今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

安国山 華蔵院 国分寺<五智国分寺>( 新潟県上越市五智)

2013年06月18日 | 神社・仏閣
五智国分寺の歴史
天平13(741)年に聖武天皇が日本の平和と繁栄を祈願して建立された越後の国の国分寺、本尊が五智如来なので、五智国分寺ともいう。


安国山 華蔵院 国分寺(五智国分寺)
春日山城跡から車に戻り道路地図を開くとこの近くに大きな赤文字で記載されている五智国分寺。
さっそく次の目的地に設定し、どんな寺なのかと想像しながら運転していると、ほどなく目的地である寺が見えてきた。
寺のすぐ近くに無料の駐車場もありリズムよく境内へと進むことができた。

山門
一礼して山門から入るとふつう受付所があり係の人が一礼して待っていることが多いが、このお寺にはそれがない。
ということは拝観料が必要ないということだ。切り詰めた旅行をしようと心に決めているだけに大変ありがたい気持ちになった。
さて、現在の山門は、天保6年(1835)能生谷小見村(能生町)の七郎左衛門が中心となって再建。
両脇には、仏教の守護神である仁王像が安置されている。
この像は、高さ2.7mの寄木造でできていて、天保7年(1836)に名立町出身の長井要壱と弟子2人によって製作された。









経蔵
山門の右側には大好きな三重の塔があったが、それ以上に気になったのが左方向にある年代物の建築物だ。
寺では古いものほど価値があると単純に理解しているで、さっそく裏側にも回ってみると壊れている箇所があり、しかも放置されたままになっている。
特に説明の立て札もなくやはり勘違いなのかとその時は思っていた。後に登場する男性が現れるまでは。
経蔵の棟札によって、元禄6年(1693)2月22日に上棟されたことがわかり、これは上越市内で記録のはっきり残っている最古の建物ともいわれている。
またこの経蔵には、鉄眼版一切経と呼ばれる一大仏教全集が納められていて、元禄5年の寄進銘が記されている。



三重の塔
寛政6年の火災以後、安政3年(1856)に宮大工曽武川常右衛門、江崎長三郎の手により着工された。その後、慶応元年(1865)に上棟され整備されてきたが、高欄などが未完成のまま現在に至っている。塔の壁面には高田の名工石倉正義銘の十二支と中国十二孝の半分の彫刻がはめ込まれている。






塔好きの私だがこの塔には何か違和感があった。よく見ると相輪部分が変形しているではないか。
写真を撮っていてもバランスが悪い、自然シャッターを押す回数が減っていく。この塔は未完成ということだがシンプルな美しさがある。一日もはやく美人さんになってほしい。



本堂
天平年間(740年代)に、聖武天皇の勅願によって建立された越後国分寺の所在地は現在わかっていない。
永禄5年(1562)上杉謙信によって、現在の場所に再建された。
その後幾度となく災興を繰り返し江戸時代には元禄2年、寛政6年と火災に遭い、現在の本堂は昭和63年焼失(本尊の五智如来も焼失)後の平成9年に再建されたもの。



梵鐘
この梵鐘は、世界初のステンレス製の梵鐘。住友金属直江津工場の鋳造修了記念として、国分寺の再建と人々の幸せを願い寄進されたもの。



竹之内草庵
承元元年(1207)、専修念仏禁止の弾圧により、親鸞聖人は越後の国に流罪となった。
その時、国分寺住職は、聖人とは比叡山で同学の友であり、国司に申し出て境内の五仏のそばに草庵を結び、この国分寺にお住まいになった。その草庵は、竹林に囲まれていたので竹之内草庵と呼ばれるようになった。
また、草庵には聖人が関東に旅立たれる際、別れを惜しむ同行の心根を思い、国分寺の北にある鏡ヶ池に姿を映し刻まれた親鸞聖人坐像が安置されている。






