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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

モーセの信仰より学ぶ  第6回

2015年07月15日 | 日記

 覆いとは何か

 

モーセの儀式律法、その中に含まれている深い光、真理を、ユダヤ人たちも、私たちも見るべきなのです。しかし、覆いがかけられていたらその光が見えないのです。それは悔い改めていない心ということです。不信です。疑う心です。生まれ変っていない霊です。そして偏見を持っていることです。偏見を持っていれば、真理が見えません。

ところが、イエス様のもとへ行けば覆いが取り除かれ理解出来るようになります。それで先ほどの聖句では、「キリストにあってはじめて取り除かれる」と語っています。光を覆ってはいけないのです。コリント第2の手紙3章15節「今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている」。

多くの人が旧約聖書は必要ないと言います。しかし、旧約聖書と新約聖書は本質的に同じ内容のことを語っていて、植物にたとえるなら、旧約聖書は根であり茎ですが、新約聖書は花であり実なのです。ですから、旧約聖書のモーセの律法は、実際には不必要なものではなく、その意味するもの、それが教える教訓はとても大切なものなのです。もちろん私たちは現在、ユダヤの祭りをその通りに守る必要はありません。なぜなら、イエス様が祭の実体になられたので、象徴は必要なくなったからです。ユダヤの祭り、犠牲制度が指し示していた方が来られて、それを完全に満たされたのです。しかし、私たちは間もなく、ユダヤの最後の祭りである仮庵の祭を守るでしょう。イエス様が再臨されて、私たちが天に昇った時に、仮庵の祭の大いなる祝会に参加することになるでしょう。

私たちは、旧約聖書の祭りや聖所制度の中から、多くのことを学ぶことが出来ます。それらは、イエス様を通してなされる救いの全体像、その時間経過などを詳しく教える制度なのです。しかし今日多くの人々は、聖書を見る時に、そこに書かれた文字以上のものを見ることが出来ません。白い紙の上に置かれた黒い文字としてしか見ていないのです。その文字の背後に隠れている、真理の輝き、命の光、私たちに語りかける神様の聖なるみ声として読むことが出来ないのです。それは私たちの心に、不信や疑惑、偏見があるからです。そのために聖書には覆いがかけられていて、その光を見ることが出来ないのです。いいえ聖書に覆いがかけられているのではなく、自分の顏に覆いがかけられているのです。そのために、聖書は数多く出版されていて、多くの人が読むことが出来ても、一つの情報としてしか受け止められず、真理の光、魂の命、生きた神様の言葉として受け入れることが出来ないのです。ですから、顔を覆っているものをキリストにあって取り除きなさい、と言われているのです。そしてモーセのように、神様と顔と顔を会わせて会話する人になりなさいと言われているのです。

「しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる」(Ⅱコリント3:16)。

主に心が向く時に初めて、聖書が理解できるようになります。それまで、一つの物語、遠い過去の、遠い国の、自分とは関係のない話だったものが、生き生きとした、自分自身の物語として浮かび上がって来るのです。覆いがかけられて真っ暗だったものが、急に理解できるようになります。


モーセの信仰より学ぶ 第5回

2015年07月14日 | 日記

    覆いを取りのけよ           

モーセは神様とお会いする時、恐れながらも喜んで主のみ前に進んで行きました。しかし、イスラエルの民の心の中には、本質的に神様に立ちする反逆の思いや、人に対する悪意、隣人を憎む者、金銭を愛する心があったので、神様の戒めの内容の崇高さを見た時、何度も後ろに退くことになってしまいました。
 モーセは主に義とされ光の中を歩んでいたので、その戒めの前に、喜んで進み出て行きました。民は暗闇の中にいて、光よりも闇を愛していたために、光の下に来ようとしませんでした。光にさらされると、闇は存在することが出来ないからです。

コリント人への第二の手紙3章13からお読みします。

「そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない」。

モーセが山から降りてきた時、彼の顔は輝いていました。それで民たちは彼の顔を見ることが出来ませんでした。民はモーセに、顔に覆いをかけるように頼みました。それでモーセは顔に覆いをかけました。彼は頭全体を何かで覆いました。モーセの顔の輝きは、しばらくしたら消える光でした。モーセは神様ではないので、しばらくしたらその光は消えるのです。しかしユダヤ人にとって、戒めとは近づきがたい、罪人が目を背け、覆いをかけなければ見られないような光り輝くものでした。

