日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(ぞの126)

2007-06-22 13:26:13 | Weblog
○昭和51年12月25日(土)晴。
 ファンコニ一症候群(ファンコニ型の再生不良性貧血)の○○君が退院した。蛋白同化ホルモンAnadrolの5mgで維持し、ステロイドホルモン30mgから減量して行って、10mgになった時に退院とした。スゴイ貧血だったが、とても顔色が良くなって帰った。信じられない位だ。今まで何度も輸血されていたのに、自分はしなかった。一度も。貧血があっても結構元気で、それに輸血することにより骨髄を刺激することよりもむしろ造血能を低下させると考えたからだ(輸血したらと周囲から言われてきていたが)。(○○君、それから、ずっと年賀状のやりとりをしていた。数年前に亡くなられたが、亡くなった時、母親からその通知の連絡があった)
(昭和51年7月24日Hb4.3g/dl、昭和51年8月1日Hb6.0g/dl、昭和51年10月25日Hb10.6g/dl、昭和51年12月23日Hb12.9g/dl)
○昭和51年12月27日(月)晴。
 ○ベビ一を帰した。十二指腸穿孔で腹膜炎になっていたのに、しかも、体重が2.050gしかなかったのに、助かった。
 ○○看護婦さんが、「先生が(看護婦さんはもっと優しくあって欲しいと)言ってから、(職場の雰囲気が)変わった」と言った。前よりも、明るい職場になった感じがした。
 この○ベビ一の症例は、私に新生児医療の素晴らしさを教えてくれた。手術した外科医からは、「助からないだろうが・・・」と言う様に言われ、そう父親には説明していた。父親は、毎朝早く、ベビ一室の窓越しから自分の診察とベビ一を真剣に見ていて、「先生、今日は昨日よりも顔色が良くなった」とか「手足の動きが昨日よりもいいごとある」などと言い、術後1週間経って多分大丈夫でしょうと説明した時、泣いていた。私も必死でよく診たが、親も実によく観察していたことを知ってビックリし、又、新生児の生命力の強さに驚かされた(その後、佐伯の西田病院に私がいることを知って、その後数年経てから、大きくなったその子どもを連れて、挨拶に来てくれた)。


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為になるかも知れない本(その125)

2007-06-22 12:00:00 | Weblog
○昭和51年12月24日(金)晴。
 部長回診の時に、梶原先生にいろいろ質問した。梶原部長、よく考えて返事をしてくれる。九大に9カ年間、ここで20カ年間もの長いキャリアがあるのだ。打診、聴診、触診に関しては、医局員は、「神業的」と言う。
 回診の時の言葉数は実に少ないが、その一言一言は実に大きい。沢山の不必要な検査を嫌がり、薬の種類は、少ない。昔は厳しかったそうだが、今は優しい。抗生物質の使い方が実に素晴らしい。自分等がここで如何に一生懸命に頑張っているか、きついかを一番良く知っているのは、この梶原先生しかいない。
 夜に電話すると、ビ一ルを飲んでいて顔が赤くなっていても、どこにいても、直ぐに駆けつけてくれる。深夜患者さんが悪くなっても、朝、6時まで待って(梶原先生は、朝の6時には、既にいつも起きていたので)、電話することが多かった。

*梶原先生が、ある時、次の様に言われた、・・・「ここの小児科医には、遊ぶという言葉はない。小児科医は、朝診察し、帰る時に診察し、悪ければ絶えず診察する。そう、小児科急変するから、24時間働かなければいけない。しかし、忙しい中で生き抜くコツを覚えないといけない。」と。

 梶原先生は、ちょっと診察にきて、主治医にいろいろ助言して、後、診ない感じの(偉い?)人の仕方をとても嫌がっていた。
 よく診ることの大切さを常に強調していた。リコ一ルを検査任せにするドクタ一を叱っていた。検査の結果が出る前に、自分の目で、顕微鏡で直ぐに見て、細菌性かウイルス性かを判断する様に言われていた。自分の目を信じることの大切さを常に強調していた。
 聴診打診触診をとても大切に言う先生で、回診の時に、間違いを訂正していた。幸いなことに、私は、梶原先生から、聴診打診触診を信じてもらえていた。で、何度も聞かれた、「田原先生は、どこで覚えた?」と。で、私は、いつも、「独学です」と返答していた。

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