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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 54

2013年07月16日 | 日記

  

 54

愛は力である。この力には知力と精神力が含まれており、これらは不可分である。愛は神から来る。回心していない心は、キリストが統治なさるところでのみ生き、繁茂する、天来の成長というこの植物を産み出すことができない。愛は、行動なしに生きることはできない。すべての行為が愛を増殖させ、強化し、繁茂させる。・・・それは本来広がりやすく、静かに作用するものであるが、大いなる悪を打ち破るという目的を果たすことにおいては、非常に強力である。またその影響力は、心を溶かし、性質を変えるほどのものである。

贖い主に対する完全な愛のきらめきは、人の魂と神との間を隔てていた毒気を一掃してしまう。神の意思が、純粋かつ高潔、洗練され清められた彼の意思となるのである。

   説教集 : 受ける愛与える愛 6 

       小さな愛の一歩から

 だいぶ前のことですが、ワシントンのダレス空港を飛び立ったジェット機が、雪のポトマック河畔に墜落し、多数の死傷者を出すという事故がありました。その時新聞各紙は、「勇者は帰らず」と言うような題で、一人の男性の自己犠牲的な行動を讃えていました。この男性は、凍える川の中で救助のヘリコプターを待っている時、周囲の人を先へ先へとヘリコプターに乗せ、自分はあとになり、最後の人を乗せ終わった時、ついに力尽きて死んでしまったのでした。

 私は現代にもこのような人がいることに深く感動しました。同時に自分だったらどうしただろうと考えてみました。自分だって助かりたい、苦しむのはいやだと思って、人を押しのけていたかもしれません。

 ではこの人は、どうしてこのような自己犠牲的な行動がとれたのだろうか、とも考えました。この方について、詳しくは知らないのですが、きっとこの方は、毎日の小さな行動の中に、自己犠牲的な愛の精神を表しておられたのではないか、と思いました。

 人はギリギリの瞬間にその人の本性をあらわすものです。この人が、生きるか死ぬかと言う瀬戸際で、崇高な愛の精神を示すことができたということは、それ以前に小さな愛の積み重ねがあったのだと思います。それが一つの実となってあらわれたのではないでしょうか。

「くり返された行為が習慣となり,習慣が品性を作り、品性がその人の運命を決める」という言葉があります。日常の小さなできごとの中で愛をあらわしていくなら、私たちは、「受けるよりは与えるほうが幸い」という聖書の言葉を実感するでしょう。そして、そのことによって、自分の永遠の運命をも刈り取ることになるのです。

 

 



福音の道しるべ 53

2013年07月15日 | 日記

    

    53

 神のいとし子、イエス・キリストの十字架を見るときに、私たちは神との新しい契約関係に入っていく。なぜなら、自分たちの救いのためにどれほど大きな愛が示されたかを、理解するようになるからである。聖霊が、私たちの心と思いに神の律法を刻み込むと、私たちは、律法の要求に調和して生きることができるようになる。それは、裁きを恐れるからでも、天国に行きたいからでもなく、ただキリストの愛に感動して、二度と彼を悲しませたくないと思うようになるためである。そのとき私たちは、神から新しい心をいただいたのである。

罪祭の儀式を通して、カルバリーの十字架を見るのである。十字架のもとにひれ伏して、新しい契約の経験に入るのである。神が罪祭の儀式をお定めになったのは、私たちにこの経験を与えるためであった。ただし、次のことをわきまえねばならない。もし日ごとに神の愛を経験することも、思い出すこともなかったら、かつての同じ罪につまずくことだろう。誘惑が勢力をとり戻し、罪への欲求がよみがえることだろう。神の愛には力があり、その愛が勝利する力を与えてくれるのである。私たちは、その力を日ごとにいただかなくてはならない。神の愛は、一度だけ降り注いでそれで終わりというものではなく、毎日注がれている。救いとは、日ごとに主と歩む経験のことである。それは、一度だけ与えられて、私たちを永久にオート・クリスチャンとしてくれるものではない。救いは神からの賜物であるが、それには毎日の勝利の経験が伴うのである。

愛の流れ

  さて、愛には「愛される」ということだけではなくて、「愛する」という面があります。聖書には、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)とありますが、本当の愛は、愛されることよりもむしろ愛するという経験の中にあると言っても過言ではないでしょう。

ドイツの作家ヘルマン・ヘッセは、「愛することは愛されることより美しく、また人を幸福へと導くものである」と言いました。

 また、森田療法理論をもとに、家庭や職場での悩みに答える「生活の発見会」理事長斉藤光人氏は、「人間愛されることも幸せですが、それよりも愛するものを持つほうが、はるかに幸せです。それは、他人の不安定な愛を待つより、自分が愛するほうが、より確実で安定的だからで」(『ストレス時代の心の健康法』)と言っておられます。

