もう30数年前のことです。新潟大学在学中にサッカーの試合で福島に遠征することがありました。数台の車に便乗して国道49号を東に向かう訳ですが、新潟から県境をこえると会津地方です。クラブの先輩から「おんめぇ、しゃべるなよ。土佐弁!」と言われたことがあります。「何のこと?」と当時は思ったものです。当時からいえば、100年ちょっと前に逆賊の汚名を着せられ戊辰の戦いで薩長土の官軍に猛攻を受けた会津、当時は3代ほど前の世代が戦いで亡くなっている土地なのです。日本史に明るくないもので全く実感がなかった印象があります。個人的にはちょっとまえの大河ドラマ「八重の桜」をみて、いよいよ会津への思いが募り、この10月、とうとう東京出張の予定を延長し滞在丸一日の会津への弾丸トラベルを敢行しました。
朝の新幹線で郡山に向かい、磐越西線で会津若松入りです。天気は快晴、「宝の山よ」と唄われる磐梯山が美しかったですね。御岳噴火の騒ぎの後でしたが、この山も以前の噴火で山頂部分が大きく消失しており独特の山体をしています。以前、新潟からくるまで入ったときには猪苗代湖が見えた記憶がありましたが、磐越西線からはとうとう見えずじまいでした。13時、会津若松到着です。
観光案内所でどうしても行きたかった大内宿についてたずねてみると、この時間から公共交通で行くと帰りのバスがないと言われ、やむなく軽四レンタカーで大内宿を目指しました。紅葉にはまだ少し早い時期、平日の午後というのに結構観光の方がおられます。四国には江戸時代の宿場風景が残っているところもありませんのでこういった光景はとても新鮮です。がんばって町並み保存につとめている様子が分かります。
ここを訪れたもう一つの理由は「ネギそば」です。高遠そばともいわれ、鰹節と大根おろしが入った冷たいそばですがこれを長ネギ一本で食すというこの地方伝統のそばのようです。遅い昼食となり腹ぺこで「三澤屋」さんに飛び込み食べることができました。で、またしてもやってしまいました。食べる前に撮影と思いながら忘れてガブッと行って気づきあわてて撮影、またしても汚い写真になってしまいました。下段左はメニューにあった写真です。これで勘弁を・・・。下段右の田楽もなかなかの美味でした。「しんごろう」というお米にみそを塗って焼いた田楽です。宿場にぴったりですね。
車で大内宿から若松市内にかえって来たらもう夕方です。会津の日暮れは早く、カメラかかえて飯盛山を弾丸のように登坂し撮影です。燃える鶴ヶ城を見て白虎隊が自刃した場所に来て見ると市内が一望できます。白虎隊の墓地、さざえ堂とみて下山しました。もう真っ暗です。
飯盛山登山口からみた沈む夕日です。なんかひさびさにこんなきれいな夕焼けを見た感じです。
翌日は朝から滝沢本陣を観光です。滝沢本陣は会津攻めのときに松平容保公が布陣した場所です。飯盛山からは歩いてすぐのお屋敷ですが、なかには戊辰の弾痕や刀傷が残り当時の激戦の様子が偲ばれます。
そしてハイライトの鶴ヶ城です。きれいなお城は戊辰戦争でボコボコにされ再建されています。最近、当時の赤瓦に塗り替えられたらしく立派なお城です。お堀もかなり大きく櫓や廊下も立派です。二の丸から天守に至る廊下橋は敵の侵攻に際し落とせるようになっていたらしいです。ちょっと播磨屋橋風ですが高知のようながっかり名所ではありません。天守からは市内と会津盆地を囲む山々を望むことができます。中には博物館のように展示物があり、「八重の桜」で使用された衣装まで展示されていました。ゆっくりと閲覧させていただき勉強になりました。人口が10万程度の街ですので市内観光にはレンタサイクルが便利です。鶴ヶ城でママチャリを借りて出発です。
会津若松市内にはふるい建物がいっぱい残り、これが旨く再利用されカフェやレストラン、商店として陽の目をみています。上段左が鶴ヶ城前のお菓子屋さん「会津葵」さん、右は会津で有名な絵ろうそくの小澤ろうそく屋さんです。中段左は白木屋さん、右から屋号を書いているのがいいですね。右は田楽で有名な「満田屋」さんです。城下町らしく道路もふるい区画どおりに残っており敵の侵攻をくい止められるように交差点が鍵型になって残っています。四国ではなかなか見られず、いい雰囲気の城下町でした。自動販売機に白虎隊が描かれているのもご愛嬌ですね(笑い)。
まだまだ見所は多く、市内でも日新館、御薬園、周囲では猪苗代湖、裏磐梯などとても弾丸トラベルで回れるものではありません。ゆっくり時間が取れれば再訪したいものです。最後に、駅前には会津魂を象徴するかのような「ならぬことはならぬものです」の立て札と白虎隊の銅像があります。のせていただいたタクシーの運転手さんのお話では「ここにはユニクロはないんだよ。」とのことでした。今も根強く残っている魂を感じる一言でした。