようなことがあったが、この時は自宅を通じてやりとりをし、随分時間を要したが事なきを得た。こんな場合のセーフティネットを考えとく必要がるね・・・・。

それはさておき、後輩に会い顔を見ると全くの元気なし、生気のない顔をしていた。近くの安酒場に入り、ハイボールのWを口にしながら話を聞き、訊いた。自業自得と云うよりしょうがないだろうが、これ以上泥に埋まらせちゃいかん。なんとか応援できる範疇と思い、蜘蛛の糸を垂らすことにした。彼に言ったのは『顔を上げて生きるようになれ。青空もみえるぜ』だった。ちょっと気障だったか・・・・。

なんと言っても、サラリーマン時代に彼を片腕と思って呼び、使い、私が自立してからは、クライアント側になった彼から応援してもらった。元気に生きていってほしいのだ。

さておき、我が人生を顧みれば数多の人のお蔭でここまで生きてこれた。幾人の人から蜘蛛の糸や縄梯子、救命具を投げてもらったことか。その「お蔭さまで」を返すべき人は故人となり、或るいは縁が途切れたままである。頂いてきた「お蔭さま」を、今、縁のある人に返すだけのことだが、これがなかなかしきれない。情けないことに、欲と云う字を捨てきれないでいる・・・・。

さて、今日の午後は横須賀の海を見下ろす崖上の墓に眠る横塚さんを訪ねる。横塚さんは、関東自動車から横須賀工業倶楽部の事務局長に出向されていた。クラブの定例会に参加するなかで親しくなった。駅裏の「かすみ」なんて云う安酒場を紹介してもらい、私が東京に戻ってからもここで一緒に飲み、古いカラオケセットで唄った。

海軍の街、横須賀らしく横塚さんのお父様は海軍軍人だったそうで、幼い頃に戦死されたと聞く。ご苦労はあったろうが、そんな気配もない、明るくて元気な方だった。ガンで亡くなったとの葉書を頂いたときは、まさかの思いがあった。

暫くご無沙汰をしている間のことであった。奥様が連絡をとりましょうか?と訊くと「こんな姿を見せたくないよ」と、言ったそうだ。そのことを、後日に海の見える墓地にご案内頂いた際にお聞きしたが、切ないよねぇ~。

そんな横塚さんとの思い出を抱きながら横須賀に行きます。

そして、その帰りには関内駅でKISHIMOTO大兄と合流して懇談となる。大兄が盛大に退任祝賀をやろうと言ってくださるが、とんでもないさ。下町の居酒屋でささやかにが、似あっている。この後、人形町に戻ることになる。「セイジュ会」をやるらしいので会費を払わなきゃ・・・。

 

最後に今朝のお弁当を紹介します。「真鯛切り身のポアレ」「ホウレン草お浸し」「冷凍コロッケ揚げ」「卵焼き」と、今回も簡素に仕上げた。

                    

そして自分の朝飯は、キューイ・富士柿・梨・キャベツのスムージーになった。

                 

 

ボートレースもないようなので、終末は大人しく過ごす予定。週開けの5~6日は札幌の友人に会ってきます。来し方の御礼を伝える小旅行ですが、ホテルは私が好きな「札幌グランドホテル」にしました。

 

 

 

 

 

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墓参

2018-11-01 | Weblog

11/1(木) 今日から11月、今年も後二ヶ月で終わることになる。私の席が会社に在るのも、後二ヶ月と云うことである・・・・。

延び延びになっていた、お世話になった方々への墓参は今週中に済ますべく、今日は東戸塚へ。明日は横須賀、明後日に狛江へに行き、故人を偲びながらこれまでの勤め人人生への御礼を申し上げる予定でいる。

今日は、午後から東戸塚のもちのき霊園に眠る、藤谷さんと中村さんの墓参をする。お二人とも、高知の大先輩であるが、とりわけ中村正明さんは直接の上司だったこともあり、亡くなられるまで公私にわたりお世話になった。東戸塚での墓参後、よん処のない事情から、藤沢まで足を延ばして後輩に会ってくる。

従って、今夜のパトロールは、休止する。

上記の墓参とは別に、昨日は南栗橋駅に集合して小森谷英昭さんの墓参に、かつての職場仲間八人で行った。小森谷さんは行年76歳、七月に病気で逝去された。二十年前になるが、私が現場勤務だったおりの販売部長さんで、確実な成果をあげられていた。墓参後、皆で幸手駅前の煙たなびく焼鳥居酒屋で浄めた。

                   

最後の現役EIJIと、ジュンチャンが音頭を取ってくれたので、実現した。話を聞くと、ダンスに野菜作り、自治会長や幼稚園の送迎運転などなど、元気である。とりわけ嬉しく思ったのは、介護疲れで気分が塞いでいたはずのジュンチャンが笑顔をみせたことであった。                    

それやこれやで、今週の後半は墓地・霊園と縁が深いことになった。

 

伊豆大川での若山先生の墓参であるが、谷沿いの道を汗を拭き拭き登っていった。以前に二度来ているので、場所は分っていた。それでも足で歩くと遠く、同行したFUJIKURAとYOSHIOには申し訳なかった。

見晴らしのいいところから海岸をふり返ると、蒼い海が臨めた。先生が終の棲家とこの地を選んだのが頷ける景色である。

20分以上要したか、漸く墓地に辿り着いた。同行の二人が桶や掃除道具を物置からだして、掃除の準備を・・・。私は先生のお墓を探しに・・・・。

処が、こことおぼしきあたりにお墓が見当たらない?。さほど広い墓地ではない、三人で上段から順に探す・・・・・。一番下段まで探してもお墓は見当たらない。以前の記憶でお墓があった辺りに、余所の新しいお墓がある。結局、墓替えをしたんだろうの決論になった。

自宅も譲ったとのことだし、奥様も体が思わしくなく横浜に越されている。お墓を移されたとしてもおかしくないのだ。

墓地を見廻し、蒼い海を見下ろして過ぎ去りし日々のことを思い返す・・・・。深夜近くに酔っ払って先生のお宅を訪ね、蛮声を張り上げて唄ったこと。さぞや迷惑千万ながら、笑って許してくれた。道を迷いつづけていた二十代半ば、そんな若者を黙って見守っていてくれた。

                        

先生は物書きから編集者に、最後は四柱推命の占いをされて本まで出していた。我が家の四人の子供の命名は先生にお願いした。

若山先生や木村先生、伊豆大川での関わりとわが青春時代?、未だ夢を持っていた時代。様々な思いや挫折、この地にはそんな残像があった。

先生のお墓には出会えなかったが、来てよかった、来れてよかった。伊豆大川だった。

 

では、今朝のお弁当写真を・・・。鶏唐揚げ、ホウレンソウ&卵炒め、茄子と挽肉の胡麻油炒め、焼き豚少々、以上です。

              

           

 

 

 

 

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