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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

モーセの信仰より学ぶ 第1回

2015年07月10日 | 日記

モーセの信仰より学ぶ   デイビット・カン

        神様の栄光を見たモーセ

 「モーセはそのあかしの板二枚を手にして、シナイ山から下ったが、その山を下ったとき、モーセは、さきに主と語ったゆえに、顔の皮が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々とがみな、モーセを見ると、彼の顔の皮が光を放っていたので、彼らは恐れてこれに近づかなかった」(出エジプト記34:29,30)。

モーセがシナイ山で神様と対話して、十戒が書いてある二枚の石の板を受けて降りてきた時に、私たちがよく知っている通り、彼の顔が輝いていたと言われています(出エジプト記34:29)。神様と対話した時に受けた神様の栄光の輝きが、彼の顔にありました。そしてまた、その時だけでなく、時には、モーセが神様と対話するために至聖所に入って、主とお会いして出てくると、彼の顔には神様の栄光の輝きがありました。それを見て民たちは恐れて逃げました。怖くて、彼らはモーセの顔をまともに見ることは出来なかったのです。

しかし、本当に不思議な事は、実際には、彼らも神様の栄光を見ることができ、主の近く行くことができ、主もそうすることを願っておられたのです。事実、主はイスラエル全体を祭司の国として選び、主の栄光の輝きが、イスラエルの民全体にあることを望まれました。

ところが、モーセだけにその輝きの経験があったのです。なぜでしょうか?
出エジプト記19:5,6にはこう書かれています「それで、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。

 皆さん、私たちが知っているとおり、古代のユダヤでは、レビ族だけが祭司になれました。また、その中でアロンの家族だけが祭司の役割をすることになっていました。しかし本当は、イスラエル全体が世界の人々の祭司であると言われているのです。そして彼らが神様の宝の民、聖なる国民として、神様の栄光、そのご品性を表すようにされたのです。


屈服の意味  最終回

2015年07月09日 | 日記

  いさおなき我を

皆さん、「いさおなき我を」という讃美歌をご存知だと思います。私は、この讃美歌のことを思うといつもとても感動します。ビリー・グラハムと言う伝道者がいます。彼が説教を終える時、後ろから合唱、コーラスが入るのですが、よくこの賛美歌が歌われます。この讃美歌、私本当に感動を受けるのですね。この讃美歌の歌詞を書いた人は有名なソプラノ歌手で、シャーロット・エリオットと言う人です。イギリスにいた人ですね。ある時、この人が音楽会を開きました、彼女はとても上手で、すばらしい演奏会でした。

この音楽会に、スポルジョン牧師という方が参加していて、彼女の歌を聞いていました。すばらしい音楽会だったので、人々はもう花をあげたり、おめでとう、素晴らしいですね、と彼女を褒めたのです。ところが、スポルジョン牧師はこのように言ったのです。「姉妹、姉妹の歌も声もとても素晴らしいと思います。ですがひとこと言いたいと思います。姉妹の歌には恵みがありません。とても上手なのですが、心に感動が来ません。神様の恵みを感じられないのです。もしあなたが本当にイエス様に心をささげるなら、あなたの歌を通して多くの人をイエス・キリストに導くでしょう。私は今日から、あなたのために心から祈ります」。そのように言ったのですね。

その歌手は、もう夜眠れなくなりました。そして一晩中、朝が来るまで神様との交わりの中で祈り、ついに自分の全てを捧げて、生まれ変わる経験をしたんです。朝、もう涙を流しながら書いたのがこの、「いさおなき我を、血を持てあがない、イエス招きたもう みもとに我いかん」という讃美歌の歌詞だったのです。やがてこの歌は、父なる神様の前に心をささげる時によく歌われる、献身の歌となりました。 

皆さん、私たちが人々に出逢う時に、その人をイエス様に導けない理由は、私たち自身が、心をイエス様にささげる経験、屈伏する経験、イエス様の石の上に落ちる経験がないからなのです。私たちが、持っているものすべてを主の前にささげて、屈伏していないから、人々に良い感化を与えることが出来ないのです。私たちが心を主に捧げることの意味を、毎日、毎日、深く理解し、体験できるように祈りたいと思います。

