訪問日 令和元年5月29日
護国山 東光寺
元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が建立
吉就は黄檗宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立
萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた
吉就の死後、ここを墓所とし毛利氏の菩提寺となった
総門(重要文化財)
三間二戸八脚門、一重切妻造段違本瓦葺きで、棟の端には鯱の代わりに摩伽羅を飾る、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風の様式
総門正面には慧極筆の「護国山」の額。「元禄癸酉六年孟春吉日(西暦1693年)」と年期が記されている
「乳鋲(ちびょう)」 寺院の門の扉などに打ちつけてあるオッパイのような金具
門をくぐると右手に受付所がある
参道を真っ直ぐ進むと大きな三門が見えてくる
三門(重要文化財)
この門は、東光寺が創建されて121年後の文化9年(1812年)に竣工した。藩主毛利斉熙が寄進した
桁行11.6m、梁間6.7mの三間三戸(柱間が三つ、戸口が三つ)の二階二重門。入母屋造り本瓦葺き
「最勝閣」の額は当山15世大愚衍操禅師によるもの
2階には十八羅漢等が安置されている
「解脱門」の額は即非禅師によるもの
緑の参道は歩いていても気持ちのいいものだ
仙台藩伊達家の両足山大年寺、鳥取藩池田家の龍峯山興禅寺と並んで黄檗宗三大叢林のひとつ
鐘楼(重要文化財)
黄檗宗特有の一重裳階付きの素木造二層式の建物
屋根は入母屋造りで上層部は本瓦葺き
鐘楼の上層には大鐘の外に大太鼓もあり、鼓楼も兼ねている
(植物には興味がないが)小枝の赤色が気になって撮ったことを思い出した
大雄宝殿(重要文化財)
黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼ぶ。「お釈迦様のいらっしゃる所」という意味
元禄11年(1698年)12月に竣工。一重裳階付き、入母屋造、本瓦葺き
大雄宝殿前には、行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為に月台という広場が設けられている
その中央の大きな石を梵壇石といい、戒律を破った僧が懺悔のため坐らされたという
堂内に入る
須彌壇上に長寿院夫人(開基毛利吉就公夫人)の寄付による……
本尊の「釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者」の三尊仏が安置されている
実際の堂内は肉眼では暗くて見えない。文明の利器(カメラと画像処理ソフト)により何とかここまで……
「鬼瓦」 現存する創建当時の鬼瓦として貴重
NHK大河ドラマ「太閤記」放映時のタイトルバックに使用された
史跡 毛利氏廟所
萩藩主3代毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、側室など近親者20余基がある
廟所入り口。慧極禅師の書「無塵勝地(塵無き優れた地)」の額
入口の門より墓碑に到る参道の設計や仕切り石の捉え方などに、黄金分割や遠近法が巧みに用いられ、その荘厳美を見事に演出している
なお初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に廟所がある
秀就の父・輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある
東光寺開基の3代藩主毛利吉就と夫人の墓
各藩主の業績が記されている
墓所には重臣諸家の献上した石灯籠500基が並んでいる
斎堂(食堂)前に吊されている開梛(かいぱん)は、時を報ずるための魚板
木魚の原形となった
東光寺から500mほど離れた場所に松陰の墓がある
久坂玄瑞の墓(禁門の変にて短い生涯を終えた英傑)
高杉晋作の墓(辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」)
吉田松陰の墓
「吉田松陰先生銅像」
題字は当時の佐藤栄作首相
撮影 令和元年5月29日
護国山 東光寺
元禄4年(1691年)萩藩3代藩主毛利吉就が建立
吉就は黄檗宗に帰依して、本山黄檗万福寺に範を求めて広壮な堂を建立
萩出身の高僧・慧極道明禅師を開山に迎えた
吉就の死後、ここを墓所とし毛利氏の菩提寺となった
総門(重要文化財)
三間二戸八脚門、一重切妻造段違本瓦葺きで、棟の端には鯱の代わりに摩伽羅を飾る、中央持ち上げの棟式屋根は黄檗風の様式
総門正面には慧極筆の「護国山」の額。「元禄癸酉六年孟春吉日(西暦1693年)」と年期が記されている
「乳鋲(ちびょう)」 寺院の門の扉などに打ちつけてあるオッパイのような金具
門をくぐると右手に受付所がある
参道を真っ直ぐ進むと大きな三門が見えてくる
三門(重要文化財)
この門は、東光寺が創建されて121年後の文化9年(1812年)に竣工した。藩主毛利斉熙が寄進した
桁行11.6m、梁間6.7mの三間三戸(柱間が三つ、戸口が三つ)の二階二重門。入母屋造り本瓦葺き
「最勝閣」の額は当山15世大愚衍操禅師によるもの
2階には十八羅漢等が安置されている
「解脱門」の額は即非禅師によるもの
緑の参道は歩いていても気持ちのいいものだ
仙台藩伊達家の両足山大年寺、鳥取藩池田家の龍峯山興禅寺と並んで黄檗宗三大叢林のひとつ
鐘楼(重要文化財)
黄檗宗特有の一重裳階付きの素木造二層式の建物
屋根は入母屋造りで上層部は本瓦葺き
鐘楼の上層には大鐘の外に大太鼓もあり、鼓楼も兼ねている
(植物には興味がないが)小枝の赤色が気になって撮ったことを思い出した
大雄宝殿(重要文化財)
黄檗宗では本堂を大雄宝殿と呼ぶ。「お釈迦様のいらっしゃる所」という意味
元禄11年(1698年)12月に竣工。一重裳階付き、入母屋造、本瓦葺き
大雄宝殿前には、行事や法要の時など堂内に入りきれない人々の為に月台という広場が設けられている
その中央の大きな石を梵壇石といい、戒律を破った僧が懺悔のため坐らされたという
堂内に入る
須彌壇上に長寿院夫人(開基毛利吉就公夫人)の寄付による……
本尊の「釈迦如来、脇士迦葉尊者、阿難尊者」の三尊仏が安置されている
実際の堂内は肉眼では暗くて見えない。文明の利器(カメラと画像処理ソフト)により何とかここまで……
「鬼瓦」 現存する創建当時の鬼瓦として貴重
NHK大河ドラマ「太閤記」放映時のタイトルバックに使用された
史跡 毛利氏廟所
萩藩主3代毛利吉就、5代吉元、7代重就、9代斉房、11代斉元の奇数代の藩主の5基と、それぞれの夫人の合計10基の他、側室など近親者20余基がある
廟所入り口。慧極禅師の書「無塵勝地(塵無き優れた地)」の額
入口の門より墓碑に到る参道の設計や仕切り石の捉え方などに、黄金分割や遠近法が巧みに用いられ、その荘厳美を見事に演出している
なお初代秀就と偶数代の藩主は萩市の大照院に廟所がある
秀就の父・輝元の廟所は萩市の天樹院跡にある
東光寺開基の3代藩主毛利吉就と夫人の墓
各藩主の業績が記されている
墓所には重臣諸家の献上した石灯籠500基が並んでいる
斎堂(食堂)前に吊されている開梛(かいぱん)は、時を報ずるための魚板
木魚の原形となった
東光寺から500mほど離れた場所に松陰の墓がある
久坂玄瑞の墓(禁門の変にて短い生涯を終えた英傑)
高杉晋作の墓(辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」)
吉田松陰の墓
「吉田松陰先生銅像」
題字は当時の佐藤栄作首相
撮影 令和元年5月29日
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