2011年9月11日-1
美術修行2011年9月11日(日)
桃源台から芦ノ湖を。
大桶谷へ。
レオナール・フジタ展 私のパリ、私のアトリエ/ポーラ美術館/箱根/小田原駅での割引券で1,600円。
日本画は Japanese-style painting、日本の洋画は Japanese western-style paintingとなっていた。
Japanese-style paintingでは、絵画での日本様式をどう定義するのか? 画材(膠と岩彩)で定義するのか、どんな対象を描くかで定義するのか。あるいは、 日本的精神ということか? あるいはそれらのいくつかの組み合わせで定義するのか。
Japanese western-style paintingでのJapaneseは、日本人が描いた絵画ということか、日本の(たとえば日本国内で描かれた)絵画ということか。western-styleを西洋人が描いたという意味に解釈すると、矛盾することになる。油絵を想定しているのか? ならば、水彩画の場合はどうなる?
おそらく、日本画という部門を維持したいので、定義が難しくなるのだろう。日本画という言葉はそれなりに社会的に機能しており、一部の人々には役立っていると思う。しかし、多義的なので、妥当な分類カテゴリーとしては、たとえば膠絵とか膠彩画とすれば、油絵とかアラビアガム(またはアラビアゴム)画とアクリル画というようによりきちんとした分類基準によるものとなる。
むろん現代絵画は、使用素材は様々であり、(たとえば下層は墨と新岩絵具、中層はアクリル、上層は油絵具といった)組み合わせ、または混合する場合も少なくない。したがって、どういう作り方をしているかを記述することになる。鉛筆画の使用素材は、鉛筆、というようにである。
光絵画 photo-pictureの場合は、感光剤が絵具ということになる。カメラという機械は、その絵具の一定の使用方法を提供しているものである。光は筆に相当する。筆の動かし方を制御するのが、(ある種類と程度の)人の意志である。また、どのような形態と色彩のものにするかも、(ある種類と程度の)人の意志である。
では、光図(または光描) photographと光絵画 photo-pictureの違いは、どういうものか。これも種類と程度の問題だが、光図は光による作用に対して、人は変更をそれほど加えないのに対して、光絵画は最初から変更を加えるか、そもそも最初から描く対象を創作する場合である。たとえば、模型を作って配置してそれを撮影するとか、絵画を創ってそれを光的に変更して撮影するとか、後で画像処理するとかは、光絵画である。
上掲の画像は写真だとみなされるだろう。しかしたとえば、いわゆるカメラマンはとうしていると思うが、撮る風景の対象範囲と角度とかを決め、動く場合はどの瞬間を撮るかを狙う。最後の光図の噴煙の配置は、テキトーだが、狙ったと言えないこともない。(ある種類のもとでの)創作度は低いが、零ではない。いわゆる「写真」が芸術になり得るゆえんである。では、幾つかの写真をコラージュしたり、模型を作って撮影するとか、創作度(むしろ作為度というべきか)さえ上げれば、より芸術的になるのか。
美術修行2011年9月11日(日)
桃源台から芦ノ湖を。
大桶谷へ。
レオナール・フジタ展 私のパリ、私のアトリエ/ポーラ美術館/箱根/小田原駅での割引券で1,600円。
日本画は Japanese-style painting、日本の洋画は Japanese western-style paintingとなっていた。
Japanese-style paintingでは、絵画での日本様式をどう定義するのか? 画材(膠と岩彩)で定義するのか、どんな対象を描くかで定義するのか。あるいは、 日本的精神ということか? あるいはそれらのいくつかの組み合わせで定義するのか。
Japanese western-style paintingでのJapaneseは、日本人が描いた絵画ということか、日本の(たとえば日本国内で描かれた)絵画ということか。western-styleを西洋人が描いたという意味に解釈すると、矛盾することになる。油絵を想定しているのか? ならば、水彩画の場合はどうなる?
おそらく、日本画という部門を維持したいので、定義が難しくなるのだろう。日本画という言葉はそれなりに社会的に機能しており、一部の人々には役立っていると思う。しかし、多義的なので、妥当な分類カテゴリーとしては、たとえば膠絵とか膠彩画とすれば、油絵とかアラビアガム(またはアラビアゴム)画とアクリル画というようによりきちんとした分類基準によるものとなる。
むろん現代絵画は、使用素材は様々であり、(たとえば下層は墨と新岩絵具、中層はアクリル、上層は油絵具といった)組み合わせ、または混合する場合も少なくない。したがって、どういう作り方をしているかを記述することになる。鉛筆画の使用素材は、鉛筆、というようにである。
光絵画 photo-pictureの場合は、感光剤が絵具ということになる。カメラという機械は、その絵具の一定の使用方法を提供しているものである。光は筆に相当する。筆の動かし方を制御するのが、(ある種類と程度の)人の意志である。また、どのような形態と色彩のものにするかも、(ある種類と程度の)人の意志である。
では、光図(または光描) photographと光絵画 photo-pictureの違いは、どういうものか。これも種類と程度の問題だが、光図は光による作用に対して、人は変更をそれほど加えないのに対して、光絵画は最初から変更を加えるか、そもそも最初から描く対象を創作する場合である。たとえば、模型を作って配置してそれを撮影するとか、絵画を創ってそれを光的に変更して撮影するとか、後で画像処理するとかは、光絵画である。
上掲の画像は写真だとみなされるだろう。しかしたとえば、いわゆるカメラマンはとうしていると思うが、撮る風景の対象範囲と角度とかを決め、動く場合はどの瞬間を撮るかを狙う。最後の光図の噴煙の配置は、テキトーだが、狙ったと言えないこともない。(ある種類のもとでの)創作度は低いが、零ではない。いわゆる「写真」が芸術になり得るゆえんである。では、幾つかの写真をコラージュしたり、模型を作って撮影するとか、創作度(むしろ作為度というべきか)さえ上げれば、より芸術的になるのか。