2010年11月7日-1
システムの分類1
定義することは、なんであれ、自由である。だから、システムは実在物だと定めることができる。しかしここでは、より広い領域または射程がとれるように、実在しないもの(この意味が、どうであろうとも)も含めるようにしよう。
したがって、システムの大きな分類(仕分け)として、
表1. システムの大分類
システムーーー物体、つまり物質的個体。
ーーー構築体、つまりわれわれが(どこかに?)構築した個体。たとえば或る概念(的個体)。
ここで、システムとは、対象とできる、あるいはみなし得るものはなんでも言うことにする。なお、唯物論的立場からは、或る概念というものも、概念とはなんらかの物質から構成されるかもしれず、それらの構成要素間を結合する力によって一つのシステムとなっていると、みなす。ここでは人の意思的作用力が、或る概念をまとめて一つとしているものである。もとより、曖昧で漠然とした概念とか、構成要素としては明瞭だが(明瞭性の尺度も認識的観点で変異するので、観点と指標依存的だが)多義的な概念もあるだろう。
しかし問題は、システムを形成している構成要素間の結合力である。これが、構成要素間に働く作用または力によって、システム全体がひとまとまりとして振る舞うことが説明されれば、下位システムの構成要素と構成要素間の結合力で説明できる、このように考えることにしよう(還元という用語は使わない)。
そこで、この世界において存在している結合力を分類することになる。まずは、いわゆる物理的な力の分類を参照することにしよう。
すると、科学的営為の本質とは何かが問題として関わるが、ここではその重要な目的または目標の一つとして、法則性の発見とその定式化を挙げておく。
法則、あるいは法則そのもの(「そのもの」という言い方は、何を指しているのか概して不明瞭なので、ときには議論相手を煙に巻いているだけじゃないか、といったことになるので、避けたいところだが、ここではあえて使う)はどこにあるのか、といったことは、後に取り上げる。ただし、(おそらく唯物論的実在論にとって)
法則は、実在するのか?
或る法則が実在するならば、それは<どこに>実在するのか?
これらは、大問題である(むろん、知らん顔することはできるし、んなこと考えたって、業績にはたぶんなりにくい)。
ここでは、自然において観察されるものとして階層性を一つの大前提としておこう。
もっとも、階層を定義したり同定することがすでに厄介な問題である。たとえば、*** (19** 行方不明)は、物体の空間的尺度における離散性に求めたが、それは認識的な段階といったことである。それでは階層を定義しておらず、或る階層においてはいくつのレベルがあるのか、同定基準も提供されていない。
多少の細胞が死んでも、(多細胞)生物体は生きている。生物体が死んだ直後でも、一部ないし大部分の細胞は生きている場合がある(この現実世界で実際に生起する件数は多いだろう)。ただし構成要素は、それぞれなりに(おおざっぱには細胞の種類別の仕方で)崩壊していく。
個体群とかメタ個体群といったものは、原理的にどこかで明瞭に区分できるわけではないので、恣意的にさだめるしかない。したがって、個体群やメタ個体群と呼ばれているものは、或るレベルとなるものではない。生物体organismまたは生物個体individual organismの振る舞いを記述するには、種などの分類単位で生物体を捉えればよい。そこでは統計学が便利である。個体ー個体群ーメタ個体群ー種、とか、(個体と種は、属員関係membership relationであるから、一つの階層を構成しないことを理解して、種を省いて)、個体ー個体群ーメタ個体群、とかという系列は、決して一つの階層hierarchyではない。
空間的近接性は、なんらかの物体間や生物体間の相互作用をもたらすかもしれない。しかしそれはむろん結合力ではないから、或るまとまりをもたらすものではない。たとえば、いくつかの生物体が塊として認識される空間配置は、なんらかの力の作用または相互作用の結果であるかもしれないだけである。
システムの分類1
定義することは、なんであれ、自由である。だから、システムは実在物だと定めることができる。しかしここでは、より広い領域または射程がとれるように、実在しないもの(この意味が、どうであろうとも)も含めるようにしよう。
したがって、システムの大きな分類(仕分け)として、
表1. システムの大分類
システムーーー物体、つまり物質的個体。
ーーー構築体、つまりわれわれが(どこかに?)構築した個体。たとえば或る概念(的個体)。
ここで、システムとは、対象とできる、あるいはみなし得るものはなんでも言うことにする。なお、唯物論的立場からは、或る概念というものも、概念とはなんらかの物質から構成されるかもしれず、それらの構成要素間を結合する力によって一つのシステムとなっていると、みなす。ここでは人の意思的作用力が、或る概念をまとめて一つとしているものである。もとより、曖昧で漠然とした概念とか、構成要素としては明瞭だが(明瞭性の尺度も認識的観点で変異するので、観点と指標依存的だが)多義的な概念もあるだろう。
しかし問題は、システムを形成している構成要素間の結合力である。これが、構成要素間に働く作用または力によって、システム全体がひとまとまりとして振る舞うことが説明されれば、下位システムの構成要素と構成要素間の結合力で説明できる、このように考えることにしよう(還元という用語は使わない)。
そこで、この世界において存在している結合力を分類することになる。まずは、いわゆる物理的な力の分類を参照することにしよう。
すると、科学的営為の本質とは何かが問題として関わるが、ここではその重要な目的または目標の一つとして、法則性の発見とその定式化を挙げておく。
法則、あるいは法則そのもの(「そのもの」という言い方は、何を指しているのか概して不明瞭なので、ときには議論相手を煙に巻いているだけじゃないか、といったことになるので、避けたいところだが、ここではあえて使う)はどこにあるのか、といったことは、後に取り上げる。ただし、(おそらく唯物論的実在論にとって)
法則は、実在するのか?
或る法則が実在するならば、それは<どこに>実在するのか?
これらは、大問題である(むろん、知らん顔することはできるし、んなこと考えたって、業績にはたぶんなりにくい)。
ここでは、自然において観察されるものとして階層性を一つの大前提としておこう。
もっとも、階層を定義したり同定することがすでに厄介な問題である。たとえば、*** (19** 行方不明)は、物体の空間的尺度における離散性に求めたが、それは認識的な段階といったことである。それでは階層を定義しておらず、或る階層においてはいくつのレベルがあるのか、同定基準も提供されていない。
多少の細胞が死んでも、(多細胞)生物体は生きている。生物体が死んだ直後でも、一部ないし大部分の細胞は生きている場合がある(この現実世界で実際に生起する件数は多いだろう)。ただし構成要素は、それぞれなりに(おおざっぱには細胞の種類別の仕方で)崩壊していく。
個体群とかメタ個体群といったものは、原理的にどこかで明瞭に区分できるわけではないので、恣意的にさだめるしかない。したがって、個体群やメタ個体群と呼ばれているものは、或るレベルとなるものではない。生物体organismまたは生物個体individual organismの振る舞いを記述するには、種などの分類単位で生物体を捉えればよい。そこでは統計学が便利である。個体ー個体群ーメタ個体群ー種、とか、(個体と種は、属員関係membership relationであるから、一つの階層を構成しないことを理解して、種を省いて)、個体ー個体群ーメタ個体群、とかという系列は、決して一つの階層hierarchyではない。
空間的近接性は、なんらかの物体間や生物体間の相互作用をもたらすかもしれない。しかしそれはむろん結合力ではないから、或るまとまりをもたらすものではない。たとえば、いくつかの生物体が塊として認識される空間配置は、なんらかの力の作用または相互作用の結果であるかもしれないだけである。