「13匹の犬」(加藤幸子)、「エミリの包丁」(森沢明夫)と偶然にも犬と猫について書かれている本を読んだので、かってにワンにゃん比較考をしてみる。
犬と猫は種としても比較されやすいが、人の性格を言い当てる時に使われる「犬タイプ」「猫タイプ」や、どちらと暮らすことを好むかで区別される「犬派or猫派」などには一家言をもつ人も多いので、猫と暮らしたことがなく犬も我がワンコ一筋で他の実情を知らない私は、例によって例の如く本の世界に答えを求めてみた。
「13匹の犬」は、ある一家が飼ってきた13匹の犬の独白で話が進むので、ここは猫の独白も聞かねばなるまいと手に取ったのは、「吾輩は猫である」(夏目漱石)。
冒頭の『吾輩は猫である。名前はまだ無い』が有名だが、11章全編この調子で、拾われた猫としての遠慮や好かれようとする努力は全くない、この’’感じ’’正に我がワンコそのものだ。
我家は猫と暮らしたことがないし、犬もワンコ一筋で他の犬は分からないが、家族は皆「ワンコは猫科だ」だと言っていた。
そう感じるのは、ワンコの後ろ姿が猫そっくりだからだろうと思っていたが、改めて「吾輩は猫である」を読むと、我がワンコは性格的にも猫タイプだったと思えてきた。
『 』「吾輩は猫である」より引用
『ちょっと吾輩の家の主人がこの我儘で失敗した話をしよう。元来この主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ』
こんな部分を読むと、思わずワンコの独白ではないかと思ってしまう。
我家は下手の横好きで皆それぞれ何か楽器をするのだが、絶対音感があるワンコは、いつも辟易として楽器練習に付き合っていた。
ワンコの言い分は色々あったろうが、ワンコ的に一番『物になっておらん』とウンザリしていたのは、一向に腕のあがらない家人のピアノだったと思う。ミスタッチが混んでくると眉毛を吊り上げ家人を凝視し、更にミスタッチが重なると、鼻に皺をよせ盛大に溜息をついたものだった。
御大の尺八にはさすがに溜息はつかないものの、手本として流している人間国宝の演奏をウットリと聞き惚れる姿と、御大の練習を聴く姿では、天と地ほどの差があり、それは誰のどのような指摘よりも御大には堪えていたようだ。
だが、こんな部分を読むとワンコは人間タイプでもあったために、日記でもつけて真面目(しんめんぼく)を保っていたのかもしれないと思えてならない。
『人間の心理ほど解し難いものはない。この主人の今の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しているのか、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己おのれの真面目(しんめんぼく)を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。』
家族は皆、どういうことかワンコは鉛筆を舐め舐め日記もしくは閻魔帳をつけていると信じていた。
ワンコに疎ましげな視線をチラリと投げてよこされた者は「今日は、ワンコ日記に×をつけられたな」とか、ワンコに好物をあげた者は「今日は、私の欄は◎に違いない」とか口々に言っていた。
ワンコは日記(閻魔帳)を付けていると感じさせる何かを持っていたのだが、『主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れない』という部分を読むと、吾輩猫と同じく『食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣』いていたように思えたワンコにも、表に出せない鬱屈があったのかもしれない。
その複雑な思考故か、ワンコ実家両親曰く「ワンコは自分を4本足の人間であり家長だ」と思っていたそうだが、吾輩猫も『人間世界の一人』だという思いと『どこまでも人間に成りすましている』という思いで揺れていく。
こうして、『人間世界の一人』となったワンコとニャンコは、鋭い観察で得た情報をもとに人を思いやる優しさを、人一倍有するようになる。
我がワンコ、家族が喜んでいる時は皆の真ん中ではしゃぎ、悲しんでいる者がいる時は、そっと傍らで流れる涙をすくってくれていたが、猫と暮らす知人も言う。
「家族が楽しんでいる時は皆の真ん中ですまし顔で香箱座りをしているが、手の甲でぬぐった涙を舐めてくれるのも、ニャンコだと。」
それでも、世間一般に猫タイプ・犬タイプという言葉があるのだから、正確に比較すればやはり違うのだろう、それは皇太子御一家の猫と犬を見ても明らかかもしれない。
皇太子御一家の歴代の犬たちは、御一家の記念撮影には欠かさず登場するが、猫が撮影に応じて下さったのは2度しかない。
そのあたりに、犬とは異なる猫独特の気位の高さがあるのだろうが、それでも猫が皇太子御一家を好きなことには変わりがないと思うのは、その猫の名前が「人間ちゃん」というからだ。
「人と人の間にいたがるから、人間ちゃん」と敬宮様に命名されるほどに、家族の間に収まって寛いだ日々を過ごしている皇太子家ニャンコちゃん。
しかし、だからといって写真撮影に出てこないあたりが、猫の猫たる所以かもしれない。
犬と猫は種としても比較されやすいが、人の性格を言い当てる時に使われる「犬タイプ」「猫タイプ」や、どちらと暮らすことを好むかで区別される「犬派or猫派」などには一家言をもつ人も多いので、猫と暮らしたことがなく犬も我がワンコ一筋で他の実情を知らない私は、例によって例の如く本の世界に答えを求めてみた。
