ファンタジーが苦手な私としては、森沢ワールドは自ら手に取る作風ではないのだが、この作者の新刊が出る度に何故か私に貸してくれる本仲間がいるので、ついつい読んでは結局しみじみほのぼのさせてもらっている。
「エミリの小さな包丁」(森沢明夫)
本の帯より
『信じていた恋人に振られ、職業もお金も、居場所さえも失った25歳のエミリ。藁をもすがる思いで10年以上連絡を取っていなかった祖父の家へ転がり込む。
心が荒みきっているエミリは、人からの親切を素直に受け入れられない。しかし、淡々と包丁を研ぎ、食事を仕度する祖父の姿を見ているうちに、小さな変化が起こり始める。食に対する姿勢、人との付き合い、もののとらえ方や考え方……。周囲の人たち、そして疎遠だった親との関係を一歩踏み出そうと思い始める――。「毎日をきちんと生きる」ことは、人生を大切に歩むこと。人間の限りない温かさと心の再生を描いた、癒しの物語。』
主人公エミリ25歳は、10歳で両親が離婚。
親権を要求してくれた父にも現在では別の家庭ができ、親権をもった母は男を取っかえ引っ替えするばかりで子育てはせず現在も新しい男と住んでいる。子供時代を支え合ってきた兄も高校を卒業するなり渡米して二度と帰国する気はない。
もともと一人ぼっちだったエミリは、職場の恋人に振られたために仕事も生活費も居場所も失い、10年以上音信不通だった母方祖父を頼って海辺の家に転がり込むしかなくなるのだが、そんなエミリは自分のことを「犬」だと思っている、もとい「犬のようだ」と思っている。
そして第一章のタイトルが「猫になりたい」。
こう書かれれば、真剣に読まないわけにはいかない。
自分のことを「愚鈍な女」だと思っているエミリは、その愚鈍な自分を、『犬歯を抜かれた臆病な犬』『いつも尻尾を下げてびくついている捨て犬』『一人ぼっちの夜を泣いて過ごしている(捨て犬)』のようだと思っている。
そして、「猫になりたい」と願っている。
『猫はきっと、いつもゆっくりと呼吸していて、気に入った散歩道を悠然と歩き、塀の上からノロマな世間を睥睨し、バター色のひだまりを見つけたら、そのなかで丸くなって眠る。優しい人と出会えたら、たっぷりと全身を撫ぜてもらい、喉を鳴らして心ゆくまで甘えまくる。万一、傷つきそうになっても、その素早い身のこなしでさっと逃げれば、はい、おしまい。嫌な気分なんて引きずらない。そもそも、気持ちの乱高下なんてないのだ。逃げたら、その場所でまた心地いい寝床を見つけて、くるりと丸くなって眠るだけ。そして、眠りから覚めたら、再び悠然と歩きだす。
わたしは、そんな猫になりたい』
『でも、とても残念なことに、私は幼い頃からずっと犬タイプだった』
自分を「犬だ」「犬だ」と嘆きながら祖父のもとに転がり込んだエミリは、神社にお参りしても、『神様がいたとしても、お礼なんて言うつもりはない』と思っている。
そんなエミリに祖父は、『神様ってのは、自分自身のことだ』とぼそっと言う。
また夜空を眺めていたある時など、流れ星に「幸せになれるように」と願うエミリに、『幸せになることより、満足することの方が大事だよ」と祖父は言う。
祖父の言葉を一つ一つ心に刻みながら、祖父の本箱のなかの本を読んでいくエミリが見つけた言葉も印象的だ。
『つらいときでも鼻歌を歌っていれば、世界は変えられなくても、気分を変えることならできる』
こうして祖父と暮らすなかで、自分を見つめ一歩を踏み出す力がでてきた頃、二人が暮らす狭い海辺の田舎町に、エミリが都会を追われた理由が悪意をもって流される。
「また逃げなければならないのか」「祖父に気まずい思いをさせてしまった」と苦しむエミリに、祖父は諭す。
『自分の存在価値と、自分の人生の価値は、他人に判断させちゃだめだよ』
『考えてごらん。事情を知らない人達に、エミリとエミリの人生の価値を勝手に判断されて、しかも。エミリがそのいい加減な判断結果に従うような人生のハメになるなんて、道理に外れるし、何より気分が悪い』
噂好きという田舎特有の息苦しさはあるものの、いい塩梅のお節介な人達にも恵まれ、やがて祖父の元から巣立っていく日、エミリと祖父は一緒にあの神社にお参りする。
「神様は自分自身のことだ」の真意を問うエミリに、祖父は言う。
『神社の拝殿のなかには、鏡が置かれているんだ』
つまり、エミリが参拝している時、その鏡に映っているのはエミリ自身だということ。
『神様ってのは、万能の存在だろう』
『要するに、エミリを思いのままに動かせる万能の存在は、唯一、エミリ自身だろう。
エミリの人生を自由自在に創造していけるのも、エミリ本人しかいないんだ』
エミリは思う 『わたしは、わたしの人生の神様・・・・・』
おじいちゃんと一夏過したエミリは、秋風が立つ頃、新たな人生の一歩を踏み出した。
で、一歩を踏み出す勇気を得たエミリは、もうかつての『愚鈍な女』ではないので、「犬タイプ」を返上して念願の「猫になりたい」は叶ったのか?
