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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

天国、それは本当にあるのか? 第5回

2016年07月20日 | 日記

3.聖徒たちの受ける報いについての聖書の描写

聖徒たちが、天国の真珠の門に到達した時、数えきれないほど多くの天使が都から栄光の冠を持ってくるでしょう。そして冠には、それを受け取る聖徒たちの名前がそれぞれに書いてあり、天使たちがイエス様の元へ冠を運び、愛するイエス様が自らの手で聖徒たちの頭にのせて下さるのです。何という感極まる光景でしょうか!

またイエス様は、聖徒たちにそれぞれ琴を分け与えて下さいます。指揮をする天使に合わせて、皆が巧みに指を動かし琴を奏で、感動で胸いっぱいになりながら美しい聖歌を歌うでしょう。どれほど美しく豊かで、調和された音楽が鳴り響くことでしょうか。

その後で、イエス様は救われる群れを王宮の中へと導いて下さるでしょう。その方は、黄金の取っ手のついた扉を押し開いて、真理を命がけで守り通してきた人々に、「さあ中へ入りなさい」と語りかけられることでしょう。王宮の中にあるものは全てが輝いていて、人の心を魅了するもので満ちています。救いを受けた聖徒たちは、その溢れるほどの栄光をどこでも目にできるのです。

救われた聖徒たちの容貌も、イエス様のように栄光で輝いています。そして主は慈愛深いまなざしで聖徒たちを見つめ、音楽のように美しい声で語りかけられるでしょう。「私は私の魂の労苦に満足しています。あなた方は、この溢れるほどの栄光を永遠に享受することが出来るのです。もうこれ以上、死や、悲しみや涙、そしてどのような苦痛もないのです」。すると、救いを受ける群れはひれ伏し、イエス様の足もとに彼らの冠を差し出し、感激して主を褒め称えるでしょう。主が傷跡のある慈愛深い手で彼らを起きあがらせると、全員が黄金の琴を弾きながら小羊の歌をうたい、その調べが天全体を包み込むでしょう。

天国の光景を描写するには、私たちの言語はあまりにも乏しいものです。もし今、私たちの目で天国や聖徒たちが受ける報いを見ることができたら、その栄光の輝きときらめきに陶酔したまま私たちは叫ぶことでしょう。「あぁ!このうるわしい愛!こんなにも素晴らしい愛!」。しかし、どんな人間の言葉をもってしても、天の栄光や、比類のない救い主の愛の深さを描写することはできません!


天国、それは本当にあるのか? 第4回

2016年07月19日 | 日記

2.再臨の光景

 Q イエス様はどのように再臨されるのですか?

イエス様は、すべての人が見えるように、この地上に再臨されると聖書は言っています。イエス様が来臨される光景を、この地のすべての生きている人々が目にするのです。イエス様が約束されたとおり、輝く雲に乗って、ラッパの音とたくさんの天使たちと共に、父の栄光での中で降臨されるでしょう。

 「ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マタイ 24:27,31)。

 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン」(黙 1:7)。

「人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」(マタ イ16:27)。

 「そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう」(マルコ 13:27)。

 「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(Ⅰテサロニケ 4:16,17)。


天国、それは本当にあるのか? 第3回

2016年07月18日 | 日記

イエス様が地上で暮らしておられた時、自身の再臨に関する真理を明白に証言されました。彼は自分を理解している弟子たちだけでなく、受け入れない書記官やパリサイ人の前でも、再臨に関して次のように言われました。「わたしは言っておく、主の御名によってきたる者に、祝福あれとおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」(マタイ 23:39)。そしてヨハネには「私はすぐに来る」という約束を三回も繰り返されました。

神様の約束である聖書に出てくる。このように一致した証拠によって、キリストが再び来られことは確信せざる得ない証拠となります。私たちの最も信頼できる創造主は、嘘をつかれる方ではありません。イエス様は、必ず再び来られるのです!

使徒パウロは、彼の書の中で、キリストの再臨について何度も触れています。彼が書いた新約聖書には、キリスト再臨に関する真理が頻繁に出てきます。また使徒ヤコブは、「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい」(ヤコ 5:7,8)と諭し、励ましています。

 旧約聖書のヨブは、「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」(ヨブ 19:25)と、再臨の日に主の顔を見る希望について告白し、ペテロは、「極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる」(Ⅱペテロ 3:12,13)と言い、この世の終わりと共に、到来する新しい天と新しい地を見つめるようにと、私たちに勧告しました。

 この世は過ぎ去り、新しい世がすぐに来ます。なぜなら、イエス様が「すぐに来る」と約束されたからです。


天国、それは本当にあるのか? 第2回 

2016年07月17日 | 日記

  再臨の約束と光景、そして聖徒たちへの報償

1.再臨の約束

Q、 聖書のどこに、再臨について書かれているのでしょうか?この世が終わり、新しい世が来るということをどうやって知ることができますか?