お祈りいたします。

父なる神様、私たちがイエス様の石の上に落ちて打ち砕かれて、私たちが完全に打ち砕かれて、神様の御国の実りになるように助けて下さい。私たちの力ではたった一つの義も作り出すことが出来ないことを、しっかりと深く悟り、神様の前にひざまずき、ひれ伏して「主よ私はここにいます、主よ、私の心を受け取ってください」と祈ります。そして、約束して下さったお恵みによって、主よ、もう一度私をあなたの器として用いて下さい。イエス様の品性が私たちの内に現されるようにして下さい。天の神様、私たちは本当に神様の恵みが必要です。毎日、毎日、神様の恵みの必要を深く感じて祈る者とならせて下さい。私たちは本当に神様の恵みなしに、義となることが出来ないことを毎日感じられるようにして下さい。主の前に立つその日まで、毎日、毎日、私たちが心を主に捧げて歩んでいくことが出来るように助けて下さい。愛するイエス様のみ名によって、心からお祈りいたします。アーメン

   「 屈服の意味」最終回です。 次のメッセージをお楽しみに。

 

 

 


屈服の意味 第12回

2015年07月08日 | 日記

古い自己に死んで、信仰によって生きていく、これがクリスチャンの歩みです。このことを思うと、私はいつも感動します。そして私たちはいつでもこのことを心にとめておく必要があります。

でもある人々は、このように考えるのです。神様に全てを任せるとか、屈伏するというと、何か馬鹿みたいに言われるのではないかと。ある人は屈伏すると、神様に従って歩むようになると、世の中を生きていけなくなってしまうと思うかもしれません。皆さん、世の中の人々は、成功した人々、頭が良くて才能がある人々は、自己達成が人生の目標ですから、自己を捨てましょうとか、屈伏と言う言葉を聞くと、もう本当に嫌うのですね。怒り出します。しかし、自分自身の罪深さを告白して、神様の支配下に自分の人生を捧げる、任せる人が、最も幸せな経験をするのです。天からの真の平安がその人の心の中に入って来ます。

ですからパウロは、これからは私が生きるのではなく、私のうちにイエス様が生きて下さると言いました。なぜならイエス様にあって、私はもう十字架についたものであるから、私はイエス様を得るために全てのものを捨てたと、もう本当にすべてを糞土のように思うと言いました。イエス様を知る知識のものすごい価値のゆえに、全てのものは糞土のように色あせてしまったのですね(ピリピ3:8参照)。パウロほど優秀で才能があった人がそのように言ったのですね。しかしそのような彼の生き方とメッセージを通して、多くの人がイエス・キリストにある救いへと導かれていったのです。

「陶器師は、彼の手の中におかれていないものを尊い器になるように形作ることは出来ない。クリスチャンの生涯は、日ごとの屈服と、服従、そして継続的勝利の生涯である。毎日新たな勝利が得られる。自我は見えなくなり、神の愛が絶えず養成されていくのである。こうして生活が、神の型に従って形作られるのである」。(MS55,1900)

 


屈服の意味 第11回

2015年07月07日 | 日記

キリストに似るもの

 私たちが正しい知識に基づいて生きることは、律法主義ではなく、正しい事なのです。屈伏もそうです。神様の御心に従って生きる人が、屈服した神様の民なのです。多くの人が信仰を間違って理解しています。信じていれば何の努力もいらないと考えています。しかし、信仰によって聖なる者となるためには、必ず信仰の努力が必要になるのです。もう1か所読みたいと思います。『新生への道』(キリストへの道)という本に、このようにあります。

「毎朝、神に自分を捧げ、最初の務めとして、次のように祈りましょう。『主よ、しもべのすべてをあなたのものとしてお受け入れ下さい。私のすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべを今日もご用のためにお用いください。どうか、私と共におられて、すべてのことをあなたにあってなさせてください』と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、全ての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行するなり、中止するなりするのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねる時、あなたの生涯がもっとキリストの生涯に似てくるのです」(90p)。

