奥比叡ドライブウエイにて、横川から西塔(さいとう)に移動する。
到着したのは昼過ぎだが食事を摂っている暇などない。案内板を見ながら参道を進む
親鸞聖人ご修行の地
我が家にとって最も大切な、浄土真宗開祖「親鸞聖人」がご修行された場所である
にない堂(重要文化財)
常行堂・法華堂という同じ形の二堂が、渡り廊下でつながっている。
弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、俗に「弁慶のにない堂」と呼ばれている。
法華と念仏が一体であるという延暦寺の教えを建物で表している
常行堂
山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。
三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない
常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である
90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである
手前が「常行堂」、奥に見える建物が「法華堂」である
法華堂(重要文化財)
法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる
にない堂<弁慶のにない堂>
左が「常行堂」右が「法華堂」 両堂をつなぐ廊下が「にない堂」
近くで説明していたガイドの説明によると、修行僧にどちらかあるいは両方を選ぶという選択ができるそうだ
私も人生の修行を積んできたつもりだが、いまの自分には立ってばかりもいられないし、じっと座っている訳にもいかない。
ガイドの話によると7月ころになるとこのお堂から念仏の声が聞こえてくるという
にない堂も参道の一部になっていて、中央をくぐりと下りの石段へと続く
恵亮堂
恵亮和尚(800~859)を本尊として祀る。体楽大師と称し修力霊験に最も優れた和尚であり、京都の妙法院を創建した
円戒国師寿塔
寿塔とは生前造ったお墓
転法輪堂<釈迦堂>(重要文化財)
西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう
信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させた
現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)
鐘楼
釈迦牟尼佛
西塔政所(延暦寺学問所)
浄土院に向かう途中、4・5台の乗用車に追い越された。乗用車の中には僧侶が乗っていて、追い越す際に一礼していくなどとても礼儀正しいその車が浄土院前に駐まっていた
浄土院(伝教大師御廟)
帽子をとり、門前にて一礼して足を踏み入れたが、その瞬間言葉では言い表すことのできないほどの圧迫感を体全体で感じた
お堂では先ほどの僧侶の読経の声が重々しく聞こえてくる。
ここを訪れた時はここがどのような場所か全く理解していなかった
お堂の裏に回った時にだれかの御廟だとわかったが、この時は「最澄」に結びつかなかった
ただ、「高野山奥の院」とこの雰囲気はとても似ているとは感じていた
弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂した大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した
東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になっている
現在は十二年籠山の僧が毎日、生身の大師に仕えるごとくに奉仕している
次回(東塔)に続く
撮影 平成25年11月13日
到着したのは昼過ぎだが食事を摂っている暇などない。案内板を見ながら参道を進む
親鸞聖人ご修行の地
我が家にとって最も大切な、浄土真宗開祖「親鸞聖人」がご修行された場所である
にない堂(重要文化財)
常行堂・法華堂という同じ形の二堂が、渡り廊下でつながっている。
弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、俗に「弁慶のにない堂」と呼ばれている。
法華と念仏が一体であるという延暦寺の教えを建物で表している
常行堂
山内の院や坊の住職になるためには三年間山にこもり続けなければならない。
三年籠山の場合、一年目は浄土院で最澄廟の世話をする侍真(じしん)の助手を務め、二年目は百日回峰行を、そして三年目には常行堂もしくは法華堂のいずれかで90日間修行しなければならない
常行堂で行う修行(常行三昧)は本尊・阿弥陀如来の周囲を歩き続けるもので、その間念仏を唱えることも許されるが、基本的に禅の一種である
90日間横になることは許されず、一日数時間手すりに寄りかかり仮眠をとるというものである
手前が「常行堂」、奥に見える建物が「法華堂」である
法華堂(重要文化財)
法華堂で行われる行は常坐三昧といわれ、ひたすら坐禅を続け、その姿勢のまま仮眠をとる
にない堂<弁慶のにない堂>
左が「常行堂」右が「法華堂」 両堂をつなぐ廊下が「にない堂」
近くで説明していたガイドの説明によると、修行僧にどちらかあるいは両方を選ぶという選択ができるそうだ
私も人生の修行を積んできたつもりだが、いまの自分には立ってばかりもいられないし、じっと座っている訳にもいかない。
ガイドの話によると7月ころになるとこのお堂から念仏の声が聞こえてくるという
にない堂も参道の一部になっていて、中央をくぐりと下りの石段へと続く
恵亮堂
恵亮和尚(800~859)を本尊として祀る。体楽大師と称し修力霊験に最も優れた和尚であり、京都の妙法院を創建した
円戒国師寿塔
寿塔とは生前造ったお墓
転法輪堂<釈迦堂>(重要文化財)
西塔の中心堂宇で、釈迦堂ともいう
信長による焼き討ちの後、文禄4年(1595年)、当時の園城寺弥勒堂(金堂に相当し、南北朝時代の1347年の建立)を豊臣秀吉が無理やり移築させた
現存する延暦寺の建築では最古のもので本尊は釈迦如来立像(重文)
鐘楼
釈迦牟尼佛
西塔政所(延暦寺学問所)
浄土院に向かう途中、4・5台の乗用車に追い越された。乗用車の中には僧侶が乗っていて、追い越す際に一礼していくなどとても礼儀正しいその車が浄土院前に駐まっていた
浄土院(伝教大師御廟)
帽子をとり、門前にて一礼して足を踏み入れたが、その瞬間言葉では言い表すことのできないほどの圧迫感を体全体で感じた
お堂では先ほどの僧侶の読経の声が重々しく聞こえてくる。
ここを訪れた時はここがどのような場所か全く理解していなかった
お堂の裏に回った時にだれかの御廟だとわかったが、この時は「最澄」に結びつかなかった
ただ、「高野山奥の院」とこの雰囲気はとても似ているとは感じていた
弘仁13年(822年)6月4日、56歳で入寂した大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置した
東塔地域と西塔地域の境目に位置し、所属は東塔地域になっている
現在は十二年籠山の僧が毎日、生身の大師に仕えるごとくに奉仕している
次回(東塔)に続く
撮影 平成25年11月13日
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