その答えは、私的には何となく、裏表紙の絵にあるような気がしている。
ところで、エミリを元気にした一番のものは、おじいちゃんの箴言というよりは ―勿論それも大きいが― 捕れたての魚を丁寧に調理した手料理だと思う。
そして、本にでてきた料理を自分なりに作ってみることを常としている私が試したのは、アジの「なめろう」と「さんが焼き」。
鮮度のせいか慣れない味のせいか、「なめろう」の評判はイマイチだったが、「さんが焼き」は大好評だった。
「エミリの小さな包丁」(森沢明夫)
本の帯より
『信じていた恋人に振られ、職業もお金も、居場所さえも失った25歳のエミリ。藁をもすがる思いで10年以上連絡を取っていなかった祖父の家へ転がり込む。
心が荒みきっているエミリは、人からの親切を素直に受け入れられない。しかし、淡々と包丁を研ぎ、食事を仕度する祖父の姿を見ているうちに、小さな変化が起こり始める。食に対する姿勢、人との付き合い、もののとらえ方や考え方……。周囲の人たち、そして疎遠だった親との関係を一歩踏み出そうと思い始める――。「毎日をきちんと生きる」ことは、人生を大切に歩むこと。人間の限りない温かさと心の再生を描いた、癒しの物語。』
主人公エミリ25歳は、10歳で両親が離婚。
親権を要求してくれた父にも現在では別の家庭ができ、親権をもった母は男を取っかえ引っ替えするばかりで子育てはせず現在も新しい男と住んでいる。子供時代を支え合ってきた兄も高校を卒業するなり渡米して二度と帰国する気はない。
もともと一人ぼっちだったエミリは、職場の恋人に振られたために仕事も生活費も居場所も失い、10年以上音信不通だった母方祖父を頼って海辺の家に転がり込むしかなくなるのだが、そんなエミリは自分のことを「犬」だと思っている、もとい「犬のようだ」と思っている。
そして第一章のタイトルが「猫になりたい」。
こう書かれれば、真剣に読まないわけにはいかない。
自分のことを「愚鈍な女」だと思っているエミリは、その愚鈍な自分を、『犬歯を抜かれた臆病な犬』『いつも尻尾を下げてびくついている捨て犬』『一人ぼっちの夜を泣いて過ごしている(捨て犬)』のようだと思っている。
そして、「猫になりたい」と願っている。
『猫はきっと、いつもゆっくりと呼吸していて、気に入った散歩道を悠然と歩き、塀の上からノロマな世間を睥睨し、バター色のひだまりを見つけたら、そのなかで丸くなって眠る。優しい人と出会えたら、たっぷりと全身を撫ぜてもらい、喉を鳴らして心ゆくまで甘えまくる。万一、傷つきそうになっても、その素早い身のこなしでさっと逃げれば、はい、おしまい。嫌な気分なんて引きずらない。そもそも、気持ちの乱高下なんてないのだ。逃げたら、その場所でまた心地いい寝床を見つけて、くるりと丸くなって眠るだけ。そして、眠りから覚めたら、再び悠然と歩きだす。
わたしは、そんな猫になりたい』
『でも、とても残念なことに、私は幼い頃からずっと犬タイプだった』
自分を「犬だ」「犬だ」と嘆きながら祖父のもとに転がり込んだエミリは、神社にお参りしても、『神様がいたとしても、お礼なんて言うつもりはない』と思っている。
そんなエミリに祖父は、『神様ってのは、自分自身のことだ』とぼそっと言う。
また夜空を眺めていたある時など、流れ星に「幸せになれるように」と願うエミリに、『幸せになることより、満足することの方が大事だよ」と祖父は言う。
祖父の言葉を一つ一つ心に刻みながら、祖父の本箱のなかの本を読んでいくエミリが見つけた言葉も印象的だ。
『つらいときでも鼻歌を歌っていれば、世界は変えられなくても、気分を変えることならできる』
こうして祖父と暮らすなかで、自分を見つめ一歩を踏み出す力がでてきた頃、二人が暮らす狭い海辺の田舎町に、エミリが都会を追われた理由が悪意をもって流される。
「また逃げなければならないのか」「祖父に気まずい思いをさせてしまった」と苦しむエミリに、祖父は諭す。
『自分の存在価値と、自分の人生の価値は、他人に判断させちゃだめだよ』
『考えてごらん。事情を知らない人達に、エミリとエミリの人生の価値を勝手に判断されて、しかも。エミリがそのいい加減な判断結果に従うような人生のハメになるなんて、道理に外れるし、何より気分が悪い』
噂好きという田舎特有の息苦しさはあるものの、いい塩梅のお節介な人達にも恵まれ、やがて祖父の元から巣立っていく日、エミリと祖父は一緒にあの神社にお参りする。
「神様は自分自身のことだ」の真意を問うエミリに、祖父は言う。
『神社の拝殿のなかには、鏡が置かれているんだ』
つまり、エミリが参拝している時、その鏡に映っているのはエミリ自身だということ。
『神様ってのは、万能の存在だろう』
『要するに、エミリを思いのままに動かせる万能の存在は、唯一、エミリ自身だろう。
エミリの人生を自由自在に創造していけるのも、エミリ本人しかいないんだ』
エミリは思う 『わたしは、わたしの人生の神様・・・・・』
おじいちゃんと一夏過したエミリは、秋風が立つ頃、新たな人生の一歩を踏み出した。
で、一歩を踏み出す勇気を得たエミリは、もうかつての『愚鈍な女』ではないので、「犬タイプ」を返上して念願の「猫になりたい」は叶ったのか?
その答えは、私的には何となく、裏表紙の絵にあるような気がしている。
ところで、エミリを元気にした一番のものは、おじいちゃんの箴言というよりは ―勿論それも大きいが― 捕れたての魚を丁寧に調理した手料理だと思う。
そして、本にでてきた料理を自分なりに作ってみることを常としている私が試したのは、アジの「なめろう」と「さんが焼き」。
鮮度のせいか慣れない味のせいか、「なめろう」の評判はイマイチだったが、「さんが焼き」は大好評だった。