初七日の今朝義兄の仏前には葬儀の時に市長から喪主に渡された証が標題だ。市長は市の伝統産業に多大の功に報いての説明をしていた。意味が解らぬので調べてみた。敬い仰ぐいみとあるが、影には「心に思い浮かべた、目の前にいない人の姿。」の意味もある。ようやくぼんやりと理解できた。敬仰もあるが、故人だから、影を使ったと思われる。今度は49日の納骨に再び金沢へ。景仰でバ-に行くのははばかられない。死んだ親父と同じで元気ならイケイケドンドンは快く了解だろう。昼からの寺6件の墓参りの難所は卯辰山にある墓苑、一番遠く小中学性の頃は遠足の地のひとつで車代と時間を考えたら、時間でタクシ-を借り上げた方が得と思われた。指宿の枕崎から南薩摩の鑑真和尚の上陸地、坊津へ行く時以来のタクシ-料金交渉をしたら、墓参お手伝いコ-スがあって、2回行使のダブル料金で成立。実メ-タ-より2千円安くなった。運転手さんも若く優しい人で、最後の下車時に2時間かかっていませんが、よろしいんでしょうかとの声もあった。鞍月用水をアップ。紫陽花も終わり。
高校仲間と家人と3人で食事をした。肴はできるだけ東京で食せないものを食べることにした。画像のものなどを食べ、最後はポロポロ気味の魚素麺で〆たが、アルコールも入って行かない予定の、しばらく寄っていないボッタクリのバーへ。アラシクスティの元ジュディオング風のママとアラフォ-おバンにやっぱりボッタクラれたたが、時計を見れば一時半ごろまでいたからしょうがない。翌朝はけだるさが待っていた。画像はつき出しの写真も綺麗に撮れたが貝にのた左はこのわた。右上は能登半島で獲れれる白さえび、左下はやや毒性があるので丁寧に洗って食べる赤西貝、右下はたれが付き過ぎだった夏の金沢名物どぜうの蒲焼、他はすべて略。
家人が本を買いたいという。片町にあった書店を探したが、柿木畑に移動していた。商業地区は片町からこちらに移動してしまって、この書店がようやく適当な地を探し当てたと言うことだろうか。デパートの商品の貧困性といい、街は変わっていく。変わっていくのは町並みも。戦災を受けない金沢は時間をかけて路幅を広げたが、建物は高さの凹凸が激しく、更に邸宅の横にアスファルトの無機質な駐車場や倉庫、戦前の建物の横にマンション、街中は野放図な風景破壊が近年続いている。観光で来た人は、石川門や兼六園では満足はしないはずだ。街並みが出鱈目だ。本屋で家人と別れて独り用水路に従ってホテルまで歩いた。途中足軽の家と言うのをみた。懐かしい木の皮を引いた屋根に石が残っている。旧街道の北国街道の大樋町にいたる家並みなどに見られた風景だ。今はどうなっているか、今度行ってみよう。
家人がキルトをやっているが、手鞠に興味も。朝は南町にある作品、材料、教室をやっているお店を覗くことになった。水引の方が楽しいが。地元デパートで和菓子を知り合いに送り、明日は義兄の初七日だからということでYシャツも足りず、買った。ブランドの数が2種類しかないには驚いた。好みではないが、やむ得ず買って、案内嬢に荷物を預けて、成巽閣へ。途中のスコールのような雨は、下車したら雨宿りの場所もないので、ずぶ濡れは必至なのでバスの終点の大学病院まで行って雨宿りをした。20分後に戻った成巽閣は家人の好みの今回の展示物の世界だった。お姫様のおもちゃもあり、それなりに楽しかった。画像はお店の指ぬきと手毬。下は手箱の蓋だがサイズは実際にはそれぞれ全く違う。