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喜多方発・映画「花の夢」頬を伝う涙。

2008-09-05 18:19:21 | Weblog
蔵の街・喜多方から、昨夜9/4は喜多方プラザにおいて、映画会がありました。
「花の夢」ある中国残留婦人・・中国の大地に置き去りにされた女性たち・・中国四川省地震チャリティー映画会です。姉や知人、そして友達が観に行くよと言ってましたので、いや、私も是非観たかったので行ってきました。
栗原貞子さんのドキュメンタリーです。素晴らしい映画でした。他人事では無かったので私も旧満州からの引揚げ者です。一歩間違えば残留孤児になっていたかもしれません。映画の途中から涙が途切れませんでした。前列で観ていたので(後ろから見える)涙を拭かずに最後まで観ました。

栗原さんは、1944年18歳で満州に渡り翌年日本は敗戦その後35年間「中国残留婦人」として過ごし苦労をしてきました。それは本当に言語に絶する辛い辛い体験の連続なのです。手元のパンフにも書いてありますが「野や山に死んで棄てられた子供、助けられなかった悔しさ、戦争ってなんだ」・・戦争は全てを狂わせてしまいます。何があっても生き抜くと言う強い信念が有ったので今の栗原さんが在ります。映画の中で人の名前が何人か出ました。私は8月16日に私の終戦記念日をブログに書いてますが、予告記事を書いてから16日に投稿してますが、8月にしては最も低いアクセス数でした。・・やはりもう戦後ではなく、過去なんだとおもいました。でも昨夜の映画を観てやはり戦争は全てを狂わせることを語り継がねばなりません。

敗戦、終戦時私は7歳でした、その私でさえ当時の事をまだ覚えています。小学校の校長先生の名前は宮崎先生です、ご夫婦で先生でした。子供さんが3人だったかいました。その宮崎先生一家が16日に呼蘭河の船着場で90余名と共に惨殺されました。2艘めの船で私達と一緒で被弾したのは小林さんの奥さんと古賀さんです。この4名の名前を今でも覚えています。小林さんには一歳位の男の子がいました。旦那さんは(軍か?仕事か?)で会社に居ませんでした。その子を皆で面倒をみるのですが、ハルピンの松花塾で厳寒期に亡くなりました。毎朝午前中の早い時刻に幌付のトラックが各収容所を回り死体を集めにきます。裸のままが多いのです。肌着を着ているのは少なくて、カチンカチンに凍ってますから、その中に在って小林さんの子供は皆で葬儀をあげ白衣を着せ、さらに白木の箱に納めでトラックに積み込みました。あとあとまで話しになっていたので、覚えています。小林さんは何ヶ月かして、松花塾を探し訪ねてきて皆に礼を言って行きました。

母は当時、33歳です。7歳の私と。6歳の妹、そして1歳の妹を連れてハルピンから吉林省の平野農場へそして帰国します昭和21年10月末です。その間移動する時は何時も一番下の妹は私の背かなにありました。母は大きな風呂敷包みを背負い身上道具いっさいを持ってます。私はいつも妹をおんぶしてました。今だからハッキリ言いますが母は何時もすまなそうに「ごめな・・重いべー・重かったらもう置いていってもいいぞ・・しょがねえものなー」と言ってました。その言葉を聞くたびに私は子供ながらに奮い立って、勿論日本まで妹を背負いつづけました。博多へ上陸して母は皆に言われたそうです。「よく女手ひとつで三人も子供をつれて、まして一歳の子供が無事に帰還するなんて希有なことだ」言われたそうです。母は本当に偉かった。

本日の画像は小田付、南町の漆美術博物館です。