 私たちが健康で明るい生き方を願うなら、この確実で、安定的な愛を持つ必要があります。

 では、愛するとは具体的にどうすることでしょうか。聖書は愛について、次のように教えています。

 愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。(コリント人への第1の手紙13章4~8節)

 私たちの心と行動がこのようになること、これが愛だと言うのです。聖書が教える愛は、無我で自己犠牲の極致であり、このような愛こそすべてのすべてなのです。

 しかし聖書の言葉の一つ一つの意味を考えていくと、自分たちが、この愛からほど遠い者であることを感じさせられます。私たちは、少しも寛容でなく、人をなかなか許しません。親切心の足りない者、ねたみやすく、高ぶり、誇り、不作法で、自分の利益のために一生懸命で、すぐイライラし、人を恨んでしまい、短気で忍耐心のない者です。

私自身、聖書を知るようになり、聖書の教える愛の素晴らしさに心を打たれ、自分も実践してみようと、何度も努力してきました。しかし、今日こそは寛容になろうと思っても、何かちょっとしたことで気持ちが変わってしまうのです。少しはできるようになったかと思うと、次の瞬間には腹を立て、イラ立ってしまいます。

 そんなことがくり返されていたある時、人間の中にはこの愛はないのだということを教えられました。聖書の教える愛は神様に属するものであり、神様だけが持っておられるものです。それは神様から与えられない限り、人間の誰も持つことが出来ない崇高で神聖なものだということが分かってきました。

 この愛を、もし私たちが得たいと思うなら、私たちは、神様の前にひざまずかなければなりません。自分の中に無我で無償の愛がないことを認め、それを与えて下さるよう求めるのです。このような求める心を「祈り」と言います。

 私たちは、人間的な方法ではもはや愛せなくなったと感じるその時こそ、神様に愛を求めることができます。そうする時に神様は私たちの中に、新しい愛を作り出していってくださるのです。

 先ほど紹介した宗教教育家は、愛を求める祈りとして次のような言葉を書いています。

「わたしは弱いのです。そして少しもキリストに似ていません。このようなわたしですが、どうぞお救い下さい。主よ、わたしの心をお受けください。わたしはこれをささげることはできません。これはあなたのものです。どうぞきよく保って下さい。これを、わたしが保っていることは出来ません。どうぞ、わたしを練り、形造り、清い聖なる雰囲気の中に引き上げて、あなたの豊かな愛の流れが、わたしを通って流れ出るようにして下さい」。(『豊かな人生の秘訣』)

 私たちが朝起きたとき、また一日のうちで、たえずこのように祈るとき、私たちの心は神様からの愛で満たされていくのです。



福音の道しるべ 52

2013年07月13日 | 日記

 

 52

しばらく隠れていたら、門をドンドンとたたく音が聞こえてきた。藪の隙間からのぞいてみると、門の外には、私にけがを負わされた女性が立っていた。彼女の周りには、さっきまで私といっしょに遊んでいた近所の男の子たちがいた。彼らは私の母に向かって、「デイビッドが、このおばさんにけがをさせたんだよ!やったのはデイビッドだよ!」と、口々に叫んでいた。私の母は救急箱を持ち出してきて、その女性に傷薬をぬっていた。私はやぶの後ろに隠れたまま、その様子を見ていた。あのときの惨めな気持ちは、大人になった今でも忘れることができない。父親から罰せられることを考えると、いっそう恐怖心が募った。母は、けがをした女性を病院へ連れて行き、しばらくたってから家に戻ってきた。後になって聞いたのだが、けがをした女性は額を五針も縫い、母が治療費といくらかの賠償金を払ったそうである。母は、病院から戻っても、私を捜さなかった。そして、何事もなかったかのように、洗濯やその他の家事をこなしていた。私はますます不安になった。

さらに時間が経過し、太陽は西の山に沈みかけていた。突然母が、私の隠れていた藪のそばまでやってきて、穏やかな声で、「デイビッド、おいで、夕飯の時間だよ」と語りかけた。彼女はずっと、私がそこに隠れていたことを知っていたのである。恥ずかしさのあまり、穴があったら入りたいと思った。私はうなだれながら、黙って母について家の中に入った。食卓には、いつもとは違ってご馳走が並んでいた。食べ始めてすぐに、父が帰宅した。再び、私の心に緊張が走った。夕飯の席についてから、父が、「今日は、何も変わったことはなかったかね?」と尋ねた。

 

