訪問日 令和2年10月4日
極楽山 浄土寺
国宝の「阿弥陀三尊像」で有名な浄土寺。二度目の参拝となる
30枚程撮った頃にカメラに記憶媒体が入っていないことに気付き駐車場へ戻る(汗)
手水舎
「境内案内図」
文殊堂側からの入り口から入る
今上天皇 徳仁 陛下 皇太子時代の参拝記念樹
浄土堂<阿弥陀堂>国宝
奈良時代の僧・行基が建立したとされる「広渡寺」が浄土寺の前身寺院とされる
荒廃していた広渡寺を浄土寺として復興させた実質的な開山は、東大寺大仏・大仏殿の復興に尽力した「重源」である
治承4年(1180年)平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺、興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた
この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった
重源は大仏再興事業の拠点として、日本の7か所に東大寺の「別所」を造った
七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である
浄土堂(阿弥陀堂)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する
堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている
浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ
堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの西光が入る
晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現す劇的な光の演出効果を備えている
鐘楼堂(兵庫県指定文化財)
創建不明。現在のものは寛永9年(1632年)築。入母屋造 本瓦葺 鐘楼
「水向石」
古墳時代の石棺の蓋を再利用したもので、水を溜める場所を設けている
鎮守 八幡神社
拝殿(重要文化財)
文暦2年(1235年)創建。室町時代中期の再建
「狛犬」
拝殿の中央を通り本殿へ
本殿(重要文化財)
文暦2年(1235年)創建。室町時代中期の再建
「傷痍軍人之碑」
収蔵庫
観音像
不動堂
本堂<薬師堂>(重要文化財)
境内には池を中心にして、西に浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代の永正14年(1517年)に再建された薬師堂(本堂)が建つ
この配置は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味している
建久8年(1197年)創建とされ、現在のものは焼失後の永正14年(1517年)築。宝形造、本瓦葺
開山堂(兵庫県指定文化財)
経蔵
「芭蕉句碑」文化9年(1812年)建立
寿(すず)しさは 飛騨の匠の 指図哉 芭蕉
境内を時計回りで歩いてきた
(個人の感想だが)この寺の魅力の8割以上を占めるのが国宝「木造阿弥陀如来及び両脇侍立像」の存在
仏師快慶の代表作
巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)
両脇侍の像高は各々3m70cmある(右・観音菩薩、左・勢至菩薩)
快慶は重源とは近い関係にあり、熱烈な阿弥陀仏信者だったことが知られている
夕方になると、堂内西側の蔀戸から西日が射し、床に反射して、仏像が赤く染まっていくという
撮影 令和2年10月4日
極楽山 浄土寺
国宝の「阿弥陀三尊像」で有名な浄土寺。二度目の参拝となる
30枚程撮った頃にカメラに記憶媒体が入っていないことに気付き駐車場へ戻る(汗)
手水舎
「境内案内図」
文殊堂側からの入り口から入る
今上天皇 徳仁 陛下 皇太子時代の参拝記念樹
浄土堂<阿弥陀堂>国宝
奈良時代の僧・行基が建立したとされる「広渡寺」が浄土寺の前身寺院とされる
荒廃していた広渡寺を浄土寺として復興させた実質的な開山は、東大寺大仏・大仏殿の復興に尽力した「重源」である
治承4年(1180年)平重衡の軍勢による南都焼討で、東大寺、興福寺は壊滅的な打撃を受け、東大寺の大仏殿も焼け落ちた
この大仏・大仏殿の再興の大勧進(総責任者)となったのが、当時61歳の重源であった
重源は大仏再興事業の拠点として、日本の7か所に東大寺の「別所」を造った
七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である
浄土堂(阿弥陀堂)は重源によって建てられたもので、本尊として快慶作の阿弥陀三尊の巨像を安置する
堂は建久5年(1194年)に上棟し、同8年(1197年)に完成供養を行ったと記録されている
浄土堂は境内の西、すなわち極楽浄土の位置する側に建てられ、阿弥陀三尊は東向きに立つ
堂の背後の蔀戸(しとみど、建物の内側または外側へ跳ね上げる形式の戸)を開け放つと背後からの西光が入る
晴れた日の夕刻には堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、雲座の上に位置する三尊像が浮かびあがって来迎の風景を現す劇的な光の演出効果を備えている
鐘楼堂(兵庫県指定文化財)
創建不明。現在のものは寛永9年(1632年)築。入母屋造 本瓦葺 鐘楼
「水向石」
古墳時代の石棺の蓋を再利用したもので、水を溜める場所を設けている
鎮守 八幡神社
拝殿(重要文化財)
文暦2年(1235年)創建。室町時代中期の再建
「狛犬」
拝殿の中央を通り本殿へ
本殿(重要文化財)
文暦2年(1235年)創建。室町時代中期の再建
「傷痍軍人之碑」
収蔵庫
観音像
不動堂
本堂<薬師堂>(重要文化財)
境内には池を中心にして、西に浄土堂(阿弥陀堂)、東に室町時代の永正14年(1517年)に再建された薬師堂(本堂)が建つ
この配置は、東方浄瑠璃世界の教主・薬師如来と西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の居所を意味している
建久8年(1197年)創建とされ、現在のものは焼失後の永正14年(1517年)築。宝形造、本瓦葺
開山堂(兵庫県指定文化財)
経蔵
「芭蕉句碑」文化9年(1812年)建立
寿(すず)しさは 飛騨の匠の 指図哉 芭蕉
境内を時計回りで歩いてきた
(個人の感想だが)この寺の魅力の8割以上を占めるのが国宝「木造阿弥陀如来及び両脇侍立像」の存在
仏師快慶の代表作
巨大な三尊像で、阿弥陀如来は像高5m30cm(須弥壇を含めると7m50cm)
両脇侍の像高は各々3m70cmある(右・観音菩薩、左・勢至菩薩)
快慶は重源とは近い関係にあり、熱烈な阿弥陀仏信者だったことが知られている
夕方になると、堂内西側の蔀戸から西日が射し、床に反射して、仏像が赤く染まっていくという
撮影 令和2年10月4日
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