今回は 秋の山口へ の小さな旅日記です
ここのところ腰痛に悩まされておりややシンドイのですが 知友夫妻のお誘いで山口へドライヴの日曜日を
大竹から2時間半 「下関」です
中世から近世へ 近世から近代へ 日本が大きく変わるとき いつもスポットライトを浴びてきた下関 関門海峡 時代を動かす熱いエネルギー それは日に4度も流れを変える急潮がこの地に育んだものでしょうか
日本の歴史が動くとき 舞台はいつもこの海峡なのでした
風景を優しく彩る潮騒と汽笛の音が 和やかな気持になりましたなぁ
火の山公園=山頂からは瀬戸内海 日本海が一望でき さぞかし夜景は10,000$でしょう
眼下には 関門橋 全長が1,068mで海面からの高さは約61m 関門のシンボルです
みもすそ川公園=公園前の海は関門海峡の一番狭まったところ 源平壇ノ浦合戦の古戦場であり 幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもある
公園内には 源義経・平清盛の像がありNHK大河ドラマ出演者の滝沢秀明・松坂慶子さんたちの手形が設置されている
また 長州砲のレプリカ5門が海峡を睨んでいるが1/4大だと言う さぞかし巨大なものだったんでしょうと
すぐ近くには 「関門トンネル人道」の入り口があるが ちょうど通行止めになっており腰痛の身には幸いしました よしよし!
赤間神宮=安徳天皇を祭神とし 境内には安徳天皇陵 平家一門の墓 耳なし芳一堂などがある
安徳天皇は2歳で即位 寿永4年3月 長門国壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したとき 清盛の妻の二位の尼(安徳の祖母)に抱かれて入水した
『 お婆さま どこへ行くのです 』あどけない声で聞く安徳に 『 この現世は陛下が生きゆくには少々荒々しい世の中にござい ます あの波の下に 極楽浄土という都があるのです さ ばばと共にそこへ参りましょう 』 尼は笑って 安徳を抱いて波の中へ消えたそうです
平家物語は 平家一門の最後を万感の哀愁をこめて書き記しているが これが一般的な安徳天皇最後の場面としての“定説”であろうとしましょうか
そして境内の宝物殿には「青葉の笛」が
『 一の谷の 軍(いくさ)やぶれ
討たれし平家の 公達あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛 』 ~ その背景は切なく哀しい
赤間神社に隣接して「日清講和記念館」があります 明治28年(1895年) 料亭春帆楼において日本全権の伊藤博文 そして清国全権の李鴻章や両国の代表11名が出席して講和会議が開催された 当時の会議の部屋が再現されている
長府藩侍屋敷長屋=当時の上級藩士の屋敷の趣をよくとどめている
大化の改新の後 長門国の国府が置かれたことから「長府」と呼ばれるようになったと「日本書紀」が伝える街である
ここは蛍が住むと言う“壇具川”川沿いの武家屋敷のあった路が続く 歳月を重ねたしっとりとした街並みの住宅街 時間がゆっくり過ぎていくような
小道の奥まった民家の裏手には 菅原道真公のゆかりの井戸と伝えられる「御影の井戸」があります この井戸を覗いたものは眼がつぶれるそうな ご用心ですよ 大きな花梨(かりん)の木にはたくさんの実がなっておりました
功山寺=我が国最古の禅寺様式の仏殿は国宝
山門からうっそうとした樹木がよい 葉ずれの音が心地よい
かって何度も訪れた鎌倉のお寺と街めぐりを思い出しました
高杉晋作が挙兵した寺としても知られており 境内の一角には立像があります
乃木神社=明治天皇に殉死した乃木希典を祀る神社です
昨日の敵は 今日の友 と唄った「水師営の会見」の詩碑
『 旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と 会見に
所はいずこ 水師営
庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民家(みんおく)に
今ぞ相見る 二将軍 』 ~ 子どもの頃に本でよんだ記憶があります
境内には乃木将軍が育った家が復元されております
そしてまた 君が代 の「さざれ石」が巖となってあるのが印象的であった
忌宮神社=長門の国二の宮で 仲哀天皇が西国平定のおりに豊浦宮を建て7年間滞在した地と言われているそうな
そう言えば「お伊勢さん」20年に一度の大祭 第62回神宮式年遷宮が平成25年と近くなったことを思い出しました
長府庭園=長府毛利藩の家老格であった西運長の屋敷跡 お茶会をしておりました
山口の歴史散歩は駆け足で楽しんだ休日 帰りは雨になりましたが秋吉台を経由して 日が落ちて帰宅 腰痛の身でなくても少しばかり疲れましたよ
ここのところ腰痛に悩まされておりややシンドイのですが 知友夫妻のお誘いで山口へドライヴの日曜日を
大竹から2時間半 「下関」です
中世から近世へ 近世から近代へ 日本が大きく変わるとき いつもスポットライトを浴びてきた下関 関門海峡 時代を動かす熱いエネルギー それは日に4度も流れを変える急潮がこの地に育んだものでしょうか
日本の歴史が動くとき 舞台はいつもこの海峡なのでした
風景を優しく彩る潮騒と汽笛の音が 和やかな気持になりましたなぁ
火の山公園=山頂からは瀬戸内海 日本海が一望でき さぞかし夜景は10,000$でしょう
眼下には 関門橋 全長が1,068mで海面からの高さは約61m 関門のシンボルです
みもすそ川公園=公園前の海は関門海峡の一番狭まったところ 源平壇ノ浦合戦の古戦場であり 幕末の攘夷戦で外国船に砲撃した砲台跡でもある
公園内には 源義経・平清盛の像がありNHK大河ドラマ出演者の滝沢秀明・松坂慶子さんたちの手形が設置されている
また 長州砲のレプリカ5門が海峡を睨んでいるが1/4大だと言う さぞかし巨大なものだったんでしょうと
すぐ近くには 「関門トンネル人道」の入り口があるが ちょうど通行止めになっており腰痛の身には幸いしました よしよし!
