一昨日の朝ドラ「エール」に、
「湯の町エレジー」の文字が映りましたね。
伊豆の山々 月淡く
灯にむせぶ 湯のけむり
あ~初恋の 君をたずねて 今宵また
ギターつま弾く 旅の鳥
TVでは大将・村野鉄男さんの作詞。
戦争が終わったから、
このような女性を想う歌も書けるようになったのですね。
音ちゃんのお姉さん(吟)のご主人は元軍人さん。
お国のために働いたのに、
仕事が鉄くず拾いとはなんだってイラ立ってましたし、
あんたたちが戦争に負けなきゃこんなことにならなかったぞと、
随分責められてもいました。
裕一こと古関裕而さんが作曲することになる、
「鐘の鳴る丘」の歌詞。
父さん母さんいないけど
丘のあの窓
おいらの家よ
戦争で家や親を失い、
多くの子供たちが、
お腹を空かせていたことでしょう。
孤児院へ入らねば生きてはいけない子たちが沢山いたのですね。
孤児を預かる施設は、
終戦後だけではなくて、
名前は違っても以前からあったようです。
ウイキペディアによりますと、
日本においては、
奈良時代に83人の孤児を収容養育した和気広虫や淳和皇后などをはじめ、
昔から寺社などに身寄りのない児童が引き取られていた。
とあります。
そして、
「鐘の鳴る丘」の歌と共に流れるYouTube映像では、
黒板に英文字が綴られ、
子供達が英語の教科書を開いています。
戦時中に女学生だった母は、
英語は敵性語だと習うのを禁じられたというのに、
終戦後は英語も良くなったのですね。
当時はアメリカの占領下ですから当たり前かもですが。
音ちゃんのミュージックティーチャーが、
占い師になっていてというのはお愛嬌でしたが、
今こそ成長すべき時なんて言ってました。
音楽家や軍人さんに限らず、
終戦後は、
すごい価値観の転換の時だったのがわかります。
しかし、
場合によっては、
簡単には変えられなかったこともあったでしょう。
良心の呵責にさいなまれもしたことでしょう。
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「鐘の鳴る丘」の歌は最後に、
明日はもっと しあわせに
みんな仲良く
おやすみなさい
と続きます。
みんな明日の幸せを信じて、
苦しい時を乗り越えてたのでしょうね。
今現代は、
お休みの前になんて思うのでしょう。