訪問日 令和6年5月27日
瑞巌山 高源寺
臨済宗妙心寺派の寺院
円通寺、石龕寺とともに「丹波紅葉三山」の1つとして知られる
大きな石には「高源寺」と彫られている
紅葉で有名な寺院らしいが、新緑の季節も美しい
惣門
弘巌玄猊が柏原藩の支援により再建
額の「丹丘勝處(たんきゅうしょうしょ)」は弘巌玄猊の筆
惣門をくぐると、モミジのトンネルになる
境内の大半のカエデは「天目楓」だが、山モミジ等のカエデもある
紅葉の季節になると、この木々の葉が紅く染まる
歩いてきた坂道を振り返ると惣門が見える
先には白壁の建物が見えてくる
山門(紫鳳楼)
寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊による再建
額には山号の「瑞巌山」と「西天目」
高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派の本山
甲斐(山梨)の「栖雲寺が東天目」と呼ぶのに対して、「高源寺は西天目」と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られている
仏殿(本堂)
享保5年(1720年)頃、天岩明啓禅師による再建
訪れた時には修復作業中で工事車両や道具類が周辺に置かれていた
当時の木材を出来るだけ使用して改修を進めているので時間がかかっているようだ
当山の中心をなす建物で、額にもあるように「灋王殿(ほうおうでん)」ともいう
本尊:釈迦如来坐像(天台宗の僧、恵心僧都の作と伝えられる)
幽霊もたれの松
幽霊水鏡の池(心字池)
境内にある滝
石仏
境内ではいくつかの石仏を目にしている
そのいずれもが、周囲の環境と同化している
高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された
遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師のもとで約10年修行をして悟りを開く
帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建
1326年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、末代紫衣の宣旨を受けた
天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失
その後、享保の始めに天岩明啓禅師が再興
寛政11年(1799年)には、弘巌玄猊禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し、現在に至っている
方丈
弘巌玄猊禅師による再建
庫裏を兼ねている
天目楓
境内の多くのカエデは、「天目楓」と呼ばれている
中国天目山より持ち帰ったカエデを境内に植えたことから始まる
葉が小さく、葉の切れ目が深く、枝が垂れ下がるといわれている
鐘楼
梵鐘は1947年(昭和22年)12月に鋳造
以前の鐘は太平洋戦争中に金属類回収令によって供出
画聖 雪舟作「大痩嶺」
この築山は、中国の大痩嶺をかたどって樹木岩石が配置されている
三笑橋
三重塔(多宝塔)
寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊禅師の建立
中は「輪蔵」という造りで、経典を納めている
周辺を歩いてみたが、塔全体を撮ることができるのは、この場所のみ
正面には三国伝来の印度昆須鳩摩の作と伝えられる開運「毘沙門天」を祀る
高源寺滞在中には降雨はなかったが、駐車場に戻ったころにポツポツ雨が落ちてきた
滞在している兵庫県は線上降雨帯に入り警報が出ているため100km離れた福井県に避難することにした
撮影 令和6年5月27日
瑞巌山 高源寺
臨済宗妙心寺派の寺院
円通寺、石龕寺とともに「丹波紅葉三山」の1つとして知られる
大きな石には「高源寺」と彫られている
紅葉で有名な寺院らしいが、新緑の季節も美しい
惣門
弘巌玄猊が柏原藩の支援により再建
額の「丹丘勝處(たんきゅうしょうしょ)」は弘巌玄猊の筆
惣門をくぐると、モミジのトンネルになる
境内の大半のカエデは「天目楓」だが、山モミジ等のカエデもある
紅葉の季節になると、この木々の葉が紅く染まる
歩いてきた坂道を振り返ると惣門が見える
先には白壁の建物が見えてくる
山門(紫鳳楼)
寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊による再建
額には山号の「瑞巌山」と「西天目」
高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された、臨済宗中峰派の本山
甲斐(山梨)の「栖雲寺が東天目」と呼ぶのに対して、「高源寺は西天目」と呼ばれ、丹波屈指の名刹として知られている
仏殿(本堂)
享保5年(1720年)頃、天岩明啓禅師による再建
訪れた時には修復作業中で工事車両や道具類が周辺に置かれていた
当時の木材を出来るだけ使用して改修を進めているので時間がかかっているようだ
当山の中心をなす建物で、額にもあるように「灋王殿(ほうおうでん)」ともいう
本尊:釈迦如来坐像(天台宗の僧、恵心僧都の作と伝えられる)
幽霊もたれの松
幽霊水鏡の池(心字池)
境内にある滝
石仏
境内ではいくつかの石仏を目にしている
そのいずれもが、周囲の環境と同化している
高源寺は、1325年(鎌倉時代)に遠谿祖雄(えんけいそゆう)禅師によって開創された
遠谿祖雄は、幼少の頃より出家し、1306年に中国に渡り、杭州天目山の中峰国師のもとで約10年修行をして悟りを開く
帰国後、霊夢で得た天目山に似た佐治郷小倉に堂宇を創建
1326年には後醍醐天皇より高源寺号を賜り、また後柏原天皇の代には、勅願所の礼遇を許され、末代紫衣の宣旨を受けた
天正年間、織田信長の丹波攻略で建物をことごとく焼失
その後、享保の始めに天岩明啓禅師が再興
寛政11年(1799年)には、弘巌玄猊禅師が柏原藩の援助を得て再び再建し、現在に至っている
方丈
弘巌玄猊禅師による再建
庫裏を兼ねている
天目楓
境内の多くのカエデは、「天目楓」と呼ばれている
中国天目山より持ち帰ったカエデを境内に植えたことから始まる
葉が小さく、葉の切れ目が深く、枝が垂れ下がるといわれている
鐘楼
梵鐘は1947年(昭和22年)12月に鋳造
以前の鐘は太平洋戦争中に金属類回収令によって供出
画聖 雪舟作「大痩嶺」
この築山は、中国の大痩嶺をかたどって樹木岩石が配置されている
三笑橋
三重塔(多宝塔)
寛政2年(1790年)頃、弘巌玄猊禅師の建立
中は「輪蔵」という造りで、経典を納めている
周辺を歩いてみたが、塔全体を撮ることができるのは、この場所のみ
正面には三国伝来の印度昆須鳩摩の作と伝えられる開運「毘沙門天」を祀る
高源寺滞在中には降雨はなかったが、駐車場に戻ったころにポツポツ雨が落ちてきた
滞在している兵庫県は線上降雨帯に入り警報が出ているため100km離れた福井県に避難することにした
撮影 令和6年5月27日
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