何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ゴンズク出して山を仰ぎ見よ

2016-06-23 00:00:00 | 自然
本を探すとき、図書館サイトの検索機能をけっこう利用する。

もともと「氷壁」(井上靖)の影響で穂高に憧れ、「日本アルプス」(W・ウェストン)「日本百名山(深田久弥)から梓林太郎氏まで読みつくしているので、もう読むものはないだろうと思っていたが、図書館サイトの検索欄に「上高地」と入れると、「神々の消えた土地」(北杜夫)と出るではないか!
そのうえ、「神降地」と云われる上高地を「神々が消えた土地」として描いているとは何たることかと、さっそく取り寄せ読んでみた。

何のことはない、旧制松本高校時代~東北大学入学編の「どくとるマンボウ青春期」(北杜夫)の中学&高校編といったところのものであるし、上高地を神が消えた土地としているわけではなかった。
両作品とも、当時の学生のバンカラな雰囲気をよく伝えているが、「どくとるマンボウ青春期」が終戦後の学生生活を中心に記しているのに対して、「神々が消えた土地」では東京大空襲とそれに続く連夜の空襲で灰燼に帰した町、死屍累々とも云うべき明治神宮通りの惨状などが描写されている。そして、それらを目の当たりにした主人公が「死ぬ前にあの美しい信州の自然を、心ゆくまで眺めたい」と願い、又その願いに対して「もし信州へ行くことができたら、上高地にはぜひ一度行ってみなさい」と父が応える場面があるので・・・・・胸が痛む。

安曇野の田んぼに映る北アルプス、犀川の土手から見上げる北アルプス
そして、河童橋から仰ぐ穂高の峰々
それは長い間、私の心の原風景であるが、信州の山と上高地が、東京大空襲をくぐり抜けた父と子が、死ぬ前に眺めたいと語り合う地であったことに、言いようのない哀しみと感慨を覚えた。

とは云え、「神々が消えた土地」における「上高地」の記載は、(前述以外には)山狂いの松校の先輩が召集令状が届いているのも知らずに上高地に出かけたまま帰らない、という場面しかなかったので、再度「どくとるマンボウ青春期」に上高地の描写を探してみた。

旧制高校のバンカラな校風を残した松本高校と思誠寮での破天荒な生活ぶりが、面白おかしいく書かれているが、戦後学校制度が急変する直中にあった学生の多くは神経衰弱にかかっていたとも書かれている。
(『  』「どくとるマンボウ青春期」より引用)
『神経衰弱(ノイラステニィ)という言葉がある。昔はなんでもかんでも神経衰弱と呼んだ。神経衰弱の大安売りである。現在の精神医学ではごく狭い範囲にのみこの言葉を使う。神経衰弱とは、要するに試験勉強などのしすぎによる神経の疲労で、ゆっくり眠ったりバカ騒ぎでもすれば癒ってしまう単純なものをいう』
『一方、精神衰弱(プシカステニィ)という病名があるが、こちらの方は様々な心理的葛藤が内部にあり、それを解決しない限り、単に休養をとるくらいでは癒らない』
『こういう知識を持っていれば、私達は自分らのことを後者の名称で呼んだであろうが、なにぶん知識がなく古風であったので、やはり神経衰弱という呼称を使った。』
『三年生の後半ともなれば、どこへ行っても神経衰弱が大流行であった』

この当時の学生を覆っていた神経衰弱問題を、本書は「どくとるマンボウシリーズ」独特の軽妙な語り口で書いているが、終戦間もない時期の学生が抱えていた不安は、何も学校制度が改変されたことだけではないはずだ。家を失った者、家族を失った者、それぞれに強い不安と不満があっただろうが、北杜夫氏には、彼特有の悩みがあった。北家は、祖父と父二代続けて医師の家系で兄も医師となっていたため、作家を目指したい北杜夫に父は「医師になったのち、ものを書け」と命ずるのだが、その父こそアララギ派の歌人・斎藤茂吉だから、息子としては立場がない。

