何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

歩く心に朝がくる

2015-11-03 16:27:07 | 
「心の朝を求めて」のつづき

天台宗比叡山延暦寺の千日回峰行は行の厳しさゆえに、まず許された者だけがそれに臨むことができるが、許されたからといって易々と達成できるような生易しいものではないし、一たび行に入れば失敗は許されない。
失敗すれば即自害できるよう、首をくくる死出紐と小刀を懐に忍ばせての命がけの行である。

それほど過酷な千日回峰行ゆえに延暦寺の記録では満行者は47人、それを二度も達成されたのは千年をこえる比叡山延暦寺の歴史のなかでも酒井大阿闍梨を含めて3人しかいない。

この千日回峰行の厳しさとラジオで知った酒井大阿闍梨の半生から、かってに酒井大阿闍梨のイメージを作り上げていたが、「一日一生」(酒井雄哉)を読むと、それまでのイメージは一変した。

千日回峰行というと、大津市の比叡山・無動寺谷の明王堂に9日間籠もり、断食・断水・不眠・不臥(ふが、体を横たえない)のまま不動真言を10万回唱える「堂入り」が有名であり、まさに命がけの荒行であるが、これは千日回峰行のうちの九日の行であり、残り975日はひたすら歩き続けることをもって行とする。
その距離じつに地球一周分の4万㎞に及ぶという。

この過酷な行も酒井大阿闍梨のお言葉をもってすれば平易なものに感じられる。しかし後からズシリと心に響く何かがあるのだ。
『お寺から出て山を回って、登って、平らなところに出て、そこから下って、また登ってきてもとのお寺に
 辿り着く。千日回峰行はそうして毎日山中40キロの道のりを歩く行だ』
『歩き方は人それぞれ、行者によってみんな違うものだんだ。僕なんか小柄でコンパスが小さいからちょこ
 ちょこ行かないと。今の人達は体が大きいから歩幅を大きくとって歩けるんじゃない?』
・・・・・などと柔らかい筆致で書かれるので、さらりと読めてしまうが、そこは一日一生の覚悟で修業された大阿闍梨のお言葉、そこから続く柔らかいお言葉に考えさせられるものがあるのだ。

『結局、人は自分の歩き方でしか歩けないんだな。自分の歩き方で歩いていかなきゃしょうがないな』
『(文明の機器の発達で人が歩かなくなり、移動距離とスピードが合わなくなっている点について)
 心がおっつかないから迷ったり、生きるのがしんどくなる。世の中だってぎくしゃくしてくる・・・・・。
 もういっぺん振り出しに戻ったり、本来の姿を振り返る必要があるんじゃないかと思う。
 そのためには、歩くことなんじゃないかな。人間の自然な姿は歩くことだから、歩くことは人間を振り出しに
 戻してくれる、何かを振り返らせてくれるような気がする。
 原点かもしれない。』
『何かを置き忘れているような気がしたら、少しずつでいから、歩いてみるといい。
 歩くことがきっと何かを教えてくれるよ』

千日回峰行を達成されるような生き仏様は、あらゆる人から学ばれる。
酒井大阿闍梨の師・箱崎文応師は、酒井師が回峰行をされるにあたりアドバイスをされるのだが、それがなんと大泥棒の歩き方なのだ。
箱崎師が子供のころに聞いた大泥棒は、夜な夜な福島県の小名浜から宮城県の仙台まで歩いて泥棒していた。それほどの距離を夜な夜な歩くには秘訣があったそうだ。それが、『体のいろんな部分を交代で意識しながら歩く』ことだそうだ。右が疲れてきたら左足、左が疲れてきたら右足、いよいよ両足がくたびれたら腰、次は首といった具合に意識を交代させ、そこに気持ちを集中して歩く間は、別のところは休んでいるという算段だそうだ。
この大泥棒の歩き方さえ酒井大阿闍梨の言葉をもってすると人生訓になる。

『人生を歩くっていうことも、その原理を応用すればいいんじゃないかな。
 人生って、こっちが疲れたら全部「しんどい」ってことになってしまいがちじゃない。
 考えを辛いことの一点に集中し過ぎちゃうから「こんな苦労はもうしたくない」なんて身を投げちゃうとか。
 じたばたしたって、どうにもならないところをどうにかしようとするから、疲れちゃうんだよ。』
『しんどいところは休ませておいて、違うところに神経を集中させてみる。~中略~
 そうして歩けば、案外楽に、結構楽しく生きていけるんじゃないの。』

「一日一生」は一章ごとに心に響く言葉があるが、ここでは歩くことに焦点をあてて書いている。
それは、「走ってみようか 闘ってみようか」といいつつ一向に走る気配がなく、ともかく歩くことを心がけているという毎日を送っているからだ。世はスロージョギングなるものが流行っているようだが、自分なりの歩き方しかできないんだな、自分の歩き方で生きていくしかないんだなと思いながら、夕方の散歩に出ようかと思っている。

歩くお伴は、つづく

ちなみに、千日回峰行のうちの堂入りは九日間であり残りの975日はひたすら歩くと書いたが、計算が合わないわけではない。
実際に行を行うのは「975日」で、残りの25日は「一生をかけて修行しなさい」という意味だそうだ。

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