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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

聖書に預言された世界の歴史  第26回

2016年04月21日 | 日記

8、律法変更させた教皇権

8、律法変更させた教皇権

「彼はまた時と律法とを変えようと望む」(25節)。この預言を教皇権に適用させることが出来るでしょうか?教皇権は自分たちの教理問答と教理の本から、十戒の第二条を削除しましたが、その理由は十戒に記録されている「刻んだ像を造ってはならない」と言う第二の戒めは、彼らが崇拝するマリア像や各種の聖人像への崇拝を罪と定めるからです。第二の戒めを削除してしまい、数合わせのために、第十番目の戒めを二つに分けることにしたのです。

このように十戒を変更することによって、カトリック教理問答所が教える十戒には、愚像崇拝に対する戒めがなく、むさぼりについての戒めが二つに分けて書いてあります。同じく、第四条の聖なる第七日目の安息日を第一日目の日曜日に変更させて遵守し始めました。教皇権は、一千年以上の間、神様の戒めと時を変更させようと努力しましたが、神様はご自身の真実な民を通してご自分の戒めを保存してこられました。神様の戒めに対するサタンの執拗な攻撃にもかかわらず、「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:18)というイエス・キリストの宣言は今日までその輝きを失っていません。

 

ここでしばらく、教皇権が神様の戒めを変更させることになった歴史的な背景を学んでみたいと思います。前にもふれましたが、異教徒であったローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝は、クリスチャンたちの支持を得て自分の政権を安定させるためにキリスト教に改宗しました。これにより、多くの異教徒が皇帝に従ってキリスト教会に深い悔い改めもないまま入り込むようになりました。そして、これ以降、教会はより多くの異教徒を教会員にするため、また国家の歓心を買うために、多くの点において妥協と変更が始まったのです。

 

次に紹介する教会史家フォン・モスハイムの証言は、その当時の教会の状況をよく表しています。

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教会の監督たちは、改宗前にギリシャとローマ異教の神々を信じていた人々が、その神々に尊敬と信仰心を表明するために設けていた制度などを、少しずつ修正しながら、教会に取り入れた。これによって、新しく改宗した異教徒たちは、自分たちの先祖伝来の礼拝様式に似たものをキリスト教会にも見ることができるので、キリスト教を身近に感じ、キリスト教を容易に受け入れることが出来るようになるというのが、教会の指導者たちの主張であった。・・・異教徒であったコンスタンティヌス皇帝がキリストの教に改宗することと共に、至る所で豪華絢爛な聖殿などが建築され、聖画や偶像が設置されると、教会の外観も内部も異教徒の神殿に似たものとなった。(J. L. Von Mosheim, Ecclesiastical History, I,p.369)

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実際、8世紀に至っては、ほぼすべてのカトリック教会が、様々な聖像で満たされ、これらに口づけをして、祈り、香をたいてその像にひざまずくことが一般的になり、むしろ偶像に仕えていないイスラム教から、「偶像崇拝者」と嘲笑を受けるに至るほどでした。背教の道を歩いていたローマ教会は、最終的に「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」との第二条の戒めを神様の聖なる律法から削除したのです。

ローマ教皇は、自分たちに神の律法を変更したり、削除する権限があると信じる神学的背景をカトリック百科事典でこう述べています。

「次のような記録があります。ペテロと彼の後継者(注:教皇を意味する)は、禁止に関する法律を付加することができる力をもち、またこれらの制限から免除してくれる力もあり、必要であれば廃止する力もある・・・。このような司法上の権限と合わせて、罪までも許すことができる力が含まれている。」( Pope, The Catholic Encyclopedia, vol. XII, 265, col. 2.)

。同じく、第四条の聖なる第七日目の安息日を第一日目の日曜日に変更させて遵守し始めました。教皇権は、一千年以上の間、神様の戒めと時を変更させようと努力しましたが、神様はご自身の真実な民を通してご自分の戒めを保存してこられました。神様の戒めに対するサタンの執拗な攻撃にもかかわらず、「よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイ5:18)というイエス・キリストの宣言は今日までその輝きを失っていません。

 

ここでしばらく、教皇権が神様の戒めを変更させることになった歴史的な背景を学んでみたいと思います。前にもふれましたが、異教徒であったローマ帝国のコンスタンティヌス皇帝は、クリスチャンたちの支持を得て自分の政権を安定させるためにキリスト教に改宗しました。これにより、多くの異教徒が皇帝に従ってキリスト教会に深い悔い改めもないまま入り込むようになりました。そして、これ以降、教会はより多くの異教徒を教会員にするため、また国家の歓心を買うために、多くの点において妥協と変更が始まったのです。

 

次に紹介する教会史家フォン・モスハイムの証言は、その当時の教会の状況をよく表しています。

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教会の監督たちは、改宗前にギリシャとローマ異教の神々を信じていた人々が、その神々に尊敬と信仰心を表明するために設けていた制度などを、少しずつ修正しながら、教会に取り入れた。これによって、新しく改宗した異教徒たちは、自分たちの先祖伝来の礼拝様式に似たものをキリスト教会にも見ることができるので、キリスト教を身近に感じ、キリスト教を容易に受け入れることが出来るようになるというのが、教会の指導者たちの主張であった。・・・異教徒であったコンスタンティヌス皇帝がキリストの教に改宗することと共に、至る所で豪華絢爛な聖殿などが建築され、聖画や偶像が設置されると、教会の外観も内部も異教徒の神殿に似たものとなった。(J. L. Von Mosheim, Ecclesiastical History, I,p.369)

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実際、8世紀に至っては、ほぼすべてのカトリック教会が、様々な聖像で満たされ、これらに口づけをして、祈り、香をたいてその像にひざまずくことが一般的になり、むしろ偶像に仕えていないイスラム教から、「偶像崇拝者」と嘲笑を受けるに至るほどでした。背教の道を歩いていたローマ教会は、最終的に「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない」との第二条の戒めを神様の聖なる律法から削除したのです。

ローマ教皇は、自分たちに神の律法を変更したり、削除する権限があると信じる神学的背景をカトリック百科事典でこう述べています。

「次のような記録があります。ペテロと彼の後継者(注:教皇を意味する)は、禁止に関する法律を付加することができる力をもち、またこれらの制限から免除してくれる力もあり、必要であれば廃止する力もある・・・。このような司法上の権限と合わせて、罪までも許すことができる力が含まれている。」( Pope, The Catholic Encyclopedia, vol. XII, 265, col. 2.)