SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

モーセの信仰より学ぶ  最終回

2015年07月21日 | 日記

アメリカで、ある奥さんが夜中の2時ごろハイウェイを運転していました。外は真っ暗で、走っている車はほとんどありませんでした。しかし、後ろから大きなトラックが近づいてきました。ずっと自分の車の真後ろについて来て離れようとしません。その奥さんはだんだん気持ちが悪くなってきました。トラックは時々、ライトをハイビームにして警告をしながら、ついてきます。この奥さんは先に行かせようと思って、道を譲りましたが、前に行こうとせず相変わらず後ろからついてきます。とうとうこの奥さんは、ハイウェイを降りて、ガソリンスタンドに逃げ込みました。すると、そのトラックも後からついてきて、隣にトラックを止めたのです。そしてトラックの運転手は、奥さんの車の後のドアを開け、中に隠れていた男を引きずり出しました。その男は、前のドライブインで奥さんが買い物をしている間に、奥さんの車の後ろに隠れていた強盗だったのです。

トラックの運転手は、親切にも奥さんに危険を知らせようと警告していたのですが、奥さんは運転手の心が分からなくて、恐怖心で逃げることしか考えていませんでした。

あなたにとって、律法はトラックの運転手のようなものではないでしょうか。律法はあなたを救おうとしてあなたを追いかけているのに、あなたはそれを恐れて逃げようとばかりしていませんか。心の覆いを取り除かれ、律法の精神、神様の愛のご品性を受け入れてくださるように、切に願います。


 モーセの信仰より学ぶ 第10回

2015年07月20日 | 日記

   モーセの信仰よ売り学ぶ 第10回
へブル人への手紙10章15節から19節。
「聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、『わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう』と言い、 さらに、『もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、・・・』 」。
  
聖霊が「律法を・・・心に与え、・・・思いのうちに書きつけ」てくださいます。これは石の板に記録されたのと同じ戒めですが、聖霊が私たちの心の板に書きしるしてくださったものです。つまり、心が変わったと言うことです。生まれ変わったことです。聖霊の望みが私たちの望みになったことです。イエス様の心が私たちの心になったことです。
私たちの心の中にある偏見や、誤った考えをすべて捨てなければなりません。私たちの心の中にある、生まれ変わってないものを全て捨てて、主のみ前に進みましょう。そして、 「主よ、私に戒めと同じ心、精神をお与えください。私は毎日生まれ変わる必要があります。神様の戒めの奥深さを見ることが出来るようにしてください」と祈りましょう。

このようにして、主を愛し喜んで主に従う動機が私たちのうちに満ち溢れるようになります。戒めを見た時、怖い、出来ない、覆うではなく、「私は主の戒めを愛します」と言うようになります。ダビデは「主の戒めを純金よりも愛します」(詩篇119:127参照)と言いました。戒めの中に、主の限りない愛が表されていることを、実際に体験していたからです。戒めの中に人間を愛し、罪から救おうとされる神様の慈愛が満ちていることを、毎日実感していたからです。それは彼が、聖霊によって心のうちに、主の戒めを書き記されていたからです!


モーセの信仰より学ぶ 第9回

2015年07月18日 | 日記

 

   心に書かれた律法

 

ローマ人への手紙1章1節~4節。

「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」。

 

律法の終わりとは何でしょうか?律法の目標達成、律法の完結ということです。律法に従えばその究極にイエス様が見えることです。イエス様が律法を完全に守られたから、イエス様を信じればそれでいいのではなく、律法に従えば、その終わりのところでイエス様が見えるということです。なぜでしょうか?イエス様の力によらないで、私たちの力では絶対に戒めを守ることができないからです。

ですから、私たちの心が変わらなければなりません。私たちの思いが主のみ前に屈服しなければなりません。聖霊のみ恵みによって、私たちの一つひとつの思いまで主のみ心、み言葉に服従しなければなりません。聖霊によって律法を守る経験をするべきなのです。そのためには、「神様!私には出来ません。でも、私が出来るように約束してくださったことを信じます」と祈る必要があります。私たちが心から信じて服従すれば、その服従を完全として受け入れて下さるのです。

  


モーセの信仰より学ぶ 第8回

2015年07月17日 | 日記

 戒めを喜ぶ

モーセは儀式律法を通して、罪からの救い主、イエス・キリストの十字架を見ました。私たち人間は、こんなにも絶望的でどうしようもないものですが、アダムが罪に陥ると同時に、そこに第二のアダム、救い主が来て下さいました。それゆえに、アダムとエバは、ほんらい善と悪を知る木の実を取って食べた時に死ぬべきだったのですが、彼らは生かされたのです。

