今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

新田神社(鹿児島県薩摩川内市宮内町1935-2)

2023年08月19日 | 神社・仏閣
訪問日 令和5年5月27日

新田神社
薩摩国一宮
創建は神亀2年(725年)<三国神社伝記による>

二の両部鳥居
約800m先の川内川左岸土手近くに一の鳥居が建っている(知らなかった)
川内川から神社までまっすぐ伸びる「八丁馬場」と呼ばれた参道は桜の名所となっている



新降来橋
鳥居を潜ると大小二つの太鼓橋がある
大きいこの橋は昭和61年に架けられたもの



小さな方は明治25年に架け替えられた石造太鼓橋の降来橋(薩摩川内市指定文化財)
(写真右側に写っている橋だと思うが)この時はその価値も分からずにいた



太鼓橋を渡ると、石段の参道が見えてくる
石段参道入口脇には左右に門守神社が祀られている



東門守神社



西門守神社



旅の疲れもあり石段を上がるのは嫌だと思っていると、数台の車が上へ走って行く姿が見えた
駐車場に戻りその道を進むと石段上に駐車場があった

社殿の礎石
駐車場左側は承安3年(1173年)神火のため焼失した社殿跡地であった



焼失した社殿の礎石の一つ






境内社



末社 高良神社



末社 中央神社



末社 早風神社



新田神社の大樟(薩摩川内市指定文化財)
更に車で坂を上がると、伝承樹齢2000年、年輪生長平均率約650~800年と推定される大樟(おおくす)

与謝野鉄幹・晶子夫妻が参拝に訪れた際に詠んだ歌
「可愛の山の 樟の大樹の 幹半ば 
  うつろとなれど 広き蔭かな」 与謝野鉄幹




子だき狛犬(安産狛犬)









社殿が見えてくる



このような案内板は後のブログ発信のために役立つため撮ってはいるが内容は頭に入っていない



一般の神社では参拝者から見ると拝殿・幣殿・本殿だが
この神社は「勅使殿・舞殿・拝殿・幣殿・本殿」が一直線上に並ぶ



勅使殿(鹿児島県指定文化財)
鹿児島地方独特の建築様式で拝殿の前に勅使殿がある



彫刻



天井画



賽銭箱に菊の御紋






東回廊
この神社は中に入ることができ、間近で社殿を観ることができる
廊下には長椅子も用意されている



社伝によると
「川内の地に到来された天津日高彦火邇邇杵尊(ニニギノミコト)は、この地に千台(センノウテナ)すなわち高殿(高城千台の宮)を築いた
川内(センダイ)の名は、この千台→川内から来ているとされる



舞殿・拝殿(鹿児島県指定文化財)
やがて、ニニギノミコトが亡くなられたのでお墓が造られたがそれが今の「可愛山陵」
そのニニギノミコトの御霊を祀ったのが新田神社の創始である
“新田”という名称には、ニニギノミコトが川内川から水を引いて新しく田圃を作ったという意味が込められているとされる



本殿(鹿児島県指定文化財)
今から八百年程前、承安3年に火災で山の中腹にあった社殿が焼失
朝廷や幕府に伺いをたて現在の山頂に再興した
島津氏が歴代藩主の崇敬は殊に厚く、400年前の慶長年間に島津義久により現社殿のもととなるものが造られた



祭神:本祀一座 天津日高彦火瓊瓊杵尊
   配祀二座 天照皇大御神
        正哉吾勝々速日天忍穂耳尊






可愛山陵(えのやまのみささぎ)
社殿の背後にある墳墓は、明治7年(1874年)宮内省より
皇孫・天津日高彦火邇邇杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト、ニニギノミコト)の陵墓とされた



途中、地元北海道では見ることのできない果実の木



幹の内部が朽ち果てている老木などもある



新田神社のある神亀山の5分の4が陵墓の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ管理している
陵墓と神社が一体となっているのは全国でも珍しいそうだ



大正9年(1920年)3月30日・昭和天皇(当時の皇太子)参拝
昭和37年(1962年)明仁上皇(当時の皇太子)及び上皇后美智子(当時の皇太子妃)参拝
皇族の参拝は9回にも及んでいる






撮影 令和5年5月27日
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