すっかり神経衰弱となった北杜夫氏が目指すのが、穂高を仰ぎ見ることができる場所であった。
『ここで私が少なからず神がかり的であったのは、一人で穂高を見たなら、おそらくこの鬱々たる心境も回復するであろうと自ら信じた事である』
『そこで私はリュックザックに乏しい食糧をつめ、島々行きの電車に乗った。島々の宿場から郵便局の横を右手に折れる。これがバス道路とは別の、徳本峠を超える道であった。当時橋はとうに沢渡まで通じていたが、長い径のりを歩いてようやく穂高を見るという道程に私は期待した。それに、徳本峠の上から眺める穂高は絶品である。』
『半ばの喪失と微かな希望を抱いて、もくもくと私は歩いた。こんなことをしていて何になるのかという心細さも伝わってきた。しかし長く長く細道は続き、歩くより手段はなかった。~略~息をきらせ、汗を滴らせて私は登った。一度も休みはしなかった。』
『そして遂に私は峠の頂に立ち、眼前に立ちはだかる懐かしい穂高の威容を見た。前穂の岩壁は午後も遅い斜光を受けて白茶けて見えた。夏の残雪はとうになく、新設の訪れにはまだ早かった。一点の雪もない穂高。永劫の風化にさらされ洗われた大岩塊は、圧倒的に巨大にすぎ、それを眺める私はあまりに微小な存在に過ぎなかった』

『このとき、私の神経衰弱状態は嘘のようにあらかた消失した。今から考えれば、適度の運動療法と自己暗示のようなものであったろう。同時に、私の内部に原始人に似た自然信仰が残されていたためであろう。私は秋の日差しの凝結する岩峯に向かって、ひょっこりお辞儀までしたのである』

北杜夫の神経衰弱をたちどころに癒した徳本峠からの穂高を、私は見たことがないが、この景色に救われた人なら、もう一人知っている。
日本人として初めてマッターホルン北壁を登攀した芳野満彦氏、その人だ。
「山に登ろう」(芳野満彦)によると、17歳の12月、二学期の期末試験を終え八ヶ岳に登った芳野氏は、そこで友を喪い、自らも踵を残して両足先を切断せねばならない遭難事故を起こしてしまう。歩けるようになるのに一年かかり、学年も遅れ、鬱々としていながらも山を諦めきれず苦しんでいた芳野氏を救ったのも、徳本峠からの穂高の威容であり、徳本峠から上高地側に下ったところにある「徳澤小屋」での小屋番生活だった。
 
徳本峠より望む穂高連峰

太宰治の『我、山に向かいて目を上げん。我が助け 何処より来るや』ではないが、穂高の何が人の心をこうまでも救うのか、私には分からない。
だが、一年に一度上高地を訪れると、確かに「また、この地を訪れるまで頑張ろう!」と瑞々しい力が体に宿るのを感じずにはいられない。「神降地アルカディアに祈る」

その上高地で8月11日、第一回山の日記念式典が行われ、今日6月23日は「山の日」までちょうど50日という日なのだ。

「山の日制定記念式典」が上高地で行われるほどに、上高地は岳人にとって聖地であるが、山男で日本山岳会の会員でもあられる皇太子様は、上高地を登山口とする穂高連峰にも、その向こうにそびえる槍ヶ岳にも登られてはいない。地味で厳しい山々を登られる皇太子様ならば槍穂の登頂は可能だが、多くの登山客で賑わう狭い登山道に伴を引き連れ入ることを御遠慮されているのだと、何かで読んだか聞いたかしたことがある。同様の理由で、常念岳から蝶が岳を縦走された時も、観光客で賑わう上高地へ下らず、三股へおりられたという。

今年は「山の日」が制定される記念すべき年
皇太子御一家には、岳人だけでなく多くの人の心の原風景である上高地を、ぜひ訪問して頂きたと願っている。



参照
「第一回山の日記念全国大会」http://811yamanohi.org/  このサイトによると、今日6月23日は「山の日」まで51日ということだが、今日こそ50日ではないかと思っている。
写真出展 ウィキペディア 「徳本峠から穂高を望む」