「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア)と並んで印象に残っている本について書く前に、イギリス出張中の家人がメールで知らせてくれたことを備忘録として書いておく。
今年のロンドンの秋は温かいらしく、厚手のコートは今のところ出番がないが、落葉樹の街路樹が多い石畳は落ち葉で敷き詰められ、とても美しいそうだ。
15~6世紀に作られた石づくりの家屋に今もそのまま人が暮らしているという古い街並みに、ロンドンオリンピックのために建設された意匠を凝らした最新施設が上手い具合に融合しているところや、物価は高いが(スーパーの)食料品は意外と安いところなど、住み心地は悪くなく、家人はすっかりロンドンを気に入っている。
これには、ロンドン市長の古い景観を守りながら新しいものを取り入れ発展するという政策も一役かっているようだが、この古いものと新しいものの塩梅の匙加減の上手さが、日本より国土が狭い国ながら今もって大英帝国の威厳を保たせる秘訣でもあるのだろか、それとも三枚舌外交の為せる技だろうかと考えながら家人のイギリス便りを読んでいた。
家人は幸いにも町中にはためく英・中国旗と国家首席を迎えての盛大な王室晩餐会を目の当たりにすんだが、それを伺わせる変化は感じたようだ。
家人の同僚が、イギリスと云えばアレといわれるチェック柄のブランド店に入った時のこと。
にこやかに「チャイニーズ? ジャパニーズ?」と話しかけてきた店員に、「ジャパニーズ」と答えると、明らかに失望の色を浮かべられたいうのだ。これに腹を立てたからというわけではないが同僚は結局そこで買わず、後から店に入ってきたチャイニーズが爆買いするのを、又それを大歓待する店員を見せつけられて、すごすごと店をあとにしたそうだ。
そんな少し寂しい光景もあちこちにはあるそうだが、一つ面白い風景で話を閉じよう。
イギリス人はたいそうバナナが好きなのか、スーパーではバナナが一本でばら売りされていて、老いも若きもイケてる兄ちゃんもイケてる姉ちゃんも歩きながらバナナを食べているが、テロ対策で町にはゴミ箱がないにもかかわらずバナナの皮が落ちていないところも家人は気に入ったところらしい。
ともあれ、ロンドンでも我が町のポプラ並木でも落ち葉は美しく情緒があるものだが、「桐一葉 落ちて天下の秋を知る」と云われるだけあって、葉が散るということは、人を自然の摂理と天下について深い思索へと誘うものかもしれない。
さて、「葉っぱのフレディ」と並んで思い出した物語、冬を前に木に残された二枚の葉っぱの物語「オーリーとトゥルーファー」(アイザック・B・シンガー)について。
「オーリーとトゥルーファー」は英語の読解力の副読本で習った物語で、これを読んだ時は若さゆえに''永遠の愛''という面に惹かれたが、人生の初秋とまではいかないが晩夏ぐらいにはなった私としては、また違った言葉が胸を打つ。
冬を前に他の葉は散ってしまうが、オーリーとトゥルーファーと名付けられた二枚の葉だけは耐えて生き残っていた。他の葉が散り自分達だけが残った理由は分からないが、二人はそれが二人の愛の力のおかげだと信じていた。
風が吹く時も雨が降る時も、数日だけ年上のオーリーは「美しい君がいない人生は考えられない、木から手を離さないで」とトゥーファーを励ますが、「私はもう美しくない、あるのはオーリーへの愛だけよ」と弱々しく答えるトゥーファー。
それに対しオーリーは、「愛の力は何よりも気高く何よりも素晴らしい!」「僕たちがお互いに愛し合っている限り、ずっとここにいるんだよ。風だって、雨だって、嵐だって僕たちを引きちぎることなんてできないよ。今ほど、僕は君を愛したことはないよ。」と更に励ますが、そのオーリーが先に木から離れて逝ってしまう。
失望に暮れるトゥーファーもやがて木から落ちるが、落ちた隣にオーリーがいたので、二人は永遠の愛を感じながら風に舞ってゆく、というのが英語の偏差値を気にしながら読んだ頃に感じた''永遠の愛’’の物語の大意だ。