布で顔を覆ったら前が見えません。それで使徒パウロは、モーセが顔を覆ったことを例にあげて、その当時のクリスチャンや現代のクリスチャンに対して、その心の中にある偏見、不信、疑い、そして神様の光や、恵み、真理の深さ、そうしたことを見ることが出来ず悟ることの出来ない状態を、覆いをかけられた姿として語っています。

「実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである」(2コリント3:14)。

この古い契約とは何のことでしょうか?使徒パウロはこれを、旧約聖書の律法とイエス・キリストの十字架のこととして語っているのです。旧約聖書には十戒以外にモーセの律法と呼ばれる儀式律法や民法などがありました。十戒は石の板に書かれ、至聖所の契約の箱の中に置くようにされていましたが、モーセが羊皮紙に書いた数多くのモーセの律法は、その巻物を十戒の契約の箱の横に置くようになっていました(申命記31:26)。

使徒パウロは今ここで何を言っているでしょうか?モーセの儀式律法は、祭、聖所制度、断食日など、彼らが宗教生活を営む上で守るべき教えがたくさんありました。このような儀式律法というのは、実は、イエス・キリストの地上における働き、その役割を示していたのです。

たとえば、種入れぬパンの祭(過越祭)は、イエス様が十字架に架けられたので、民は罪のない生活をしなければならないことを表していました。初穂の祭(揺祭)は過越祭後に初めて収穫した初穂を揺り動かして主に捧げ、その後の収穫を期待するものでした。それはキリストが全人類の初穂として捧げられ天に上げられて、五旬節において聖霊が臨まれ、福音伝道の素晴らしい収穫の働きが開始されることの象徴でした。


モーセの信仰より学ぶ  第4回

2015年07月13日 | 日記

 新しい契約を結ぶ

 

イエス様がこの地上におられた時、聖霊を受けてその力によって天父の戒めを守られたように、人間も聖霊を受けることによって、戒めを守ることが出来ることを示して下さいました。それは、人間を義とするだけではなく、主もまた義とされるためだったのです。

戒めは、神様のご品性の反映であり、神様がどのような方であられるかを教えているものです。ですから戒めは、こんなに堕落した私たちも、神様のみ姿に回復される事を見せてくださるものです。そしてこの戒めは、神様のみ力によってのみ守ることが出来るものなのです。

ある人たちは、律法とは、私たちを叱りつけ罰するムチのようなものだと考えています。これは間違ったに考えです。戒めは絶対そのようなムチではありません。昔神様が律法を与えられた時、電光と雷鳴の中から語られたのは、イスラエルの民に恐れを与えるためでした。彼らは奴隷生活が長く、異教の習慣に浸っていたために、神様を畏れ敬う心が失われていました。心を尽くして神様に感謝を表現する精神が非常に欠けた、奴隷根性むき出しの精神状態だったのです。彼らが放縦な生活に陥らないようにするために、一度真の神様の真の偉大さと恐れの心を植え付けようとされたのです。そして民が、奴隷から解放して下さった神様に対して、「私たちは、主を愛します。主を喜ばせたいと思います。私たちは、偶像を拝んできました。しかしこれからは、アブラハムの神様、天地を創造された神様、稲光の中で戒めを授けて下さった神様にお仕えします。主の戒めを守れるように助けてください」と言うようになることを願われました。

聖霊が心の中に新しい霊を与えて下さると、戒めを守ることが出来るようになります。神様と人との間に、新しい契約が結ばれると、戒めに従うことが出来るようになります。

 戒めは、限りなく高い神様のご性質、神様の聖なるご品性を現す標準であり、そのような美しい品性を私たち人間も持つようになるための招待状でした。「この戒めを、あなたがたも守ることが出来るようにしてあげよう」という招きの言葉でした。律法を通してイエス・キリストのもとに導かれます。ですから招待状です。イエス様は私たちを招いて、「罪なしに生きなさい。私もあなたがたと同じ経験をしました。あなた方が受けることの出来る同じ力で私は罪に勝利したのです。私は神としてではなく、あなたがた人間が勝利できる方法で、罪に勝利しました。だから、あなたがたも勝利できるのです」との招待状を出しておられるのです。 しかし、イスラエルの民はこれを恐れてしまいました。


モーセの信仰より学ぶ 第3回

2015年07月12日 | 日記

    霊的な戦いの武器

 