「13匹の犬」は、ある一家が飼ってきた13匹の犬の独白で話が進むので、ここは猫の独白も聞かねばなるまいと手に取ったのは、「吾輩は猫である」(夏目漱石)。
冒頭の『吾輩は猫である。名前はまだ無い』が有名だが、11章全編この調子で、拾われた猫としての遠慮や好かれようとする努力は全くない、この’’感じ’’正に我がワンコそのものだ。
我家は猫と暮らしたことがないし、犬もワンコ一筋で他の犬は分からないが、家族は皆「ワンコは猫科だ」だと言っていた。
そう感じるのは、ワンコの後ろ姿が猫そっくりだからだろうと思っていたが、改めて「吾輩は猫である」を読むと、我がワンコは性格的にも猫タイプだったと思えてきた。
『 』「吾輩は猫である」より引用
『ちょっと吾輩の家の主人がこの我儘で失敗した話をしよう。元来この主人は何といって人に勝れて出来る事もないが、何にでもよく手を出したがる。俳句をやってほととぎすへ投書をしたり、新体詩を明星へ出したり、間違いだらけの英文をかいたり、時によると弓に凝ったり、謡を習ったり、またあるときはヴァイオリンなどをブーブー鳴らしたりするが、気の毒な事には、どれもこれも物になっておらん。その癖やり出すと胃弱の癖にいやに熱心だ』
こんな部分を読むと、思わずワンコの独白ではないかと思ってしまう。
我家は下手の横好きで皆それぞれ何か楽器をするのだが、絶対音感があるワンコは、いつも辟易として楽器練習に付き合っていた。
ワンコの言い分は色々あったろうが、ワンコ的に一番『物になっておらん』とウンザリしていたのは、一向に腕のあがらない家人のピアノだったと思う。ミスタッチが混んでくると眉毛を吊り上げ家人を凝視し、更にミスタッチが重なると、鼻に皺をよせ盛大に溜息をついたものだった。
御大の尺八にはさすがに溜息はつかないものの、手本として流している人間国宝の演奏をウットリと聞き惚れる姿と、御大の練習を聴く姿では、天と地ほどの差があり、それは誰のどのような指摘よりも御大には堪えていたようだ。
だが、こんな部分を読むとワンコは人間タイプでもあったために、日記でもつけて真面目(しんめんぼく)を保っていたのかもしれないと思えてならない。
『人間の心理ほど解し難いものはない。この主人の今の心は怒っているのだか、浮かれているのだか、または哲人の遺書に一道の慰安を求めつつあるのか、ちっとも分らない。世の中を冷笑しているのか、世の中へ交りたいのだか、くだらぬ事に肝癪を起しているのか、物外に超然としているのだかさっぱり見当が付かぬ。猫などはそこへ行くと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己おのれの真面目(しんめんぼく)を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。』
家族は皆、どういうことかワンコは鉛筆を舐め舐め日記もしくは閻魔帳をつけていると信じていた。
ワンコに疎ましげな視線をチラリと投げてよこされた者は「今日は、ワンコ日記に×をつけられたな」とか、ワンコに好物をあげた者は「今日は、私の欄は◎に違いない」とか口々に言っていた。
ワンコは日記(閻魔帳)を付けていると感じさせる何かを持っていたのだが、『主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れない』という部分を読むと、吾輩猫と同じく『食いたければ食い、寝たければ寝る、怒るときは一生懸命に怒り、泣くときは絶体絶命に泣』いていたように思えたワンコにも、表に出せない鬱屈があったのかもしれない。
その複雑な思考故か、ワンコ実家両親曰く「ワンコは自分を4本足の人間であり家長だ」と思っていたそうだが、吾輩猫も『人間世界の一人』だという思いと『どこまでも人間に成りすましている』という思いで揺れていく。
こうして、『人間世界の一人』となったワンコとニャンコは、鋭い観察で得た情報をもとに人を思いやる優しさを、人一倍有するようになる。
我がワンコ、家族が喜んでいる時は皆の真ん中ではしゃぎ、悲しんでいる者がいる時は、そっと傍らで流れる涙をすくってくれていたが、猫と暮らす知人も言う。
「家族が楽しんでいる時は皆の真ん中ですまし顔で香箱座りをしているが、手の甲でぬぐった涙を舐めてくれるのも、ニャンコだと。」
それでも、世間一般に猫タイプ・犬タイプという言葉があるのだから、正確に比較すればやはり違うのだろう、それは皇太子御一家の猫と犬を見ても明らかかもしれない。
皇太子御一家の歴代の犬たちは、御一家の記念撮影には欠かさず登場するが、猫が撮影に応じて下さったのは2度しかない。
そのあたりに、犬とは異なる猫独特の気位の高さがあるのだろうが、それでも猫が皇太子御一家を好きなことには変わりがないと思うのは、その猫の名前が「人間ちゃん」というからだ。
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写真出展 宮内庁ホームページ
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/kaiken/photo-h22hn.html
「人と人の間にいたがるから、人間ちゃん」と敬宮様に命名されるほどに、家族の間に収まって寛いだ日々を過ごしている皇太子家ニャンコちゃん。
しかし、だからといって写真撮影に出てこないあたりが、猫の猫たる所以かもしれない。