だが、人生の晩夏あたりで「オーリーとトゥーファー」を再度読んでみると、また違った趣があったのだ。
「体がすっかり乾いてしまい皺しわで、鳥にも憐れまれるような全身黄色になってしまった」と嘆くトゥルーファーに対し、オーリーが「誰が緑だけが美しいと言うのか、すべての色が等しく美しい」と励ますあたりに深く共感し、物語最後のトゥルーファーが感じた''永遠の愛''の''永遠''も、若気の至りの''永遠''とは異なるものとして胸に迫ってくる。
この本は邦訳が出ていないので、私の拙訳だが、物語の最後の「永遠の命」について書かれたところを記しておきたい。
『木の下での目覚めは、彼女(トゥルーファー)がかつて日の出とともに木の上で目覚めた時に感じたものとは違っていました。彼女の恐れや不安の全ては今では消え去っていました。その目覚めは、彼女がかつて感じた事の無い認識をもたらしました。
今彼女は、自分が風の気まぐれに右往左往する葉ではなく、宇宙の一部であると知りました。
彼女の横にはオーリーが横たわっていて、彼らがかつて気付いた事の無い愛をもってお互いに挨拶をしました。
これは、偶然や気まぐれに依存する愛ではなく、宇宙そのものと同じくらい力強い愛でした。
彼らが4月から11月まで昼も夜もずっとずっと怖れていたものは、結局は死ではなく、救いとなりました。
そよ風がやって来てオーリーとトゥルーファーを空中に持ち上げ、そして彼らは、自分自身を解放した者だけが知る無上の喜びをもって舞い上がり、そして永遠に結びついたのです。』
「一日一生」(酒井雄哉)から「葉っぱのフレディ」と「オーリーとトゥルーファー」を思い出し、三冊に通じる「人も動物も植物も自然の一部であり、命の営みのサイクルに入るというということは、永遠の命を得ることに繋がるのだ」ということが、知識としては分かったが、実際問題ではなかなか受け入れられず、ジタバタと騒いで、一分でも一秒でも長生きしておくれと、今日もワンコの介護に勤しんでいる。
そして、ワンコも我々と一緒にいたい気持ちは同じなんだと感じる今日この頃については、又つづく
今年のロンドンの秋は温かいらしく、厚手のコートは今のところ出番がないが、落葉樹の街路樹が多い石畳は落ち葉で敷き詰められ、とても美しいそうだ。
15~6世紀に作られた石づくりの家屋に今もそのまま人が暮らしているという古い街並みに、ロンドンオリンピックのために建設された意匠を凝らした最新施設が上手い具合に融合しているところや、物価は高いが(スーパーの)食料品は意外と安いところなど、住み心地は悪くなく、家人はすっかりロンドンを気に入っている。
これには、ロンドン市長の古い景観を守りながら新しいものを取り入れ発展するという政策も一役かっているようだが、この古いものと新しいものの塩梅の匙加減の上手さが、日本より国土が狭い国ながら今もって大英帝国の威厳を保たせる秘訣でもあるのだろか、それとも三枚舌外交の為せる技だろうかと考えながら家人のイギリス便りを読んでいた。
家人は幸いにも町中にはためく英・中国旗と国家首席を迎えての盛大な王室晩餐会を目の当たりにすんだが、それを伺わせる変化は感じたようだ。
家人の同僚が、イギリスと云えばアレといわれるチェック柄のブランド店に入った時のこと。
にこやかに「チャイニーズ? ジャパニーズ?」と話しかけてきた店員に、「ジャパニーズ」と答えると、明らかに失望の色を浮かべられたいうのだ。これに腹を立てたからというわけではないが同僚は結局そこで買わず、後から店に入ってきたチャイニーズが爆買いするのを、又それを大歓待する店員を見せつけられて、すごすごと店をあとにしたそうだ。
そんな少し寂しい光景もあちこちにはあるそうだが、一つ面白い風景で話を閉じよう。
イギリス人はたいそうバナナが好きなのか、スーパーではバナナが一本でばら売りされていて、老いも若きもイケてる兄ちゃんもイケてる姉ちゃんも歩きながらバナナを食べているが、テロ対策で町にはゴミ箱がないにもかかわらずバナナの皮が落ちていないところも家人は気に入ったところらしい。