モーセは儀式律法を通して、やがて来られる救い主イエス様を、十字架の犠牲を見ました。それで心の中に希望が生まれました。モーセは大胆に神様のみ前に進んで行き、神様と顔を合わせて話すことができ、十戒を直接受けて降りてくることが出来ました。ですから、彼の顔は光り輝いていたのです。

私たちの信仰とは、高い標準である主の戒めが、これはしなさい、これはしてはいけないと言う時に、私たちの心の中に感謝と希望が満ちあふれるものでなければならないのです。

次にへブルへの手紙4章15,16節をお読みします。

「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」。

モーセが大胆に神様の前に進み出て、顔と顔を合わせて会話し、十戒まで授けられ、顔が神様の栄光で輝いたのは、祭や幕屋制度などの儀式律法を通して、その中に象徴されている救い主キリストを見ることが出来たからです。

 私たちは、聖書の御言葉が「殺してはならない」、「安息日を覚えて聖とせよ」という時、その中にキリストを見なければならないのです。神様の戒めを聖霊の力によって完全に守り、ご自身の勝利によって罪に満ちた人間が聖霊を受ける道を開かれ、信じる者に限りなく豊かに聖霊を与えて下さるイエス・キリストがそこにおられるのです。人間の幸福のために戒めを与えるばかりでなく、戒めに従う力も与えて下さる神様の愛に感謝し、感激して従うのです。聖書のすべての戒めと命令の中に、神様のシェキーナの栄光を見なければならないのです。

 

テモテへの第二の手紙1章9,10節をお読みします。

「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである」。

 

多くの人にとって十戒は、罪を指摘して、自分が滅ぼされなければならない罪人であることを自覚させるものになっています。しかし福音は、十戒の中に、命と不死を見ます。十戒の起源も目標も、全ては愛の神様であり、イエス・キリストがそこにおられるのです。


モーセの信仰より学ぶ 第7回

2015年07月16日 | 日記

    覆いを取られたパウロ

ダマスコへ行く途中で、パウロがイエス様に出会った後、目が3日間見えなくなりました。それからアナニヤが彼のために祈ると、パウロの目からうろこのようなものが落ちました。自分の顔を覆っていた覆いがすっかり取り除かれました。それまで、パウロがそれなりに知っていた儀式律法や断食の日や幕屋制度、大贖罪日などの本当の意味が、急にはっきりと理解できるようになり、新しい光に近づいたのです。神様の深い真理を理解するようになりました。彼は3日間全く目が見えない状態でしたが、その後彼の霊的な目が開かれました。そして、ほんとうの神様のみ姿を見ることが出来るようになりました。イエス様が見えました。そして罪人を赦して下さるイエス様の愛に深く心を動かされて、彼は自分のすべてをふん土のように思って、キリストのためにだけ生きると言うようになりました。 

私たちの心の覆いが取り除かれたら、神様の栄光の輝きが見えて、私のすべてを捧げ、主のために生き、私のすべてを屈服させるようになります。神様の戒めに完全に従って生きることが楽しいことになります。戒めに従うことは絶対に難しくなくなるのです。

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである」(Ⅱコリント3:17,18)。 

私たちが主のみ言葉を静かに瞑想すると、心の目に神様が見えるようになります。罪に満たされていることが見えるようになり、十字架の意味が見えるようになり、罪への勝利が見えてきます。み言葉をじっと見ていると、新しい光が私たちの心の中に入ってきます。

 私たちの信仰は、聖所の外庭の経験を経て、聖所の中に入り、それから、主に従って至聖所に入り、神様のシェキーナの栄光、神様の臨在の象徴である契約の箱の前にまで進むまなければなりません。

神様は異邦人にも、自然界の色々な事物を通して、神様の偉大さと愛を啓示して来られました。自然界の教えを通してでも、誰も言い訳ができないほど、神様の道は明らかなものなのです。いっぽうユダヤ人たちには、預言者や律法など、異邦人たちに比べてはるかに具体的な導きと祝福を与えておられました。それはどれほど大きな恵みと特権だったことでしょうか。しかし彼らは、自然界よりももっと確実な啓示を持っていたのにもかかわらず、滅びてしまいました。なぜでしょうか?顔に覆いがあったからです。多くの人々が偏見や不信、世を愛する心を持っていたからです。

 

旧約聖書が指し示していたイエス様が来られた時、人々は、「これは異端の教えだ」と拒否しました。もちろん当時もたくさんの異端の教えがあったのは事実ですが、真理が語られる時も、人々は異端扱いするのです。私は、時にはこのように語っています。「異端だ、と言われる人々をもう一度よく見てください」と。どうしてですか?真理を伝えると異端になるからです。 最近では、「イエス様が再臨される」の「再」と言っただけで大変なことになります。