2016年7月20日-1
Maynard Smith & Szathma'ry 1999、生命とは何か?[訳出]
『生命の起源 生命の誕生から言語の起源まで』
第1章 生命と情報
生命とは何か? [p.3]
生命を定義するのに、二つの方法がある。一番目は、或るものが、地球上でわれわれが生き物と結びつける一定の性質を持つならば、それは生きていると言うことである。たとえば、成長するとか、刺激に反応するとかである。この接近での一つの問題は、どの諸性質が重要かを決めることである。火星に着陸する最初の宇宙飛行士たちが、6脚で彼らに向かって歩いて来る、前端に二つのレンズを備えた前端と、テレビの皿〔訳注。television
dish とは何のことかわからない〕に似た構造と、そして鋭い棘で囲われた一つの穴を持つ、或る物体を見たならば、それは生きていると想定するだろう。あるいはおそらく、生きている生きものによって作られた人工物だと想定するだろう。しかし、岩々が紫色のねばねばしたもので覆われているのを見つけた場合は、彼らの確信はより少ないだろう。或る生物学者は、そのねばねばしたものが代謝するならば、生きているとたぶん結論することだろう。すなわち、それを構成する原子たちが、その構造の永久的な部分ではなく、周囲の環境から取り込まれており、結合されて様々な化合物を形成し、後には環境へと分泌して戻されるならば、ということである。生きていると一般にみなされる地球上のすべてのものは、 この代謝という性質を持っている。脚、眼、耳、口を、必ずしももっているとは限らない。それゆえ、代謝でもって生命を定義するのは、道理にかなっているようである。しかし、思わぬ障害がある。生きていないものでも、さきほど述べた類いの代謝を持つし、また、生きていると思いたいもので代謝を持たないものがある。これらの点には、後ほど戻ることにしよう。
生きていると定義する一つの代替案は、存在者たちの或る個体群〔集団〕が自然淘汰によって進化するのに必要な諸性質をその個体が持つことというものである。すなわち、存在者たちが生きているのは、増殖、変異、そして遺伝(または、このような存在者たちに由来すること。ラバは増殖しないが、その両親は増殖した)という諸性質を持つ場合である。〔略〕
これらの三つの特定の性質を、生命を定義するものと見なすのは、なぜだろうか?。〔略〕言い換えれば、特定の構造の進化は、環境に、より一般的には物理学と化学の諸法則に、依存する。しかし、増殖と変異と遺伝は、進化を保証しないとしても、少なくとも進化に必要なのである。
」[零試訳20160720]
(Maynard Smith & Szathma'ry 1999: 3-4)。
やれやれ、NASAが採用した、進化による生命の定義とは、残念。
物体が生きているという状態をもたらす機構を考えるべきである。
→Gan'tiのchemotonに言及しているところ(pp.12-13、p.172→は白紙頁、p.171の誤植で、The Principles of Lifeという著書を挙げているだけ)を、検討すべし。
□ 文献 □
Maynard Smith, John & Szathma'ry, Eo"rs. 1999. The Origins of Life: From the Birth of Life to the Origin of Langauge. (vii)+180pp. Oxford University Press. [RfA20??] [p.3- What is life? There are two ways to definfe life. ]
=== 付録
生命論資料 2013-001/Sattler 1986
2013年08月21日 14時46分43秒 | 生命論
2013年8月21日-1
生命論資料 2013-001
Sattler, Rolf. 1986. Biophilosophy: Analytic and Holistic Perspectives. xvi+284pp. Springer-Verlag, Berlin. [P20010603]
第9章 生命とは何か? (pp.211-239)
「生きている有機体〔生物体〕たちは、そのなかで有機体たちが機能しているシステムの一部として考えられるときにのみ、理解され得る。」(Dubos 1983, p.37)
「生命についての適切な諸原理を展開させるという現在の試みは、科学の歴史におけるおそらく最大の概念的危機を表わしている。」(Davenport 1979, p.2)
9.1 はじめに (pp.211-212)
生命の本性については、哲学者たちだけでなく科学者たちによっても大いに議論されてきた(たとえば、Schro"dinger 1944; Bertalanffy 1952, 1975; Portmann 1960, 1974; Waddington 1961, 1968-72; Grene 1965, 1974; Jonas 1966; Blandino 1969; Jacob 1970; Black 1972; Jeuken 1975; Canguilhem 1975; Elsasser 1975, 1981; Grene and Mendelsohn 1976; Heidcamp 1978; Atlan 1979; Bateson 1979; Buckley and Peat 1979; Varela 1979; Morin 1980; Crick 1981; Mercer 1981 を見よ)。きわめてしばしば、生命の特徴づけまたは定義は、生命によって提示されるが、生きていない自然には欠けているという一連の諸性質 a list of properties(または少なくとも単一の性質)から成っていなければならないと言われる。このような接近 approach は、生命と、生命のない自然 inanimate nature、という二元論を信じるところにもとづいている。最近の10年間に、システム思考 systems thinking は、生態系といった、生きている有機体とともにいわゆる生きていない物質を含む、もっと包括的なシステムに、注意を集中させてきた。生態系の特徴づけは、生命と生命のない自然という絶対的な二元論を含意しなくてもよい。この有利な立場からは、生命と実在性をより総体的な見方 global perspective で見ることができるだろう。
明らかに、「生命とは何か」という問いの意味は、先立つ哲学的な諸仮定に依存する。本質主義を支持する者にとってそれは、生命の本質を捜すことである。本質主義には組しないが、それでも生きている自然と生きていない自然という二元論を前提とする者にっとっては、その問いは、生命を定義する必要かつ十分な一性質または諸性質を探し求めることに関わるだろう。他方、還元論者にとって、その問いは、生命に独特の一性質または諸性質の区別だということではなく、むしろ、生きていない物質の水準へとそれらを還元するという問題である。全体の生態系という統合的見解では、それらとは異なる哲学的諸仮定を含意することになるだろう(たとえば、Lewontin et al. 1984、また第10章を見よ)。一般論としては、「生命とは何か」という問いの意味は、『何か』という意味と、『生命』という概念の外延がもととなっている。後者はつまり、『生命』は生きている有機体だけを指すのか、それとも生物圏 biosphere 全体を指すのか、どっちなのか、である。〔20130821試訳〕