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学問修行2017年7月22日(土):J H ウッジャー『生物学の諸原理:批判的研究』生気論と機械論との対立、一部訳

2017年07月22日 00時05分58秒 | 学問修行
2017年7月22日(土)-1
学問修行2017年7月22日(土):J H ウッジャー『生物学の諸原理:批判的研究』生気論と機械論との対立、一部訳
=2017年7月20日-1の増補版



J H ウッジャー
生物学の諸原理:批判的研究
1967改訂版

第2部
生物学的知識の諸問題

第5章
生気論と機械論との対立 antithesis

I

生気論と機械論との間の世に知られた言い争いは、生物科学史のすごく目立った特徴であるが、ときおり想定されるような簡単なものでは決してない。関係のある争点と表明された様々な意見は、単純で明快であるわけでは決してない。そこで、われわれが最初にやるべきことは、いくつかの代表的な見本の検討へと向かう前に、これらの争点を少し解きほぐすことである。(自ら呼んではいないにしても)「生気論者」と呼ばれる人たちの間には、相当の、そして重要な意見の違いがある。そして、対立陣営に属し、「機械論者」の称号を受け入れる人々の間にも、同様の重大な違いがある。よって、だれそれは機械論者だと言ったところで、その人が機械論のどの特定の銘柄〔種類〕なのかを述べない限り、ほとんど情報を与えていない。主要な分割の特徴をはじめに指摘することは、これからにおいて〔今後の〕助けとなることだろう。有機体についての「機械論的見解」と呼ばれてよいものは、二つの主要な基礎の一つに基づくであろう。二つとは、(1)有機体は、ある意味で機械 machine _である_か、あるいは「からくり mechanism 〔仕組み、機構〕」であり、それを越えるものではない。これを、存在論的な意味で、形而上学的な基礎と呼んでよいだろう。(2)一方、有機体についていかなる形而上学的または存在論的な仮定を置くことを避けて、有機体の「本性 nature」がなんであろうとも、有機体は_あたかも_機械であるか「からくり」であるとして扱うことによってのみ科学的に扱うことができると、単に言うのである。こうして、二つの基本的に異なる種類の機械論を、われわれは得たのである。第一のものは、有機体は機械「である」と言うことを明言するので、独断的であり、すでに説明した意味で形而上学的である。他方、二番目のものは、より控えめな主張をしていて、科学は機械的な説明を守る場合にだけ可能だと言う。しかしそれは、生物学的研究の対象の形而上学的本性についてなんらかの言明を行なうことを避けている。これは、それゆえ、方法論的基礎である。」
(Woodger 1967、pp.229-230;第1段落の試訳20170720)。


 「生気論的教義の最初の分割は、まったく同じ性質のものではない。しかし、厳密な意味で生気論という称号が適用できる一つの集団がある。すなわち、かれらの競争相手が研究した有機体に加えて、まったく異なった本性の存在者があると、これらすべては断言する。その存在は、有機体の特異性によって明らかにされる。これは、すべての歴史上の生気論の特徴であり、独断的または形而上学的生気論と呼んでよい。それは、有機体の本性について、積極的に存在論的主張を行なうからである。この話題の残りの書き手たちは、どちらの教派の機械論者にも反対する点で、狭義の生気論者に同意するが、積極的主張を行なう点で生気論者と異なっている。これらの積極的主張が何であるかを二言三言で言うのは容易くない。この段階ではこの集団を「反機械論者」と単に呼び、そうして生気論者との(よく行なわれる)混同を避けるのが良いだろう。では、機械論の主な二つの種類へと戻ろう。
 発見的な見地から、機械論的見解が成功してきたことは、誰もが認めるところである。しかし、その目標に達したと主張する人はいない。独断的機械論者は、有機体は機械_である_と信じるのだが、これは〔=目標を達成していないのは〕単に十分な時間がまだ経っていないからだと言い張るのである。他方、独断的生気論者は、有機体はまったくの機械であることはどんな意味でも決してないと信じるので、機械論的目標に到達することはあり得ないと主張する。こうして両派は予言に賭けることで、各々が未来だけが決めるような主張を行なうのだ。」
(Woodger 1967、pp.229-230;第1段落の試訳20170720)。
【p.230の下から9行目まで。】

〔略〕

【p.231の下から7行目から。】
 「他方、独断的生気論者は、生きている物は、まだ機械論的用語で解明できていないから、また無機的世界では見られない特異性を示すから、異なる身分の存在に属すると言い張るだろう。

〔略〕

これらの二つの見解の違いは、われわれの経験として与えられることへの正しい説明とは何かについての_意見_についての違いである。もし説明が取るべき一般的形式について心を決めたならば、いわゆる「生命の問題」を設定したのであり、さらなる議論は無益である。その身分は一つの言明であり、われわれはどの予言が適中するのかを待ち、見ることができるだけである。
 では、方法論的見地へと戻って、方法論的機械論者に、機械論的説明が科学において認められる唯一のものだという論点を支持するのに何を言わなければならないかを、訊ねることができる。これは明らかに、最初のものとはまったく異なる種類の主張である。ここでの論争は、有機体についてのものではなく、_説明_についてのものである。したがって、生物学的問題ではまったくなく、(広い意味での)論理的問題である。この変化を認識するのに失敗したことから、混同が生じたのかもしれない。混同のもう一つの源は、調査する者と理論づけする者との間の違いにある。調査する者は、発見的成功をもたらす図式に満足するし、機械論的見解はこの分野で優先権をもつように思われる。よって、方法論的機械論を明言する者は、単にこの見地からそうしているのかもしれない。しかし理論生物学の立場からは、このような不満足な状態の位置にとどまることはできない。問題は、見かけよりもはるかに難しい。生物学の方法論者は、【p.231/p.232】機械論的見解が成功しているのかどうかではなく、それが科学的生物学にとって唯一可能な見解なのかどうかを決定するという困難な仕事に遭遇しているのである。このことが本当ならば、結論は明白である。本当ではないのなら、他の可能性が探求されなければならないだろう。後に見るように、さらなる困難が生じる。「機械論的説明」という表現は、極めて漠然としていることによってである。この事実だけが、大変な混乱の原因である。
 ときおり、機械論的見解は「正しい方向に動くことを保つ」(E. B. Wilson)[p.256を見よ。]と言われる。どこへ行こうとしているのか、どれが正しい道なのかを知っていることを、これは含んでいる。」
(Woodger 1967、pp.229-230;第1段落の試訳20170720)。


[W]
Woodger, J.H. 1967(1929). Biological Principles: a Critical Study. Revised Edition. xix+496pp. Routledge and Kegan Paul. [ordered 20031120] [B20031211, 5,262 +763=y16,025]