何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

めぐる季節に朝がくる

2015-11-07 15:32:20 | 自然
まだまだしつこく「一日一生」(酒井雄哉)は続いている。
「一日一生」は一生続くかもしれない。

以前なら夏野菜を片付けるとすぐに秋冬の野菜の準備をしたものだが、この数年は秋冬野菜はもちろんのこと、春に向けた花の準備をする元気もなかなか湧いてこなかった。
それは、春菊とほうれん草は霜にやられ、大根を植えてもヒョロリとしたゴボウのようなものしかできず、聖護院大カブを植えてもラデイッシュのような子カブしかできず、といった具合で収穫の楽しみがなかったのもあるが、潜在的に怖れていることがあったからだと気がついた。が、「一日一生」のおかげで何冊かの本を思い出し、少し元気が出てもいる。

今月の末に17歳になるワンコ。
三年前2012年の初冬の朝、いつもの散歩コースの三分の一を過ぎたあたりで突然立ち止まり、その先にあるワンコが大好きなポプラと桜の並木道をじっとじっと数分間見つめ、その後、決然と踵を返して家に帰ったワンコ。
あの日から、ワンコの散歩は三分の一となり、四分の一となり、今ではチッチのために庭に出るくらいとなっている。
ちょうど今頃その並木道はポプラの落ち葉で敷き詰められ、枯葉を踏むとパリパリと音が鳴り、ワンコはそれが楽しくて落ち葉の上を喜んで歩いていたものだった。
春には見事な桜の並木道にもなり、桜にはあまり興味のないワンコだが、桜を背景に''春のワンコ ニッポンの春''を撮るのを人間は楽しみにしていたのだ。

だが、あの日ワンコがポプラと桜の並木道に別れを告げてから、春がくるのがどこか怖かったのかもしれない。
桜には、どこか寂しさが漂う。
来年も又この桜が見れるだろうかという、寂しさが。

真っ赤なプチトマト愛子様から元気をもらう夏が過ぎると・・・・・春が来るのを恐れていたのかもしれない。
ワンコと一緒に桜を愛でる春、来る春もワンコと桜を愛でたいと痛切に願いながらも、季節が巡るのが怖かったのかもしれない。

今年の秋は野菜が異常に高く、家人に催促されて春菊と聖護院大カブとニンニクを植えてみた。
相変わらずの春菊とカブだが、初めて挑戦したニンニクの濃い緑の葉が伸びているのを見るとやはり嬉しいし、今年の庭には大ニュースもある。あれだけ孤独に耐えて一人で頑張ってきたメダカに仲間が出来ただけでなく、なんと主メダカの子孫が誕生して育っているのだ。主メダカの子孫だけに子メダカも黒ブチ模様だが、それが何とも嬉しさを倍増させてくれるのだ。(参照 「歩兵」 「よしなしごと」

季節がめぐることの喜びと感謝を思い出させてくれた「一日一生」(酒井雄哉)の言葉を再度書いておきたい。
『(千日回峰行に)最初はそれなりの覚悟で行にはいったんだけれど、山を歩いているうち、「死」という
 ものの受け止め方がまったく変わって来たんだ。』
『山は、同じ道を歩いていても、一日として同じ日はない。毎日毎日、表情を変える。
 季節とともに緑が濃くなり、花は咲きほこり、散っていく。紅葉し、葉は落ち、また季節が巡り芽を吹く』
『動物たちも愛らしい姿を見せて行く。』
『自然の中では、たくさんの生き物たちが繋がり合って生きていて、そして時期が来れば枯れたり、死んだり
 していく。どの生き物も、命が尽きれば他の生き物たちを支えるんだよ。』
『行の最中、力尽きてここで倒れて死んだら、僕の体は小山の土になるんだなぁと思った。
 それが嬉しいような気がした。色々な生き物たちの栄養になれるなら、それは幸せなんだなあ。』
『山を歩いていると、いつしか自然の中に溶け込んで、自然と一体になっていると感じるんですね』

時が来て自然にかえってゆくのは、命あるもの全てであり、命の循環のなかにおれば、先のものとも後のものとも一体となれるのだ。
そんな思いをもって読んだ本が過去にもあった。

「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア)

春が過ぎ夏が過ぎ、大きく育った葉っぱのフレディはいつしか仲間の葉っぱたちの色が個々に違っていることに気付き、物知り葉っぱのダニエルに何故かと訊ねる。
『僕たちは一人一人違っているからさ。
 僕たちは違う経験をしてきた。
 太陽に対する向きが違う。
 影になる部分も違う。
 僕たちが違った色でないなんておかしいんだよ。』

ある日、怒ったような風が葉っぱを枝から引き離したことを、ダニエルは『葉っぱが引越しする時期ってこと。人はそれを死と呼ぶよ。』と教える。
『何もかも死ぬ。
 どんなに大きくても小さくても。
 どんなに弱くても強くても。
 僕たちはまずするべきことをする。
 太陽や月や雨や風を経験する。
 踊ったり笑ったりできるようにする。
 そしたら死ぬだけさ。』
葉っぱも木もいつかは死ぬのかと問うフレディにダニエルは答える。
『いつかはね。
 だけど木よりもっと強いものがある。
 それは“生命(いのち)”。
 永遠にながらえる物。
 僕たちも“生命”の一部なんだよ。』
『僕たちは戻ってこないかもしれないけれど、“生命”は戻ってくる。』

ダニエルも他の葉っぱも落ちてしまい、たった一人残されたフレディも又ある雪の朝ふわりとした雪の上に着地した。
落ちゆく途中に初めて自分がくっついていた木を見て『自分もこの木の命の一部だった』と誇りに思うフレディは、自分がもっと大きな命の一部となっていくことに気付かないまま、眠りにつくのだ。
『彼は目を閉じ眠りにつく。
 彼は知らなかった。
 冬の次には春が来て雪はとけて水になることを。
 何の役に立ちそうもない干からびた自分が水に混じり木を丈夫にする役目を果たすことを。
 何より木や地面の中で眠りながら“生命”がもう春に向けて新しい葉っぱを出す準備に取り掛かっていることを。
 そしてまた始まるのだ。』

「葉っぱのフレディ」を読んだときの感動を久しく忘れていたが、「一日一生」のおかげで秋の午後、大切なものを思い出させてもらったと感謝している。

感謝は、つづく