説教集 : 受ける愛、与える愛 4 「よかった」探し

高崎さんの詩の中に、彼女が神様を知ったとき、まわりに数多くの恵みが満ちていることに気がついた、という言葉があります。これが「愛される」ということを考えるときに、忘れてはならないもう一つのことです。時々私たちは、自分など、いてもいなくても同じだという無価値観にとらわれることがあります。また、どうせ自分など誰もわかってくれる人などいないんだ、という孤独感に襲われる人もいます。あるいは親の愛情を十分受けてこなかった、親から疎まれて育ってきたという被害者意識を持ち続けている人もいます。

しかし実のところ、私たちがよく目を開き、心を開いてまわりを見るなら、そこにはたくさんの恵みが満ちているのです。あるアメリカの宗教教育家は、「神は天にも地にも、数えきれぬほどの愛のしるしをまき散らして、私どもの心をご自分に結びつけたまいました」、と言っています。私たちが見ようとするなら、私たちのまわりのあたりまえと思っていることの中にも、愛の証拠は数多くあるのです。

 高橋さんは、自分を世界一不幸な人間と考え、そこに閉じこもることもできたでしょう。しかし彼女は、自分の不幸にではなく、自分のまわりにある愛、感謝に目を注ぎ、それによって明るく生きるようになりました。そして自分の失ったものや、できないことを嘆くのでなく、いまあるもの、できることを喜ぶようにしているのです。これが私たちの人生を力強く生きる秘訣です。

 以前テレビで、「愛少女ポリアンナ」というアニメが放映されました。この物語の主人公は、小さいときに親をなくし、いじ悪な叔母さんに育てられるのですが、どんな時にも、何か「よかった」と言えることを探していきます。苦しめられ、いじめられても、見方を変えると、どこかに「よかった」と言える事がある、それを探していくことによって、次第に周囲を明るくしていく、そんなストーリーでした。これはもちろん小説ですが、私たちにとっても大切な考え方だと思います。

 讃美歌にも、「数えてみよ、主の恵み」という歌がありますが、私たちが愛されていないと不平を言う前に、これまでの人生で楽しかったこと、喜びで心が一杯になったことを考えてみると、いつの間にか暗い思いは消えていくのです。 


福音の道しるべ 51

2013年07月13日 | 日記

  

   51

私の心にこの概念を植えつけてくれた、子供のころのある経験を書きたいと思う。友だちと、お気に入りの戦争ごっこをしていたときのことであった。竹の棒を何本か切ってきて、剣や槍や矢をこしらえた。それからみんなで砂を高く盛って、要塞を築いた。さらに石を集め、弾薬として蓄えておいた。突撃の合図とともに、みんなで一斉に要塞を飛び出し、矢を放ったり剣で斬り合ったりした。また敵をめがけて、石の弾丸や大砲も撃ちまくった。ご想像の通り、これはとても危険な遊びで、誰かがけがをすることも珍しくはなく、どの親たちも、戦争ごっこには反対であった。私の両親も例外ではなかった。両親はなんども、戦争ごっこをしないようにと私を諭し、特に母は、私が石を投げることさえ禁じたのであった。ところが、近所の男の子たちが、ときの声をあげながら走り回っているのを見ると、いっしょに遊びたいという強烈な誘惑に襲われた。それに、参戦しなければ、臆病風に吹かれた裏切り者と思われるとの恐れも後押しした。

そしてある日、私は誘惑に負けた。戦闘中(無論ゲームであるが)、私は味方の陣地に接近してきた敵兵めがけて石を投げた。突然、女性の叫び声が聞こえた。私の投げた石が、通りを歩いていた行商人の額に当たったのだ。その場に倒れこんだ彼女の額からは、血が流れ出ていた。あたりは急に静まり返り、恐れと不安の空気がたちこめた。遊びの興奮と楽しさは、一瞬にして消え去った。私は、自分の不服従の結果を目の当たりにした。気がつけば、自責と後悔の念のみが、心に重くのしかかっていた。私は、倒れている女性に向かって、「おばさん、ごめんなさい!おばさん、ごめんなさい!」と、繰り返し呼び掛けた。恐怖心が先行して、どうしてよいか分からず、結局その場から逃げ出してしまった。自分の家の前にある庭まで走っていき、藪の後ろに身を隠した。

  

    説教集 : 受ける愛、与える愛 3  

このような神の愛と出会い、人生に生きる力と希望を持つようになった方が数多くおられます。

大阪府枚方市に住む高崎さんという方は、24時間介護が必要な障害者です。進行性筋ジストロフィー症のため、15歳で車イスの生活になりました。精神的にも肉体的にも、大きな苦しみを背負ってこられたと思うのですが、その高崎さんが、こんな詩を書いておられます。 

 

