野間大坊(鶴林山 無量寿院 大御堂寺)
フェリー内で名古屋港から訪れたことのない南知多半島方面を目指すことに決めていた
行き先を調べているうちに興味を持った寺がこの野間大坊(のまだいぼう)である
大門
建久元年(1190年)源頼朝が亡き父義朝の法要に伴い、境内の様々な伽藍を建立した折りに創建された
大門を進むと前方に本堂が視界に入ってくる
周囲から子供たちの声が。間もなく元気で礼儀正しい小学生の集団が本堂前の広場に集まり食事を摂っていた
手水舎
「流灌頂」 水を流すだけで100円は納得できないので止めた
本堂
入母屋造、瓦葺き。宝暦4年(1754年)建立。本尊は阿弥陀三尊
格子の隙間から堂内を見ると阿弥陀三尊像が安置されていた
左から勢至菩薩・阿弥陀如来・観音菩薩
扁額には寺名の「大御堂寺(おおみどうじ)」
天武天皇の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられる
その後空海が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれ
鐘楼堂
鎌倉5代将軍 藤原頼嗣が寄進した梵鐘が掲げてある
梵鐘は尾張地方最古の鐘として重要文化財に指定されている
平康頼公供養塔
平康頼が尾張の国司をしていたとき、源義朝の墓が荒れていたのをみて、水田を寄進し僧侶を常駐させた
後に源氏の子孫がその恩に報いるためにこの供養塔を建立した。実に心温まるいい話だ
鐘楼堂の近くに建立された供養塔
本堂から少し離れたところに客殿がある。お砂踏の入口付近に5~6cm程の小仏がたくさん置かれている
「お砂踏」 ここを歩けばご利益があるというので歩いてみることにした
客殿
豊臣秀吉晩年の居城「伏見桃山城」の一部を寛永年間に移築したもの
「お砂踏」 ここを歩くことにより四国八十八箇所巡拝の疑似体験ができる…
客殿は愛知県重要文化財に指定。本尊は秘仏の開運延命地蔵菩薩
仏像拝観のみ有料。住職不在で説明ができないとのことであきらめた
「厄除けの人形」
「仏足石」
悠紀殿(ゆきでん)
昭和天皇即位後初めての新嘗祭のために京都御所内に建てられた悠紀殿
昭和4年に当時の宮内省より下賜され移築
源頼朝が境内に建立した五重塔に安置されていた「大日如来」が悠紀殿の本尊
「弁財尊天」 良縁と財宝の神。必ず願いが叶うと力強い記載があったので、後者を願う
血の池
平治の乱で敗れ、野間に落ち延びた源義朝が謀反を起こした家来により殺され、その首を洗った池
国に変事が起こると池の色が赤くなるといわれている
「弁財天」
「愛染明王」
大マニ車堂
かなり大きく重いものだが私も回してみた。
「弁天池」
源義朝公の墓所
平治の乱に敗れた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿で入浴中の義朝を欺し討つ
この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる
この故事に因んで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている
織田信孝の墓
信長の三男。本能寺の変後、織田家の跡目争いで秀吉に敗れ大御堂寺南の坊で自害する
池禅尼の塚
源頼朝の命を助けた、平清盛の継母
頼朝は恩を忘れることなく、父義朝の墓とともに供養塔を建立した
源頼朝の父である義朝と織田信長の三男信孝が最後を迎えた場所に立っている
歴史が変わった場所でもある。感慨深い
撮影 平成29年5月10日
フェリー内で名古屋港から訪れたことのない南知多半島方面を目指すことに決めていた
行き先を調べているうちに興味を持った寺がこの野間大坊(のまだいぼう)である
大門
建久元年(1190年)源頼朝が亡き父義朝の法要に伴い、境内の様々な伽藍を建立した折りに創建された
大門を進むと前方に本堂が視界に入ってくる
周囲から子供たちの声が。間もなく元気で礼儀正しい小学生の集団が本堂前の広場に集まり食事を摂っていた
手水舎
「流灌頂」 水を流すだけで100円は納得できないので止めた
本堂
入母屋造、瓦葺き。宝暦4年(1754年)建立。本尊は阿弥陀三尊
格子の隙間から堂内を見ると阿弥陀三尊像が安置されていた
左から勢至菩薩・阿弥陀如来・観音菩薩
扁額には寺名の「大御堂寺(おおみどうじ)」
天武天皇の時代に役小角が建立、聖武天皇の時代に行基により中興されたと伝えられる
その後空海が知多半島を訪れた際に一千座の護摩を炊き庶民の幸福を祈ったといわれ
鐘楼堂
鎌倉5代将軍 藤原頼嗣が寄進した梵鐘が掲げてある
梵鐘は尾張地方最古の鐘として重要文化財に指定されている
平康頼公供養塔
平康頼が尾張の国司をしていたとき、源義朝の墓が荒れていたのをみて、水田を寄進し僧侶を常駐させた
後に源氏の子孫がその恩に報いるためにこの供養塔を建立した。実に心温まるいい話だ
鐘楼堂の近くに建立された供養塔
本堂から少し離れたところに客殿がある。お砂踏の入口付近に5~6cm程の小仏がたくさん置かれている
「お砂踏」 ここを歩けばご利益があるというので歩いてみることにした
客殿
豊臣秀吉晩年の居城「伏見桃山城」の一部を寛永年間に移築したもの
「お砂踏」 ここを歩くことにより四国八十八箇所巡拝の疑似体験ができる…
客殿は愛知県重要文化財に指定。本尊は秘仏の開運延命地蔵菩薩
仏像拝観のみ有料。住職不在で説明ができないとのことであきらめた
「厄除けの人形」
「仏足石」
悠紀殿(ゆきでん)
昭和天皇即位後初めての新嘗祭のために京都御所内に建てられた悠紀殿
昭和4年に当時の宮内省より下賜され移築
源頼朝が境内に建立した五重塔に安置されていた「大日如来」が悠紀殿の本尊
「弁財尊天」 良縁と財宝の神。必ず願いが叶うと力強い記載があったので、後者を願う
血の池
平治の乱で敗れ、野間に落ち延びた源義朝が謀反を起こした家来により殺され、その首を洗った池
国に変事が起こると池の色が赤くなるといわれている
「弁財天」
「愛染明王」
大マニ車堂
かなり大きく重いものだが私も回してみた。
「弁天池」
源義朝公の墓所
平治の乱に敗れた義朝は、随行していた鎌田政清の舅・長田忠致の許に身を寄せるが、忠致・景致父子は平家からの恩賞目当てに湯殿で入浴中の義朝を欺し討つ
この時、義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる
この故事に因んで幅約3センチ、長さ役約40センチの木刀が山のように供えられている
織田信孝の墓
信長の三男。本能寺の変後、織田家の跡目争いで秀吉に敗れ大御堂寺南の坊で自害する
池禅尼の塚
源頼朝の命を助けた、平清盛の継母
頼朝は恩を忘れることなく、父義朝の墓とともに供養塔を建立した
源頼朝の父である義朝と織田信長の三男信孝が最後を迎えた場所に立っている
歴史が変わった場所でもある。感慨深い
撮影 平成29年5月10日