今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手)

2014年01月28日 | 名所・旧跡
男5人旅の2日目、私を含めて2人が希望したのが吉野ヶ里遺跡である

吉野ヶ里遺跡 
弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡
物見やぐらや二重の環濠など防御的な性格が強く日本の城郭の始まりとも言えるものであり、1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見された
現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園となっている

逆茂木・乱杭 
先を尖らせた杭や鋭い枝の付いた木を斜めにたくさん立てて、敵の侵入を防ぐバリケードの役割をはたしていた



外壕<上の写真で確認できる>
吉野ヶ里丘陵の袖部を巡るように外壕が掘削されており、外壕で囲まれた範囲は南北1km以上、東西は最大で0.5km以上


門と鳥形
弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがある



弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられる



環壕入口 
吉野ヶ里集落の、当時の東の正門と考えられている場所



東の正門を始め吉野ヶ里は外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口では、兵士たちが厳重に警備



環壕入口 
南内郭には4棟の大きな高床建物がある。



兵士が南内郭への侵入者を厳重に見張っていたと考えられている



南内郭 ~王や支配者層が住んでいた場所~ 
吉野ヶ里が最盛期を迎えた頃、吉野ヶ里の集落をはじめ、周りのムラを治めていた王やリーダー層の人々が住んでいた場所と考えられている









北内郭 ~まつりごとの場所~ 
吉野ヶ里集落だけでなく、吉野ヶ里を中心とするクニ全体にとって最も重要な場所であったと考えられている



主祭殿(3階建ての建物)
吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられている



主祭殿2階。吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており、吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長が集まる

主祭殿3階。祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っている



この結果は従者によって2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられる 



邪馬台国の女王「卑弥呼」を意識した造りになっている

屋根倉、高床倉庫 
屋根倉には神に供える稲穂や、次の年にまく種籾などを収めていたと考えられる
高床倉庫には北内郭や北墳丘墓での祀りに使われる道具や宝物などの貴重な品々が収められていたと考えられる



高床住居 
正方形に近い、特殊な形をした高床の建物。主祭殿の近くに位置していることから、普段は人前に姿を見せなかったと言われる最高司祭者の住まいだったと考えられている
神聖な人が住む場所であることから、1階部分についても網代で囲われ、建物全体が閉鎖的な空間になっている



北墳丘墓 ~歴代の王の墓~  
吉野ヶ里集落の歴代の王が埋葬されている特別なお墓と考えられている
このお墓は人工的に造られた丘で、違う種類の土を何層にも積み重ね、しっかりと突き固められて造られており、とても丈夫な構造になっている



墳丘の頂部から2m程穴を掘り、さらに掘り下げた穴から横穴を設ける
掘った横穴に甕棺をひとつに据える。甕棺の中に死者を埋葬する



広大な敷地のなかに弥生時代の建物が見事に復元されている
今回は駆け足で見学したが、考えながら、ゆっくり廻ると楽しめる場所だ。今晩は「博多」に宿泊し、夜は「もつ鍋」を食べる予定だ
福岡天神が大好きな運転手のアクセルに力が入る


撮影 平成25年1月15日

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