赤間神宮=安徳天皇を祭神とし 境内には安徳天皇陵 平家一門の墓 耳なし芳一堂などがある
安徳天皇は2歳で即位 寿永4年3月 長門国壇ノ浦の戦いで平家が滅亡したとき 清盛の妻の二位の尼(安徳の祖母)に抱かれて入水した
『 お婆さま どこへ行くのです 』あどけない声で聞く安徳に 『 この現世は陛下が生きゆくには少々荒々しい世の中にござい ます あの波の下に 極楽浄土という都があるのです さ ばばと共にそこへ参りましょう 』 尼は笑って 安徳を抱いて波の中へ消えたそうです
平家物語は 平家一門の最後を万感の哀愁をこめて書き記しているが これが一般的な安徳天皇最後の場面としての“定説”であろうとしましょうか
そして境内の宝物殿には「青葉の笛」が
『 一の谷の 軍(いくさ)やぶれ
討たれし平家の 公達あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
聞えしはこれか 青葉の笛 』 ~ その背景は切なく哀しい
赤間神社に隣接して「日清講和記念館」があります 明治28年(1895年) 料亭春帆楼において日本全権の伊藤博文 そして清国全権の李鴻章や両国の代表11名が出席して講和会議が開催された 当時の会議の部屋が再現されている
長府藩侍屋敷長屋=当時の上級藩士の屋敷の趣をよくとどめている
大化の改新の後 長門国の国府が置かれたことから「長府」と呼ばれるようになったと「日本書紀」が伝える街である
ここは蛍が住むと言う“壇具川”川沿いの武家屋敷のあった路が続く 歳月を重ねたしっとりとした街並みの住宅街 時間がゆっくり過ぎていくような
小道の奥まった民家の裏手には 菅原道真公のゆかりの井戸と伝えられる「御影の井戸」があります この井戸を覗いたものは眼がつぶれるそうな ご用心ですよ 大きな花梨(かりん)の木にはたくさんの実がなっておりました
功山寺=我が国最古の禅寺様式の仏殿は国宝
山門からうっそうとした樹木がよい 葉ずれの音が心地よい
かって何度も訪れた鎌倉のお寺と街めぐりを思い出しました
高杉晋作が挙兵した寺としても知られており 境内の一角には立像があります
乃木神社=明治天皇に殉死した乃木希典を祀る神社です
昨日の敵は 今日の友 と唄った「水師営の会見」の詩碑
『 旅順開城 約成りて
敵の将軍 ステッセル
乃木大将と 会見に
所はいずこ 水師営
庭に一本(ひともと) 棗(なつめ)の木
弾丸あとも いちじるく
くずれ残れる 民家(みんおく)に
今ぞ相見る 二将軍 』 ~ 子どもの頃に本でよんだ記憶があります
境内には乃木将軍が育った家が復元されております
そしてまた 君が代 の「さざれ石」が巖となってあるのが印象的であった
忌宮神社=長門の国二の宮で 仲哀天皇が西国平定のおりに豊浦宮を建て7年間滞在した地と言われているそうな
そう言えば「お伊勢さん」20年に一度の大祭 第62回神宮式年遷宮が平成25年と近くなったことを思い出しました
長府庭園=長府毛利藩の家老格であった西運長の屋敷跡 お茶会をしておりました
山口の歴史散歩は駆け足で楽しんだ休日 帰りは雨になりましたが秋吉台を経由して 日が落ちて帰宅 腰痛の身でなくても少しばかり疲れましたよ
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