 A、 イエス様が再び来られるという約束は、聖書に何回も出てきます。聖書は、この堕落した地球の歴史が終わり、新しい世界が到来すると言っています。(マタイ16:27、ヨハネ14:1~3,1テサロニケ4:13~18、ヘブル9:28、イザヤ25:9など)

 昔、ある海軍将校が愛する妻に約束をしました。「今回で最後の航海にしよう。そしたら、田舎に家を買って、余生をそこでゆっくりと過ごそう」。しかし、彼は不幸にも二度と戻ることはありませんでした。

 ある父親が、5歳の息子にやさしく言いました。「ここで待っていなさい。お父さんはもう少しだけ渓谷を昇ってから戻って来るよ」。しかし、岩場で悲劇が起きたのです。少年は夜明けまでお父さんを待ち続けましたが、結局戻ってくることはありませんでした。

 人間の約束や誓いは、心からのものであったとしても、時には破られてしまいます。しかし、神様の約束は必ず守られるのです。使徒ペテロは、「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない」(Ⅱペテロ 3:9)と宣言しました。使徒ペテロのこの言葉の前後を詳しく見てみると、「主の日 (再臨)」を信じていない人々がいる事実を指摘し、このように言っています。「まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいないと言うであろう」(Ⅱペテロ 3:3,4)。

 また、使徒パウロはイエス様の再臨に関する次のような約束を紹介しています。「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない」(ヘブル 10:37)。聖書の歴史を見ると、創世記の時代からずっとキリスト再臨に関する真理は教えられ、信じられてきました。たとえば、エノク、ヨブ、アブラハム、ダビデ、イザヤ、彼らは全員、主の再臨に関して預言しました(ユダ 14、ヨブ 19:25-27、ヘブル 11:8-16、詩篇 102:16、イザヤ 25:9 参考)。

 ⓐ イエス様が弟子たちに言われた言葉

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ 14:1-3)

 ⓑ イエス様が裁判の時に言明された言葉

「イエスは彼に言われた、あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」(マタイ 26:64)

 Ⓒ イエス様がヨハネに保証された言葉

「見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである。」「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。」「これらのことをあかしするかたが仰せになる、しかり、わたしはすぐに来る。アァメン、主イエスよ、きたりませ。」(黙 22:7,12,20)


天国、それは本当にあるのか?  第1回

2016年07月16日 | 日記

 1.再臨の約束

 天の国、来世の人生、天国に対する信心、そして天国の報償、堕落した地球の回復(救い)などは、クリスチャンにとって、とても切実なものです。天の国についての描写は、聖書にたくさん出てきます。私たちは、キリストが「またおいでになる」(使徒行伝1:11)と言われ、「用意されたすまい」(ヨハネ14:2)に、「あなた方を・・・迎えよう」(ヨハネ14:2)と言われたイエス様の約束を感謝しているものです。また聖書に教えられている言葉を一つひとつ繋ぎ合わせ、天国に対する総体的なイメージを構築することが出来ます。「死後に生命はあるのか、ないのか?」。「あるとしたら、その生とはどのようなもので、どこにあるのか?」。このような質問は、多くの人の心の中に存在しています。では、聖書にある天国の実体についての問題を、質問と返答といった形式で見ていきましょう。

 しかし、この問題を追究する前に強調しておかなければならないことがあります。それは、私たちが真実なクリスチャンであるとすれば、たとえ天国の報償が受けられないとしても、私たちを創造された神様を心から愛し、当然その方に仕えなければならないということです。救いや天国での報償欲しさに信じるという態度は、極めて利己的な初歩の信仰姿勢と言えます。

天国の報償は、成熟した信心を持ったクリスチャンが、熱心に神様を愛し、その方の恩恵と能力によって、神様の性質と品性に似た者とされる時、自然に得られるものです。成熟したクリスチャンは、たとえ、そのような報償がないとしても、神様を真心から愛し、罪の状態から新しく生まれ変わらせて下さった神様の恩恵に感謝し、また毎日の生活で神様と交わる喜びがとても大きいため、ただ神様に仕えながら信仰の歩みを続けていくのです。彼らにとって天国の報償は、結果ではあっても目標そのものではありません。

 あなたもそうでしょうか?天国がないとしても、神様を今のように熱心に信じますか?もう1度、自分自身に問いかけてみて下さい。自分が本当はどんな信仰を持っているのかを・・・。                                        

しかし、迫害や非難、嘲笑の絶えない苦難の人生を歩むクリスチャンにとって、「天国」に対する願望はとても切実なものであることも事実です。愛の神様を知り、私たちが存在する意味、人生の真の目的を悟ったことだけでもありがたいのに、さらに、天に行って愛する神様やイエス様と共に顔を合わせ、永遠に生きていけるという特権はどれほど素晴らしいことでしょうか!愛によって心が一つになった人々と永遠に共に過ごせるとは、どれほど素敵なことでしょうか!

このテキストの学びを通して、天に対するあなたの望みに火がつけられ、困難で辛いことの多い地上の信仰生活に、勇気と活力が与えられることを願っています。