「チェスト行け!朝がくる」より
「あさが来た」のセリフ『泳ぎ続けるもんだけが時代の波に乗っていける、そういうことかもしれませんなぁ』に感ずるところがある書いたが、どちらかと云えば中島みゆきの「世情」なんぞをバックミュージックに移り気な時代に毒づくことの多い私なので、誠実だけれど不器用で時代の波に乗り損ねる人の方により共感を覚える質でもある。
「呑舟之魚不游支流(呑舟の魚支流に泳がず)」の吉田茂は戦後まさに水を得た魚のように活躍し、その活躍あっての戦後の飛躍的復興であるとは分かってはいるが、その陰で全てを胸にしまい黙って逝った人々、とりわけ吉田茂と同じく外交官出身から総理大臣となり、最期には文官としてはただ1人絞首刑に消えた広田弘毅の存在により深い共感を覚えてもいる。
広田弘毅その人を主人公にした「落日燃ゆ」(城山三郎)で書かれる広田弘毅も、「二つの祖国」(山崎豊子)で書かれる広田弘毅も、位人臣を極め総理大臣にまで上り詰めたにもかかわらず、およそ上手い具合に世の中を泳ぎ時代の波に乗った結果の総理大臣、という感はない。
外交官時代に不遇を託った時期も、いつか大河を泳いでみせると奮起するのではなく、「風車 風が吹くまで昼寝かな」と左遷先のオランダの風景になぞらえ詠っているような人柄だが、そのような人柄にこそ惹かれる自分なので、上手く泳ぐよりは昼寝を好み、三年寝太郎どころか十年寝太郎を決め込んでいるといった現状だ。
そんな私のアンテナにかかるニュースが最近あった。
<9日間断食不眠!延暦寺の荒行「堂入り」釜堀住職が満行 戦後13人目>2015.10.21 10:52産経westより一部引用
比叡山延暦寺(大津市)の荒行「千日回峰行」のうち、比叡山中の明王堂にこもり9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動真言10万回を唱える最大の難行「堂入り」に挑んでいた延暦寺善住院住職、釜堀浩元さん(41)が21日未明、無事満行し、出堂した。達成した行者は8年ぶり、戦後13人目。
千日回峰行は比叡山中などで7年間かけて行われる修行で、1000日間で約4万キロ(地球1周分)を歩く。堂入りは700日目から始まり、不動明王と一体となることを目指す行。
申し訳ないが、話は戦後13人目となる堂入りを達成された御住職についてではない。
天台宗延暦寺の千日回峰行の厳しさは、行の厳しさはもちろんだが、失敗すれば即自決せねばならないため小刀を忍ばせての行であるとことからも、求められる覚悟(精神性)の厳しさは想像を絶するものだと分かる。
この厳しい千日回峰行を二度までも達成させた大阿闍梨が戦後一人おられた。
酒井雄哉大阿闍梨
もう何年も前にラジオで聞いたお話なので正確でない所もあるかもしれないが、酒井大阿闍梨は時代の波に上手く乗って泳ぐことが出来なかったからこそ誕生した大阿闍梨であり、そのような酒井大阿闍梨だからこそ多くの人の心身の痛みを救うことができたのだと深く感銘を受けたのだ。
酒井青年は昭和19年、熊本県人吉の予科練に入隊した後に鹿児島県の鹿屋に移るが、そこは特攻隊の基地だった。
戦況が厳しい状況下、優秀な人間からどんどん連れていかれて、亡くなった。
燃料を無駄にできないため敵機に正確に体当たりできる操縦法が要求され、それが出来るのは優秀な人間ばかりだから、優秀な若者から亡くなっていったのだ。
特攻で出撃する若者だけが亡くなったのではない。
基地は連日米軍の空襲を受けた。
訓練最中に猛攻撃を受けたある日のこと、みんな一斉に森へと走って逃げたが、足が速い者が森に入るなりそこが爆撃を受け、酒井氏以外の多くの仲間は亡くなった。酒井氏は足が遅いため逃げ遅れ、敵機の下を逃げ回っているうちに、森が爆撃されたのだ。
優秀な人間、行動力のある人間が次々に亡くなるのを目の当たりにし、『なんでこいつでなくて俺が生き残ってしまったんだ・・・・・』と世の無常に呆然としたたまま酒井氏は終戦を迎えたが、そこで抱えた無常感は戦後何年たっても拭うことが出来ず、それは昭和30年代の半ばを過ぎても変わらなかった。
心に無常を抱えたままでは仕事も結婚もうまくはいかず、「これでは本人もダメになってしまうが、酒井氏の周囲の人もその苦しみに巻き込まれてしまう」と、見るに見かねた家族が比叡山に相談されたのが、比叡山延暦寺との出会いだったそうだ。
そして、この無常と向き合った事こそが二度の千日回峰行の達成に繋がっているのだと。
戦後、時代の波を作りそれに上手く乗る人がいなければ、あれほどの復興を遂げることはできなかったのは確かだが、誰も彼もがその波に乗れたわけでも、乗ることを良しとしたわけでもないと思う。
前を向いて生きていかねばならないとしても、取り残された人の心の痛みや無常を一身に抱いて千日回峰行に臨んだ人がいたというのは、何か大切なものを置き去りにしてしまった感のある日本人として、救われる思いがするのだ。
何年も前にラジオで酒井大阿闍梨のお話しを聞いて以来、ずっと酒井大阿闍梨の名は私の心にあったが、先日千日回峰行を達成した御住職のニュースを聞いて、初めて酒井大阿闍梨の本「一日一生」を手に取った。