ともあれ、ロンドンでも我が町のポプラ並木でも落ち葉は美しく情緒があるものだが、「桐一葉 落ちて天下の秋を知る」と云われるだけあって、葉が散るということは、人を自然の摂理と天下について深い思索へと誘うものかもしれない。
さて、「葉っぱのフレディ」と並んで思い出した物語、冬を前に木に残された二枚の葉っぱの物語「オーリーとトゥルーファー」(アイザック・B・シンガー)について。
「オーリーとトゥルーファー」は英語の読解力の副読本で習った物語で、これを読んだ時は若さゆえに''永遠の愛''という面に惹かれたが、人生の初秋とまではいかないが晩夏ぐらいにはなった私としては、また違った言葉が胸を打つ。
冬を前に他の葉は散ってしまうが、オーリーとトゥルーファーと名付けられた二枚の葉だけは耐えて生き残っていた。他の葉が散り自分達だけが残った理由は分からないが、二人はそれが二人の愛の力のおかげだと信じていた。
風が吹く時も雨が降る時も、数日だけ年上のオーリーは「美しい君がいない人生は考えられない、木から手を離さないで」とトゥーファーを励ますが、「私はもう美しくない、あるのはオーリーへの愛だけよ」と弱々しく答えるトゥーファー。
それに対しオーリーは、「愛の力は何よりも気高く何よりも素晴らしい!」「僕たちがお互いに愛し合っている限り、ずっとここにいるんだよ。風だって、雨だって、嵐だって僕たちを引きちぎることなんてできないよ。今ほど、僕は君を愛したことはないよ。」と更に励ますが、そのオーリーが先に木から離れて逝ってしまう。
失望に暮れるトゥーファーもやがて木から落ちるが、落ちた隣にオーリーがいたので、二人は永遠の愛を感じながら風に舞ってゆく、というのが英語の偏差値を気にしながら読んだ頃に感じた''永遠の愛’’の物語の大意だ。
だが、人生の晩夏あたりで「オーリーとトゥーファー」を再度読んでみると、また違った趣があったのだ。
「体がすっかり乾いてしまい皺しわで、鳥にも憐れまれるような全身黄色になってしまった」と嘆くトゥルーファーに対し、オーリーが「誰が緑だけが美しいと言うのか、すべての色が等しく美しい」と励ますあたりに深く共感し、物語最後のトゥルーファーが感じた''永遠の愛''の''永遠''も、若気の至りの''永遠''とは異なるものとして胸に迫ってくる。
この本は邦訳が出ていないので、私の拙訳だが、物語の最後の「永遠の命」について書かれたところを記しておきたい。
『木の下での目覚めは、彼女(トゥルーファー)がかつて日の出とともに木の上で目覚めた時に感じたものとは違っていました。彼女の恐れや不安の全ては今では消え去っていました。その目覚めは、彼女がかつて感じた事の無い認識をもたらしました。
今彼女は、自分が風の気まぐれに右往左往する葉ではなく、宇宙の一部であると知りました。
彼女の横にはオーリーが横たわっていて、彼らがかつて気付いた事の無い愛をもってお互いに挨拶をしました。
これは、偶然や気まぐれに依存する愛ではなく、宇宙そのものと同じくらい力強い愛でした。
彼らが4月から11月まで昼も夜もずっとずっと怖れていたものは、結局は死ではなく、救いとなりました。
そよ風がやって来てオーリーとトゥルーファーを空中に持ち上げ、そして彼らは、自分自身を解放した者だけが知る無上の喜びをもって舞い上がり、そして永遠に結びついたのです。』
「一日一生」(酒井雄哉)から「葉っぱのフレディ」と「オーリーとトゥルーファー」を思い出し、三冊に通じる「人も動物も植物も自然の一部であり、命の営みのサイクルに入るというということは、永遠の命を得ることに繋がるのだ」ということが、知識としては分かったが、実際問題ではなかなか受け入れられず、ジタバタと騒いで、一分でも一秒でも長生きしておくれと、今日もワンコの介護に勤しんでいる。
そして、ワンコも我々と一緒にいたい気持ちは同じなんだと感じる今日この頃については、又つづく