私たちが自分のことを考えるなら、イエス・キリストから離れてしまいます。私たちには常に、イエス様から目を離そうとする反対の勢力が働いています。イエス様から引き離すために、他人の罪や欠点に目を向けさせたり、自分の欠点だったり、世俗の楽しみを与えたり、苦しみや試練だったり、不安だったり、このようなすべてのことを通して、私たちの心をイエス様から引き離そうと企んでいるのですね。このようなサタンの仕掛ける罠がたくさんあります。そこに陥ってはなりません。サタンは良心的に神様のために生きたいと思っている人々にも、弱さや欠点を通してイエス様から目を離させようと、イエス様から目をそらそうとしてきます。私たちは自分を中心に考えて、自分が救われるとか救われないとか考える必要はありません。そういったことを考えても私たちの力にはならないのです。私たちの魂をイエス様に捧げ、イエス様について考え、イエス様について語り、イエス様のうちに自分自身を忘れてしまいましょう。そして使徒パウロが言ったように、生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)と言いましょう。神様に頼る人、神様に全てを任せる人を、神様は必ず守って下さるのです


屈服の意味 第10回

2015年07月06日 | 日記

   信仰と努力

 神様は、選択する力である自由意志を与えて下さったのですけれど、私たちは本質的に自分の力で性格とか欲望とか感情を変えることは出来ません。私自身を神様に仕えるものとすることは出来ません。そのように歩むことが出来ないのです。ですが、私たちはイエス様に仕えようと選択することは出来るのですね。幸いなことに、私たちは意志のすべてを主に捧げることは出来るのです。意志を神様に向けるならば、神様を選ぶならば、その方が深い御心に従って、その内に支えて下さって、すべての性格をキリストの支配下に置いて下さって、清めて下さるのです。意志を捧げることと神様の力によって、生き方に新しい変化が生まれます。屈伏によって、私たちの意志が、神様の力と結びついて新しい人生が始まるのですね。すべての欲望と弱さと衝動が神様の力に屈服して、聖霊に導かれて行くようになるのです。このことは全ての人に可能になるのです。(ローマ8:1~4参照)

皆さん、私たちにとって努力することは必要でしょうか?ある人はこういいます。「私たちは信仰よって義とされ、信仰で救われるのですから努力は必要ないです」と。本当にそうでしょうか。私たちの救いにおいても、努力、聖なる者になるための努力が必要なんです。なぜなら、パウロが、「信仰の戦いをりっぱに戦いなさい」(1テモテ6:16)と言っているからです。「目標を目指して走り」(ピリピ3:14)、「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(ピリピ3:12)と言っています。私はそれを得ようと常に努力していると、パウロは言いました。他の人に福音を伝えながら、自分が滅びることがないように、パウロは自分自身を屈伏させ、打ちたたいているとも述べているんですね。(1コリント9:27)

この世の中の人たちが、どれほど虚しいもののために努力しているでしょうか。それを考えれば、永遠のものを得ようとして、私たちが努力しないということがあるでしょうか、屈伏が必要なのです、屈伏とは、何か感情が高められて、すごく綺麗な音楽が流れて、感傷的な気分が満ちるような、そういうものではないですね。屈伏とは、私が自分自身はもうだめだと思うこと、そしてイエス様の恵みと力と神様の計画に、その方法に、すべての自分の意志を捧げてそれに従うことなのです。

私たちにとって、祈ることは努力でしょうか。朝早く起きて祈ること、これ努力ですね。聖書を読むこと、努力でしょうか。努力ですね。辛い時、苦しい時、主の前にひざまずいて、「主よ助けて下さい」と祈ることは努力でしょうか?努力でなければ何でしょうか?努力が必要なのです。主に心を向ける事、この努力は行いによる義ではありません。

皆さん、車を運転している時に、右に曲がったり左に曲がったり、ストップしたり、信号や標識の通り運転しますね。皆さん、これ律法主義ですか。法律を守ることは律法主義になるのでしょうか。そうではありませんね。必ずしなければならないことです。飛行機を操縦する時、どうでしょうか、計器を見てその計器の言う通りに、目的地はこの方角だからそちらへ進む、速度計がこれくらいだから少し速度を落としたり早くしたり、そうやるのです。これが律法主義でしょうか、そうではありません。