次にコリント第二の手紙10章3節からお読みします。

「わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。私たちはさまざまな議論を破り・・・」。

私たちが自分の心の中から湧き上がってくる誘惑や、悪魔の試みや挑戦の誘惑、これらのすべてのものと戦うことは、肉に従って戦っているのではないとパウロは言いました。私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。私たちはさまざまな議論を破ると言っています。

10章5節、「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ・・・」

皆さん!これは霊的な闘いであり、その武器は目に見えるものではありません。これは神様の武器であり聖霊の武器です。私たちの中にあるすべての考え、思いまでも捕らえて集中させ、イエス・キリストのみ前に服従させる力です。「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」るようにするものです。神様の御心にかなうようにしてくれるのです。

10章6節、「そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである」。

主のこの強力な武器は、私たちの中に入って来て、私たちのすべての衝動を制御して、私たちの考えとすべての願いを掴んで服従させるので、私たちの感情、考え、意志、欲望、希望、計画、すべてのものが本当に主のみ前に服従し、屈服させられるのです。そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのであると言われています。つまり、神様の民の心が、完全に主に屈服して服従するようになった時、イエス様はこの地に審判を下し、義人を迎えるために、この地に再臨なさることが出来るのです。

神様のあがないのみわざ、神様のみ子が屈辱の道を歩み、十字架に架けられ、完成されたこのあがないの働きはどれほど強力なものでしょうか?それは、罪を犯して滅びて当然の人間を、立ち上がらせ、罪に勝利させ、永遠のみ国に至らせるものなのです。これこそが福音の力です。

イエス様は罪人の身代わりとして、十字架のあがないのいけにえとなられました。私たちと同じ堕落した肉の性質を持って来られて、私たちと同じように、いやそれ以上に強い誘惑を受けられましたが、罪は犯されませんでした。神様のいましめを完全に守られました。

しかし、問題があります。私たち人間もそのように出来るのでしょうか?どうでしょうか?神様が私たちを義とされる時、主ご自身も義となられると言われています。神様が私たちを赦し、私たちの服従が全うされ祝福されるだけではありません。「ああ、神様は正しいお方だ!主の十字架と福音はこんなにもパワフルだ!神様が戒めを与えられたのは、この宇宙の安全と平和のためだったのだ!主が正しい!」。このような叫びが全宇宙に上げられるのです。


モーセの信仰より学ぶ 第2回

2015年07月11日 | 日記

 戒めの精神

神様はどのようなお方でしょうか。神様がご自身の品性を私たち人間の心の中に入れて下さったなら、私たちはどのような生き方をするのでしょうか。もし神様が人間になってこの世に生きていかれるとするなら、どのような人生を生きていかれるのでしょうか?それはどのような心でしょうか。品性はどうでしょうか?神様の品性が、人間の肉体の中に表現されたなら、どのようになるのか、それを言葉で表現したものが十戒でした。主は二枚の石の板に、直接主のみ手で十戒を彫り刻んでくださいました。十戒は神様の政府の基礎、神様の愛の現れ、神様の品性の写しだったのです。

この十戒は、実際には人間が罪を犯した後に見せてくださったものです。神様は十戒を与える時、私たち自身の力ではまったく守ることが出来ない、非常に高いレベルの戒めを与えられました。神様がそのようにされたのは理由があります。戒めを守るためには、戒めの精神を受けなければなりません。戒めは、霊なる神様のご品性の現れですから、神様の聖なる品性、神様のみ心、そのみ心を私たちが受けたなら、その戒めと一致することが出来るのです。神様の霊をいただくなら、戒めを守ることができるのです。

戒めは、私たちが守ろうと頑張って満たすことが出来るものではなく、戒めを守らせてくださる清い神様の霊、主が与えられる品性の精神、それが私たちの心の中に入って、私たちの心と神様の戒めの精神が一致しなければなりません。そうしたら戒めを守ることが出来るのです。戒めは、私たちが守ろうと努力するのではなく、聖霊が私たちの心の中に入って留まってくださったら自然に守ることが出来るようになるのです。

人々は十戒の意味をよく理解出来ず、ただ聖書に書いてあるとか、読んだことがあるとか、知っているだけに過ぎないことが多くあります。これは、神様のみ力だけで守ることができます。十戒は、生まれ変わった者に与えられた義の標準なのです。生まれ変わってない者、聖霊を受けていない者は戒めを守ることが出来ません。肉は戒めを守ることが出来ないと聖書に書かれている通りです(ローマ8:7参照)。この戒めは、神様のみ力でのみ、守ることができるのです。