戒めを喜ぶ
モーセは儀式律法を通して、罪からの救い主、イエス・キリストの十字架を見ました。私たち人間は、こんなにも絶望的でどうしようもないものですが、アダムが罪に陥ると同時に、そこに第二のアダム、救い主が来て下さいました。それゆえに、アダムとエバは、ほんらい善と悪を知る木の実を取って食べた時に死ぬべきだったのですが、彼らは生かされたのです。
モーセは儀式律法を通して、やがて来られる救い主イエス様を、十字架の犠牲を見ました。それで心の中に希望が生まれました。モーセは大胆に神様のみ前に進んで行き、神様と顔を合わせて話すことができ、十戒を直接受けて降りてくることが出来ました。ですから、彼の顔は光り輝いていたのです。
私たちの信仰とは、高い標準である主の戒めが、これはしなさい、これはしてはいけないと言う時に、私たちの心の中に感謝と希望が満ちあふれるものでなければならないのです。
次にへブルへの手紙4章15,16節をお読みします。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。
モーセが大胆に神様の前に進み出て、顔と顔を合わせて会話し、十戒まで授けられ、顔が神様の栄光で輝いたのは、祭や幕屋制度などの儀式律法を通して、その中に象徴されている救い主キリストを見ることが出来たからです。
私たちは、聖書の御言葉が「殺してはならない」、「安息日を覚えて聖とせよ」という時、その中にキリストを見なければならないのです。神様の戒めを聖霊の力によって完全に守り、ご自身の勝利によって罪に満ちた人間が聖霊を受ける道を開かれ、信じる者に限りなく豊かに聖霊を与えて下さるイエス・キリストがそこにおられるのです。人間の幸福のために戒めを与えるばかりでなく、戒めに従う力も与えて下さる神様の愛に感謝し、感激して従うのです。聖書のすべての戒めと命令の中に、神様のシェキーナの栄光を見なければならないのです。
テモテへの第二の手紙1章9,10節をお読みします。
「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」。
多くの人にとって十戒は、罪を指摘して、自分が滅ぼされなければならない罪人であることを自覚させるものになっています。しかし福音は、十戒の中に、命と不死を見ます。十戒の起源も目標も、全ては愛の神様であり、イエス・キリストがそこにおられるのです。