 私は今、こんな気持ちでいます

もし、私にもう一度

この人生をあげよう、と言われたら、

私は喜んで、アリガトウを言えるだろう。

そして、また同じこの道を歩くだろう。

すべてがバラ色だったのではない。

喜びだけで生きてきたのでもない。

十五で歩けなくなってしまったし、

死んでしまいたいと何回も考えた。

でも、どうしようもないとわかったとき、

私は、心の中までは

病気も襲っては来やしないことに気がついた。

心だけは健康でいたい。

誰よりも、元気で明るく、生き生きとしていたい。

そう思ったとき神が心に語りかけてくれた。

何が真実で、何が偽りか

神は、私にはっきり教えてくれた。

そして、感謝する喜びを

多くの恵みが私のまわりに満ちていることを

私だけを愛してくれる両親がいることを、

私を好きになってくれる友達を、

そして、そして、生きる喜びを、

この世の美しいものを

次々に思う心を教えてくれた。

痛みや、つらさからも、

人生の深い意味を

そして、もっともっと学ぶことを、

学ぶことの喜びを、生きがいを、

壁にぶつかることも、

それを乗り越えることも、

神は一つずつ新しいことを教えてくれた。

 

私は、私のこの人生を、

全く同じこの人生を

もう一度生きることに悔いはない。

神がいて下さるなら、

神が、いつも近くにいて下さるなら。

 

高崎さんは、ふとしたことで教会に通うようになり、クリスチャンになりました。彼女は、神の愛を見出すことにより、大きなハンデイ にもかかわらず、人生を肯定し、前向きに生きるようになったのです。私たちを限りなく愛して下さる、その神の愛を知るとき、私たちは失望させられるような経験をしても、裏切られても、希望をもって歩んでいくことができるのです。

 

  


福音の道しるべ 50

2013年07月12日 | 日記

    

   50

 パウロはここで、真に回心し、自分たちの分を果たした人たちが、神のイスラエルであると力説しているのである。私たちが真心から神に献身するとき、神の律法をこよなく愛する新しい心が与えられる。私たちは、この律法を自分の力で守ることはできない。「なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである」(ローマ8:7)。しかし、私たちの内になされるみ業のゆえに、神の律法を守ることが可能となる。「これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである」(8:4)。このような、真の回心について、次のように理解できる。 

新生〔新しい誕生〕において、心が神の律法と調和していくにつれて、心は神と調和するようになる。この大変化が罪人のうちに起こるとき、彼は死から生へ、罪から聖へ、違反と反逆から服従と忠誠へと移行するのである。

 血と肉を受け継いで生まれた古い性質は、神の国を相続することができない。古い道〔生き方、流儀〕、遺伝的性向、かつての習慣などは、放棄されねばならない。なぜなら、恵みは相続されないからである。新生は、新たな動機、新たな好み、新たな性向からなっている。聖霊が与える新たな命に生まれる人たちは、神の性質にあずかる者となったのである 

罪祭の儀式のうちに十字架を見るとき、この回心の経験を得ることができる。聖霊の働きかけを通して、罪人を贖う神の愛が心に注がれるとき(ローマ5:5参照)、それを欲している時ですら神の戒めに従うことができない、私たちの腐れ切った自我は、新しい心に生まれ変わり、神の律法を愛し、喜んで従うようになるのである。これが、再生〔再び生まれること〕の神秘〔奥義〕である。それは単なる理論ではなく、真の経験である。罪人にこの再生を理解させ、経験させるために、神は罪祭の儀式を定められた。神の恵みにより、私たちは日々、この経験を継続しなければならない。これが聖化である。

 

   説教集 : 受ける愛、与える愛 2  変わらない愛を

聖書には、このような人間同士の愛ではなくて、真実で不変の神の愛が描き出されています。そして人が、この神の愛を知るときに、心は満たされ、安らぐことができるのだと言います。聖書は『新約聖書』と『旧約聖書』に分かれていますが、この、「約」という言葉は、契約の約、約束の約です。つまり、聖書には、神の人間への愛の約束が書いてあるのです。その約束の言葉をいくつかご紹介しましょう。

イスラエルが安息を求めたとき時、

主は遠くから彼に現れた。

わたし(神)は限りなき愛をもってあなたを愛している。

それゆえ、わたしは絶えずあなたに

真実をつくしてきた。

         (エレミヤ書31章2、3節)

女がその乳飲み子を忘れて、

その腹の子を、あわれまないようなことが

あろうか。

たとい彼らが忘れるようなことがあっても、

わたし(神)は、あなたを忘れない。

         (イザヤ書49の15節)

神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。

                     (ヨハネ第一の手紙4章9、10節)