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クニール・ナセヒの紹介による、ルーマンのリスク論

2011年09月01日 00時39分21秒 | 放射能
2011年9月1日-1
クニール・ナセヒの紹介による、ルーマンのリスク論

  「 災難、すなわち、さまざまな決定から望ましくない結果が生じるのは、決定が誤っていたせいだと思われがちである。けれども、現象をこのように至極単純に縮減してしまうと、損害の発生を実際に防止することができなくなるであろう。これは巨大技術のリスクの問題がすでに示していることである。実際、技術の領域では、一義的な、pならばqという因果性のもとで、現在の決定から生じる未来の結果を算定できるつもりになっていても、絶えず新たに損害が発生する。この計算はそれ自体としてはほとんど誤りなく機能している。??しかし、この計算には、もちろん、損害が発生したあとになってはじめて実際に非のうちどころのないものになるという、決して無視することのできない不都合がつきまとっている。調査委員会は「この状況のなかで誤りとされることやその代わりになすべきだったことを、事後になってはじめてはっきりと申し立てる」ことができるのだと、アメリカの組織社会学者チャールズ・ペロウは書いている(Perrow 1989: 24)。計算を用いる際には、発生した損害はもっばら誤った決定のせいにされる。??だから、調査委員会の診断は、たいていは人災をあげることになっている。しかし、ペローのリスク研究が明らかにしているように、そのように単純に決めつけるのは、何もかも線形的にとらえようとしすぎるからである。〔略〕しかし、リスクをはらんでいる技術的設備が、線形的なシステム、つまりpならばqという因果性によるシステムであることは、ごく稀にしかない。」(クニール・ナセヒ『ルーマン:社会システム理論』: 199-200頁)。

  「見通しがたいとか思いがけないという観念が生まれるのと同時に、損害が発生する理由は社会そのものにあると考えざるをえないという意識も生まれてくる。この場合、社会というのは、行為や決定や不作為のことである。損害の発生を運命だとか天罰だとか罪の報いだとかとみる宗教的解釈によって、不確定性【コンティンジェンシー】の問題にあらかじめ対処することを可能にするような世俗外的な立場は成り立たなくなっているのだから、問題の内在性がいやがうえにも明瞭にならざるをえない。近代社会は損害を産み、その損害にみずから反応しなければならない。」(クニール・ナセヒ『ルーマン:社会システム理論』: 200頁)。
 
  「簡単な公式にまとめれば、確実なのは、絶対的な確実性(安全性)というものはないということだけである。そのかぎりにおいて、技術的設備のようなものの改善によって、リスクの回避という意味での安全性に到達しうると期待することはできない。原子力発電所や航空機やタンカーがより安全に建造され運転されうることは当然である。しかし、安全性のための技術を追加的に投入しても、そこにはまたもや新たなリスクが隠されている。なぜなら、そこでは新しいリスクについての決定が下されているからである。その結果はこうである。すなわち、決定がそれ自身においてリスクをともなうものだとすれば、安全性のための決定もリスクを隠しているのである*62。 〔略〕
 *62 ルーマンはヘルダーリンをもじって、こう書いている(SdR: 103)。
    「コントロールのあるところでは、
     リスクも増大する。」                   」(クニール・ナセヒ『ルーマン:社会システム理論』: 201頁)。
 
  「これまで見てきたようなリスク研究の領域においても、マスメディアや政治の世界においても、観察を主導する区別がリスク管理の基礎にある。それはたいていの場合、リスクと安全性との区別である。
 〔略〕
平たく言えばこうである。リスクと安全性との区別は、事象の次元では、正しい決定を行なえば、リスクはしかるべき処置によって確実に避けられるだろうということを示唆している。しかし、未来は未知のままなのだから、結局、安全性(確実性)の可能性は萎えて、区別の一方の面??リスク??のほうが、他方の面??安全性??に対して拡大していくことになる。〔略〕
それに加えていま一つには、リスクと安全性との区別は、安全性のために、リスクをおかさぬように決定した人も含めて、すべての決定者がリスクを産み出しているのだということを覆い隠している。
 〔略〕
ルーマンは、リスクと安全性という区別をリスクと危険という区別に置き換えることを提案する。リスクと危険という区別は、第二次的観察によって、損害と損害の予想が、誰によって、どのように観察されるかに焦点を合わせる。「生じうる損害は、決定の結果とみられ、したがって決定のせいにされるか、それとも、外的な原因によるものとみられ、したがって環境のせいにされるか、そのどちらかしかない。前の場合にはリスクが、しかも決定のリスクが問題にされ、後の場合には危険が問題にされる」(SdR: 30f.)。損害が現にあることあるいは予想されることを直裁に観察するだけでなく、損害が、誰によって、どのように観察されるかを観察するならば、それが生み出された社会的経過に突き当たって、「決定のせいにするかしないかを理屈で説明すること」(SozA 5: 137)を避けるわけにはいかなくなる。第二次的観察は、観察の不確定性【コンティンジェンシー】をいわば観察された対象のなかへ組み込む。なぜかというと、同じ損害が別のもののせいにされうるからである。すなわち、外部からの危険とされるか、それとも決定のリスクとされるかのいずれかだからである。」(クニール・ナセヒ『ルーマン:社会システム理論』: 202-203頁)。

 わかりにくいが、核心部分をつなぎあわせば、参考になるかもしれない。わかりにくさの点では、「自己言及性」なるものが影響している?

 「制御しなければ暴走する装置は、いずれ災害を招くことになる」という警句を提示したい。

 
[K]
クニール,ゲオルク・ナセヒ,アルミン.1993.(舘野受男・野崎和義・池田貞夫訳 1995.12)[「知」の扉をひらく]ルーマン 社会システム理論.244pp.新泉社.