何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

新しい朝をともにするもの

2015-11-04 21:00:00 | 
「歩く心に朝が来る」のつづき

千日回峰行には「堂入り」や京都大廻り(一日84キロ)などもあるが、そのほとんどは山を歩くことであり、その距離は実に地球一周分4万キロメートルにも及ぶ。
山を歩く荒行といへども、氷壁にピッケルを突き立て攀じるではなく、まさに山を歩くものだが、「不退行」と云われる千日回峰行は首を括るための死出紐を肩にかけ自害用の短刀をさげて出発するとか、その厳しさ故に記録上の達成者は千年以上にも及ぶ延暦寺の歴史のなかでも43人のみだとか聞けば、孤独と向き合いながら歩くことほど厳しいものはないのかもしれない、と思っていた。

しかし、「一日一生」(酒井雄哉)を読めば、酒井大阿闍梨は孤独に苛まれながら歩かれていたわけではない。
『最初はそれなりの覚悟で行にはいったんだけれど、山を歩いているうち、「死」というものの受け止め方が
 まったく変わって来たんだ。』
『山は、同じ道を歩いていても、一日として同じ日はない。毎日毎日、表情を変える。
 季節とともに緑が濃くなり、花は咲きほこり、散っていく。紅葉し、葉は落ち、また季節が巡り芽を吹く』
『動物たちも愛らしい姿を見せて行く。』
『自然の中では、たくさんの生き物たちが繋がり合って生きていて、そして時期が来れば枯れたり、死んだり
 していく。どの生き物も、命が尽きれば他の生き物たちを支えるんだよ。』
『行の最中、力尽きてここで倒れて死んだら、僕の体は小山の土になるんだなぁと思った。
 それが嬉しいような気がした。色々な生き物たちの栄養になれるなら、それは幸せなんだなあ。』
『山を歩いていると、いつしか自然の中に溶け込んで、自然と一体になっていると感じるんですね』

山をたった一人で歩くことで身近に触れた自然の理や生き物の息遣いから命の繋がり合いを感じ、一人で歩く孤独ではなく、『あぁ一人ではないんだなあ、としみじみ思うよ」という感慨とともに行をされた酒井大阿闍梨。
とはいえ、文字通り「たった一人」で歩かれたわけでないそうだ。

酒井大阿闍梨の御供を務めたのは、二匹のワンコ。
『二匹の犬をお供に連れていって犬たちと話をしていたんだ』そうだ。
まさに犬は「人を導くもの、導きの神」と書けば、偉大なる大阿闍梨に失礼でもあり、我田引水に過ぎるだろうか。

不退行の荒行とはいえ、孤独に苛まれ悲壮感を漂わせて行わなければならないわけではない、ようだ。
一番肝心なのは、毎日毎日ほぼ同じことの繰り返しを何年も続けながらも、「一日が一生」と思い『今日一日全力を尽くして明日を迎えようと思える』ことなのかもしれない。
そして、同じことの繰り返しに思える毎日を惰性に流されず、明日という日を新しい自分で迎えることが一番大切で、一番難しいのかもしれない。
そう教えてくれた「一日一生」であった。

合掌


ところで、京都御所は当然のことながら土足厳禁だが、千日回峰行を満行した者のみ御所への土足参内が許されるそうだ。
京都御所といえば、ここ数年毎年秋ごろに皇太子様がご訪問されている。
そのあたりについては、つづく