駐車場に戻ろうとしたとき、境内でお見かけていた男性から声をかけられた。五智歴史愛好会の会員でと紹介され、この地域の歴史について説明していただけるとの有り難いお話し。
再び寺に戻り、寺の歴史に加え会の研究結果やご自分の感想も含めて、詳細な説明(先に記載した経蔵の価値や私が気づかなかった細かな彫刻でしるされた意味、敷石の生産地にいたるまで)をしていただいた。さらに続きが。

親鸞聖人上陸の地
承元元(1207)年、念仏停止によって越後国府へ流罪となった親鸞聖人は、居多ヶ浜に上陸した。35歳から42歳までの7年間をこの国府で過ごした。



私は信仰心には欠けているが親鸞聖人は我が家にとっても大切な方である。
五木寛之の小説「親鸞」を含め数冊の書物によりある程度の知識はある。歴史を知るとただの海岸がそうでなくなるから面白い。 
展望台の階段の数が6段ずつに区切られている。「南無阿弥陀仏」の6文字を意識してデザインされているそうだ。



振り返ってみると道路のラインも違う。越後の七不思議「片葉の芦」がデザインされている。



居多(こた)神社<越後一の宮>
居多神社の歴史
大国主命、奴奈川姫、建御名方命を祭神とする式内社である。朝廷から弘仁4(813)年に従五位下を、貞観3(861)年に従四位下を賜った。古代、越後国司の厚い保護を受けて栄えた。
境内には、越後七不思議の一つ「片葉の芦」がある。これは、葉が片方にのみ生える芦が群生しているものである。親鸞が当社に参拝し念じたところ、一夜で境内の芦が片葉になったと伝えられている。



ご利益が縁結び、子宝、安産ということで若い女性の姿が多い。






歴史愛好会の男性の自家用車で私をここまで案内し説明を。そして「五智歴史散歩」という大変立派な冊子まで頂戴した。
また、次回この地にくることがあったら「明静院(木造大日如来座像)」がお勧めですよと笑顔で教えていただいた。あっという間の2時間、感謝の気持ちで一杯になった。
 
撮影:平成25年5月9日

    

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1 コメント

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貴ブログを拝見してのお願い (飯坂 正樹)
2018-03-07 18:12:36
今、出発の刻(たびだちのとき) 管理人様

株式会社スプリックスの飯坂と申します。
突然のご連絡にて、失礼いたします。


私は学校の先生および先生を目指す学生さん向けに授業準備のための
無料情報サイト「フォレスタネット」を運営しております。
https://foresta.education/

この度、貴ブログ「今、出発の刻」に掲載されている記事の数々を
拝見し是非お力をお貸しいただけないかと思い、ご連絡させていただきました。

キャンピングカーまで購入し、全国の史跡を廻られているその情熱に
大変感銘を受けました。また私自身が札幌の出身なのですが、貴ブログには
北海道の旅行記も多数アップされていましたので、そちらも懐かしく、楽しく
拝見させていただきました。


さて、昨今学校の先生は多岐に渡る業務に忙殺され、本業である授業の準備に
十分な時間を費やすことができていません。
そこで我々は全国の先生の授業実践等を共有することで授業準備の効率化や
授業の改善をしていただくために「フォレスタネット」を立ち上げました。

「フォレスタネット」は全国の先生が実践等を共有し合うことで先生方の
授業準備をご支援するサイトです。
日々多数の先生方が投稿をくださっており、それを全国の先生が授業準備や
学級経営に活かしていらっしゃいます。

しかしまだまだ全国の先生をご支援する上で十分とはいえません。
つきましては貴ブログにあります記事について、
是非フォレスタネットにも掲載をさせていただけませんでしょうか。
※掲載は貴殿の名義でさせていただきます。
※掲載のお手間は全て我々の方で代行させていただきます。

貴殿の撮影された写真や説明文は教科書には載っていない資料として、
必ずや全国の先生方の地理や歴史に重宝されると思います。

何卒、ご一考をお願い致します。

ご不明な点も多々あるかと思いますので
何なりとご質問いただければと思います。

この度は突然の不躾なお願いとなり、大変申し訳ございません。

ご連絡をいただける場合には、下記のアドレスまでお願い致します。
m.iisaka@sprix.jp
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