それは、つづく
「あさが来た」のセリフ『泳ぎ続けるもんだけが時代の波に乗っていける、そういうことかもしれませんなぁ』に感ずるところがある書いたが、どちらかと云えば中島みゆきの「世情」なんぞをバックミュージックに移り気な時代に毒づくことの多い私なので、誠実だけれど不器用で時代の波に乗り損ねる人の方により共感を覚える質でもある。
「呑舟之魚不游支流(呑舟の魚支流に泳がず)」の吉田茂は戦後まさに水を得た魚のように活躍し、その活躍あっての戦後の飛躍的復興であるとは分かってはいるが、その陰で全てを胸にしまい黙って逝った人々、とりわけ吉田茂と同じく外交官出身から総理大臣となり、最期には文官としてはただ1人絞首刑に消えた広田弘毅の存在により深い共感を覚えてもいる。
広田弘毅その人を主人公にした「落日燃ゆ」(城山三郎)で書かれる広田弘毅も、「二つの祖国」(山崎豊子)で書かれる広田弘毅も、位人臣を極め総理大臣にまで上り詰めたにもかかわらず、およそ上手い具合に世の中を泳ぎ時代の波に乗った結果の総理大臣、という感はない。
外交官時代に不遇を託った時期も、いつか大河を泳いでみせると奮起するのではなく、「風車 風が吹くまで昼寝かな」と左遷先のオランダの風景になぞらえ詠っているような人柄だが、そのような人柄にこそ惹かれる自分なので、上手く泳ぐよりは昼寝を好み、三年寝太郎どころか十年寝太郎を決め込んでいるといった現状だ。
そんな私のアンテナにかかるニュースが最近あった。
<9日間断食不眠!延暦寺の荒行「堂入り」釜堀住職が満行 戦後13人目>2015.10.21 10:52産経westより一部引用
比叡山延暦寺(大津市)の荒行「千日回峰行」のうち、比叡山中の明王堂にこもり9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動真言10万回を唱える最大の難行「堂入り」に挑んでいた延暦寺善住院住職、釜堀浩元さん(41)が21日未明、無事満行し、出堂した。達成した行者は8年ぶり、戦後13人目。
千日回峰行は比叡山中などで7年間かけて行われる修行で、1000日間で約4万キロ(地球1周分)を歩く。堂入りは700日目から始まり、不動明王と一体となることを目指す行。
申し訳ないが、話は戦後13人目となる堂入りを達成された御住職についてではない。
天台宗延暦寺の千日回峰行の厳しさは、行の厳しさはもちろんだが、失敗すれば即自決せねばならないため小刀を忍ばせての行であるとことからも、求められる覚悟(精神性)の厳しさは想像を絶するものだと分かる。
この厳しい千日回峰行を二度までも達成させた大阿闍梨が戦後一人おられた。
酒井雄哉大阿闍梨
もう何年も前にラジオで聞いたお話なので正確でない所もあるかもしれないが、酒井大阿闍梨は時代の波に上手く乗って泳ぐことが出来なかったからこそ誕生した大阿闍梨であり、そのような酒井大阿闍梨だからこそ多くの人の心身の痛みを救うことができたのだと深く感銘を受けたのだ。
酒井青年は昭和19年、熊本県人吉の予科練に入隊した後に鹿児島県の鹿屋に移るが、そこは特攻隊の基地だった。
戦況が厳しい状況下、優秀な人間からどんどん連れていかれて、亡くなった。
燃料を無駄にできないため敵機に正確に体当たりできる操縦法が要求され、それが出来るのは優秀な人間ばかりだから、優秀な若者から亡くなっていったのだ。
特攻で出撃する若者だけが亡くなったのではない。
基地は連日米軍の空襲を受けた。
訓練最中に猛攻撃を受けたある日のこと、みんな一斉に森へと走って逃げたが、足が速い者が森に入るなりそこが爆撃を受け、酒井氏以外の多くの仲間は亡くなった。酒井氏は足が遅いため逃げ遅れ、敵機の下を逃げ回っているうちに、森が爆撃されたのだ。
優秀な人間、行動力のある人間が次々に亡くなるのを目の当たりにし、『なんでこいつでなくて俺が生き残ってしまったんだ・・・・・』と世の無常に呆然としたたまま酒井氏は終戦を迎えたが、そこで抱えた無常感は戦後何年たっても拭うことが出来ず、それは昭和30年代の半ばを過ぎても変わらなかった。
心に無常を抱えたままでは仕事も結婚もうまくはいかず、「これでは本人もダメになってしまうが、酒井氏の周囲の人もその苦しみに巻き込まれてしまう」と、見るに見かねた家族が比叡山に相談されたのが、比叡山延暦寺との出会いだったそうだ。
そして、この無常と向き合った事こそが二度の千日回峰行の達成に繋がっているのだと。
戦後、時代の波を作りそれに上手く乗る人がいなければ、あれほどの復興を遂げることはできなかったのは確かだが、誰も彼もがその波に乗れたわけでも、乗ることを良しとしたわけでもないと思う。
前を向いて生きていかねばならないとしても、取り残された人の心の痛みや無常を一身に抱いて千日回峰行に臨んだ人がいたというのは、何か大切なものを置き去りにしてしまった感のある日本人として、救われる思いがするのだ。
何年も前にラジオで酒井大阿闍梨のお話しを聞いて以来、ずっと酒井大阿闍梨の名は私の心にあったが、先日千日回峰行を達成した御住職のニュースを聞いて、初めて酒井大阿闍梨の本「一日一生」を手に取った。
それは、つづく