訪問日 令和5年5月25日
聖寿山 崇福寺 その1
黄檗宗の寺院
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から「超然」を招聘して創建
中国様式の寺院としては日本最古のもの
三門(重要文化財)
寺院の外門で中央と左右に門戸のあることから「三門」と呼ばれる
嘉永2年(1849年)に再建された際、初めて「龍宮門」と呼ばれる様式で造られた
中国で材料を加工し、中国人技術者が建設した建物が多い多い崇福寺の中、この三門は日本人によって建てられた
右側の門
左側の門
三門の彫刻
狛犬
石段
階段途中にある
石仏の目の周りが不気味だ
第一峰門(国宝)
第一峰門は、中国の寧波(ニンポー)で加工された材料を唐船で長崎に運び入れ、元禄8年(1695年)に完成した
別名は唐門・海天門・中門など
第一峰と海天の名称は扁額の文字による
軒下の組物は、「四手先三葉栱」と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がなく、華南地方にも稀という
裏に回ってみる
赤い門扉に描かれているのは青いコウモリと牡丹の花
九州に5件ある国宝建造物の内、長崎市には3件、その内2件が崇福寺にある(あとの1件は大浦天主堂)
この組物、何故か不思議な魅力があり見入ってしまう
金鑪(きんろ)
黄金で作った香炉
護法堂(重要文化財)
享保16年(1731年)の建立
一つの堂に関帝、観音、韋駄天が祀られている
関帝堂
「護法堂」には、面白い伝説が残されている
関帝像の前の供物がネズミに食べられており、和尚が関帝像を責めて右頬を打ったために、関帝像の右頬の漆が剥げてしまった
翌朝になって見てみると、関帝像の隣にいる「韋駄天」の持つ剣にネズミが刺さっていて、関帝の命令でネズミ退治をしたようだったと
これには和尚も驚き、関帝像の右頬を修理させたが、何度漆を塗り直してもうまくいかず、現在も傷が残ったままなのだと
観音堂
天王殿
堂内の扁額『護法蔵』に因み明治43年(1910年)特別保護建造物に選ばれた際に護法堂と名付けられたという
鐘鼓楼(重要文化財)
2階に梵鐘(長崎県指定文化財)を吊り太鼓を配置し、鐘楼と鼓楼を兼ねている
棟札には、享保13年(1728年)の年号と木匠頭 荒木治右衛門の記載
大釜(長崎市指定文化財)
延宝8年(1680年)に起きた不作により米殻不足となり、長崎で多くの餓死者がでた
崇福寺でも施粥(せじゅく)をはじめたが日々1000人を超えるようになった
更に飢饉は続き普通の鍋では間に合わず、鍛冶屋町の鋳物師に注文してこの大釜を造らせた
一度に米630キロ(4200合)を炊き、飢饉に苦しむ3000人に施粥したと伝えられている
多くの人を飢餓から救った「大釜」
次回に続く
撮影 令和5年5月25日
聖寿山 崇福寺 その1
黄檗宗の寺院
寛永6年(1629年) 長崎で貿易を行っていた福建省出身の華僑の人々が、福州から「超然」を招聘して創建
中国様式の寺院としては日本最古のもの
三門(重要文化財)
寺院の外門で中央と左右に門戸のあることから「三門」と呼ばれる
嘉永2年(1849年)に再建された際、初めて「龍宮門」と呼ばれる様式で造られた
中国で材料を加工し、中国人技術者が建設した建物が多い多い崇福寺の中、この三門は日本人によって建てられた
右側の門
左側の門
三門の彫刻
狛犬
石段
階段途中にある
石仏の目の周りが不気味だ
第一峰門(国宝)
第一峰門は、中国の寧波(ニンポー)で加工された材料を唐船で長崎に運び入れ、元禄8年(1695年)に完成した
別名は唐門・海天門・中門など
第一峰と海天の名称は扁額の文字による
軒下の組物は、「四手先三葉栱」と呼ばれる複雑巧緻な詰組は他には例がなく、華南地方にも稀という
裏に回ってみる
赤い門扉に描かれているのは青いコウモリと牡丹の花
九州に5件ある国宝建造物の内、長崎市には3件、その内2件が崇福寺にある(あとの1件は大浦天主堂)
この組物、何故か不思議な魅力があり見入ってしまう
金鑪(きんろ)
黄金で作った香炉
護法堂(重要文化財)
享保16年(1731年)の建立
一つの堂に関帝、観音、韋駄天が祀られている
関帝堂
「護法堂」には、面白い伝説が残されている
関帝像の前の供物がネズミに食べられており、和尚が関帝像を責めて右頬を打ったために、関帝像の右頬の漆が剥げてしまった
翌朝になって見てみると、関帝像の隣にいる「韋駄天」の持つ剣にネズミが刺さっていて、関帝の命令でネズミ退治をしたようだったと
これには和尚も驚き、関帝像の右頬を修理させたが、何度漆を塗り直してもうまくいかず、現在も傷が残ったままなのだと
観音堂
天王殿
堂内の扁額『護法蔵』に因み明治43年(1910年)特別保護建造物に選ばれた際に護法堂と名付けられたという
鐘鼓楼(重要文化財)
2階に梵鐘(長崎県指定文化財)を吊り太鼓を配置し、鐘楼と鼓楼を兼ねている
棟札には、享保13年(1728年)の年号と木匠頭 荒木治右衛門の記載
大釜(長崎市指定文化財)
延宝8年(1680年)に起きた不作により米殻不足となり、長崎で多くの餓死者がでた
崇福寺でも施粥(せじゅく)をはじめたが日々1000人を超えるようになった
更に飢饉は続き普通の鍋では間に合わず、鍛冶屋町の鋳物師に注文してこの大釜を造らせた
一度に米630キロ(4200合)を炊き、飢饉に苦しむ3000人に施粥したと伝えられている
多くの人を飢餓から救った「大釜」
次回に続く
撮影 令和5年5月25日
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます