白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ジュネのいう「悲劇」/「見えない」ジルという恐怖

2019年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
悲劇は古代ギリシアから発生した。それは悲劇そのものであった。悲劇そのものであるとはどういうことか。一切の観衆は目の前で演じられている悲劇から、何ら教訓のかけら一つも受け取らないということと等しい。すべての観衆は悲劇から悲劇を受け取るのであって教訓を受け取るために悲劇に見入るわけではない。

「悲劇は歓(よろこ)ばしい一刻(ひととき)である」(ジュネ「泥棒日記・P.304」新潮文庫)

ジュネはそう述べる。というのはこうだ。

「もろもろの歓ばしい感情は、微笑の中に、体(からだ)全体の、そして顔の心地よい躍動の中に現われるだろう。いわゆる悲劇的主題の持つ生真面目(きまじめ)さというものは英雄の関知するところではない。彼は、たとえそれ垣間(かいま)見ることはあるとしても、それを見ることは決してないだろう。英雄は生れつき無頓著(むとんじゃく)をその性(さが)とするのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.304~305」新潮文庫)

ジュネのいう「生れつき無頓著(むとんじゃく)をその性(さが)とする」者。それが「英雄」である。そしてそうした英雄なしに世の中に悲劇、少なくとも「歓(よろこ)ばしい一刻(ひととき)」としての悲劇など存在しないと述べる。しかしそのような悲劇とはどのような悲劇なのか。単純なことだ。面倒だが二百九十頁ほどさかのぼってみよう。

「彼らの暴々しさ、それはあたかも呪(のろ)いのように彼らを捉(とら)え、そして、彼らを燃やす炎であると同時に我々を眩(まば)ゆく照らす光でもあった、彼らの裡(うち)の火によって激しく燃えあがるのである。もちろん我々は、彼らの冒険がいわば児戯に類するものであることを知っている。そして彼らは愚かな人間にすぎない。彼らはたとえばトランプの勝負で相手がーーーあるいは彼ら自身がーーーインチキをしたというだけで殺したり殺されたりすることを辞さない。しかしそれにもかかわらず、この種の若者が存在してこそ悲劇は可能となる」」(ジュネ「泥棒日記・P.14~15」新潮文庫)

彼ら彼女ら、年齢でいえばまだ十代そこそこの若年層だ。そして避けられない暴力的衝突に迫られたとき、彼ら彼女らは逃げるということをよしとしない「暴々しさ」を身に秘めている連中でなければならない。同時に彼ら彼女らは知ってもいる。「彼らの冒険がいわば児戯に類するものであること」そして「彼らは愚かな人間にすぎない」ということを。トランプ遊びしているとき、インチキが行われたというただそれだけのことで、「殺したり殺されたりすることを辞さない」。古代ギリシアで演じられていた悲劇は、まさしくこの種の悲劇の起源でなくてはならないだろう。そこから何らの教訓も引き出し得ないという意味を含めて。ところがしかし現代社会になると、とりわけマスコミは、そこから利潤を引き出す方法を身に付けた。ニーチェを限りなく激怒させるのは、上流階級から下級階級まで広がりわたった、そのような近現代人の破廉恥ぶりである。「民衆」でない近現代人などいるだろうか。人間の民衆化、すなわち人間の一般化、記号化、平板化、凡庸化、群畜化は、人間の一般的言語化によって行われる。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)

そしてすべて一般化し記号化し群畜化し、すなわち「民衆」と化した近現代人による「武装」はしょせん「の武装にすぎない」とニーチェがいうのはそういう意味だ。

「民衆の武装はーーー結局はの武装である」(ニーチェ「権力への意志・第三書・七五四・P.269」ちくま学芸文庫)

さて、ジュネが見つめる「彼らの暴々しさ」。それは「彼らの裡(うち)の火によって激しく燃えあがる」ことを特徴とする。社会的な規範化の流れからはみ出る部分を持つ。規範化されえない度はずれな強度を内部に秘めながら、しかし、その度はずれな強度を一体どのようなものへ向けてどのように解き放ってよいのかさっぱりわからないし、わかろうともしない。その「無頓著(むとんじゃく)」というほかない「その性(さが)」。いまでは急速に失われているが、かつて場末に行くと、しばしばそういう若年層がたむろしていたものだ。そして彼ら彼女らには躊躇がなかった。それは幸福を約束されているからではなく、逆に、ほとんどの場合、「死《への》意志」の実現であり、なおかつ自己実現のためには歓びをもって死へ投身することこそ何より晴れやかな人生の舞台のように思えていたからにちがいない。そしてそのような社会的環境を自分で自分自身の身に積極的に引き受けるという態度に対して誇りを持っていたのだ。馬鹿馬鹿しいことはわかっている。たかがインチキ賭博の類に過ぎない行為が発端だ。しかし彼ら彼女らが心密かに待っていたのは、まさしく、この、見破られたインチキなのだ。この瞬間を逃す手はない。この瞬間をきっかけにして、制御の利かない強度を持て余す彼ら彼女らは、ようやく自分の死に場所を見つけることができたのだから。ジュネのいう英雄的行為とは、その瞬間について見て見ぬふりをして通り過ぎるのではなく、まさしく自分が死に得る場所を見抜き、それを手放さずに捉えたということのうちに光り輝く。「良心の疚(やま)しさ」抜きに「死《への》意志」へ疾走するためには、きっかけなどほんの取るに足らないインチキ賭博の類で十分だった。そして彼ら彼女らは、一切のためらいを失った「死《への》意志」を留保なき「英雄《への》意志」としてまたとない手がかりに変える。きっかけなど何でもよいのだ。言葉を置き換えてみよう。「実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」と。

ところでこのような場合、たとえば裁判所では、インチキを為した人物に対して「刑罰」という形を取るのはなぜか。あくまで「社会的秩序のなかで誰かを低位に置くこと」が目的なのであって、逆に、まちがっても容疑者を「威嚇することでは《ない》」。そして裁かれようとしている人間は差し当たり誰であっても構わず、現実に「社会的秩序のなかで誰かを低位に置くこと」ができるのなら、それを「実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」。若年者による場末の悲劇と法廷で行われる裁判闘争と、いったいどこがどう違うのか、混乱を呈するのはこのようなときだ。

「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)

とすれば、人間は人間という「生きもの」として、子どもたちと大人たちとの《あいだ》に驚くほどの違いはないということになりはしないだろうか。刑罰、報復、復讐、圧政、支配。これらにおいて、子どもたちと大人たちとの《あいだ》にあるのは各々に固有で尊重されるべき《差異》ではなく、むしろ両者のおぞましい《同一性》だということになりはしないだろうか。少なくともジュネはそれを目の当たりにしている。

「場末の安踊り場には、音楽に対して無頓著で、その作用を受けているというよりはそれを導き進めているように見える、厳粛な若者たちがいる。また他の者たちは、はすっぱ女たちに、その一人から背負いこんだ梅毒を歓ばしげに撒(ま)き散らしている、すなわち、彼らは、彼らの見事な肉体の廃頽(はいたい)ーーーそれはすでに見世物小屋にあるような彼らの蠟(ろう)の顔に現われている、ーーーに向って平然と、口もとに微笑を浮かべながら進んでいるのである。英雄が幸福に向ってでないとすれば死ーーー必然の終局ーーーに向って進んでゆくとき、かれはあたかも自己の最も完全な実現、それゆえ最も幸福な実現に向ってであるように、歓ばしい心をもって進んでゆく」(ジュネ「泥棒日記・P.305」新潮文庫)

年齢性別国籍を問わず、ジュネのいう「英雄的」な死に場所の発見者は、けっして「顰(しか)めっ面(つら)を」しないことによって特徴づけられる。

「英雄は、英雄的な死に対して顰(しか)めっ面(つら)をするなどということはできるはずがない。彼はこの死によってこそ初めて英雄であるのだから。この死は栄光なき人間たちがあのように苦渋をもって捜し求める唯一無二の条件なのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.305」新潮文庫)

だからといって、名もない若年者らが歴史に名を残そうと考えているとしたら、それこそまったくのかんちがいというものだ。「英雄的な死」とは、言い換えれば、「堕落と汚辱《への》意志」の記念碑なのである。たとえば、主に十代から、できれば二〇代前半がよりベターだと思われるが、ハーバードやケンブリッジなどで本当にやりたいことを探求するためには、どこか吹っ切れない気持ちを抱きつつも、しかし切断していかなければならないものが人生の途上にはたいへん多くある。こちらからはただ単に切断しただけのつもりでも相手からすれば救いようのない棄てられ方をしただけにしか思えないことならもっとたくさんある。それでもなおそれぞれはそれぞれにおいて疑うことのできない「力《への》意志」を持っている。個々人は無意識の裡(うち)に個々人を動かす動力としての「力《への》意志」に従っているに過ぎない。そしてそれを否定することは誰にもできない。もし多少余裕のある大人にできることがあるとすれば、それは往々にして「方向喪失」してしまいがちな「力《への》意志」に対して何らかのベクトルを与えてやるということでなくてはならないだろう。

ちなみに、今の世界で多発している資本の混乱は、資本化可能な流動的強度あるいは労働力を、規制緩和にかこつけていとも安易に「方向喪失」させてしまった結果、収集のつかない状況に陥っていることは言うまでもない。このままでは回帰してくるはずだった利子がなぜか回帰してこないという事態が生じてくる。わかりきっていたことだ。それでも国際世論は馬鹿げた勇気を発揮して自分で自分自身に対してよりいっそう全面的で、よりいっそう増大する前代未聞のリスクへと無批判的に突入していく。そしてもし、破綻したら?もちろん、すべてが一挙に崩壊するわけではないけれども、そのうちの重要部分は早急に復旧されることを望む。自己目的として望む。そしてまた、資本の自己目的に対して人間は逆らうことができない。とすればそのとき真っ先に要請されるのは結局のところ税金である。ところが資本主義の顕著な特徴としてもはや動かしようのない現実が立ちふさがる。かつてマルクスは言わなかったろうか。「資本は個人的な力ではない、それは社会的な力である」(マルクス=エンゲルス「共産党宣言・P.59」岩波文庫)と。

「それはまさに栄光そのものなのだ。それは(この死と、それへと人を導くもろもろの外見的不幸の集積とは)、あらかじめ運命づけられた生涯の戴冠(たいかん)なのである、しかし他の何にもましてそれは、我々を永遠に光り輝くものとして示す(我々の名前を帯びたこの光が消え去る時まで)一つの理想の鏡の中の我々自身の視線なのである」(ジュネ「泥棒日記・P.305」新潮文庫)

この箇所で少々注目しておきたい部分がある。「彼らの暴々しさ」。「インチキをしたというだけで殺したり殺されたりすることを辞さない」彼ら彼女らに特有の「無頓著(むとんじゃく)」というほかない「その性(さが)」から生じる「悲劇」。なるほど場末ではありふれた光景の一つに過ぎない。取るに足りないように思えるこの種の「悲劇」はしかし、警察署の書類にはしっかり刻印され登記されることを忘れてはいけない。警察権力による厳重な「登記」。それこそが、ただ単に力を持て余して死におよんだ若年者がーーー俗世間とは正反対の意味でーーー「英雄」に《なる》条件である。

なお、「他の何にもましてそれは」、彼ら彼女らにとって、「理想の鏡の中の我々自身の視線なのである」とある。この「視線」について、ラカン用語を用いることが許されるとすればあえて「まなざし」だと言っておきたいと考える。彼ら彼女らの「悲劇」を「永遠に光り輝くものとして」存続させるのは、ジュネの愛に満ちた「まなざし」によってである。

「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・P.327」岩波書店)

さて、大真面目であるにもかかわらずなぜか滑稽に見えてしまわなくもないセブロン少尉の言動。しかしセブロンにすれば、一つ一つの言動にはその原因として作用するれっきとした論理的態度がある。セブロンは戦艦の上官であるという特権的地位にある。ところが下級水兵でしかないクレルの身体を妄想しては自室で自慰におよび空(むな)しく脱力してしまうという無駄な反復を繰り返している。ところでこのシーンでセブロンが相手にするのは警部とジルとである。セブロンの発言次第でジルは或る障害行為の犯人として監獄に叩き込むことができる。だがセブロンはふと或ることに気づき、ただ単に無力な少年に過ぎない小汚いジルをいじめるのではなく、ジルという微妙な立場を利用して自分の快楽のために利用することを思いつく。

ごく一般的な世論からみて、日々艦船で様々な指揮にあたっているセブロン少尉が、このような名もなき少年を大したことのない障害沙汰で獄中に放り込むというのはまずないと考える。警部もそう思っている。セブロンは「温情ある心遣い」を行使するだろうと期待される。ところがセブロンの精神的流動はそう単純にはいかない。一方でジルの「傷害行為を否認する」と同時に「温情ある心遣い」によって「弁護することをも否認」するのだ。一方で無罪を宣告しながら同時にもう一方で弁護することまではしない。無罪宣告と弁護とはまたちがっている。ジルは宙吊りになるほかない。セブロンは「温情ある心遣い」を与えてはすぐ突き放す。ジルの身体は犯罪者であり同時に犯罪者でない。セブロンは自分の地位によっていっそう厚い保証を得ている「温情」というものの力をもて遊ぶことで「温情」自体の効力を自己破壊してしまう。警部は馬鹿にされているように思う。しかしセブロンという本物の男性同性愛者からすれば、このような仕方でしかジルの精神と一体化することは許されていないのだ。セブロンはほかでもない少尉という地位によってジルの身体とは隔絶されている。ジルの肉体美を美そのものとして愛しむさぼることは不可能だ。だからせめて精神の融合だけでもと強烈に欲望する。成就させたい。それが、一見わけのわからないセブロンの言動の起爆装置として働いている。このわけのわからなさは、一方でジルの身体を丸ごと救い出し、もう一方でジルの犯罪だけなら罰してもよいことにしようという、セブロンならではの不可能な可能性への誠心誠意の愛と現実との衝突不可避な絶望的切実さから到来している。

「単に若い左官の傷害行為を否認するのみならず、温情ある心遣いによって左官を弁護することをも否認しながら、左官から離れるような態度を示すにつれて、ますます神秘的なーーーそして緊密なーーーやり方で左官に結びついていた。自分の温情を否認することによって、少尉は温情そのものを破壊し、犯罪人に対する寛容しか、あるいはさらに犯罪に対する精神的加担しか、生き永らえされてはいない」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.299~300」河出文庫)

金を盗んだのはジルの犯行でないとすれば、セブロンの犯行だということになる。一方、ジルは指名手配中の殺人者でもある。セブロンは身体による融合が無理だとわかった時点で、こんどは「光り輝く」「犯罪者」としてのジルと同一化しようと図ったのだ。そしてそれは成功した。セブロンはともかく、いったん留置場の独房に入れられることになった。すぐ釈放されることがわかっていながら。それでもなお、留置場の独房の孤独さは、いくらかでもジルとの距離を縮めることに役立っただろうか。そしてまたセブロンは、自分の姿が見当たらなくなり指揮官を失った艦内の様子を想像して「満足」を感じる。卑劣さという態度は、ときとして何という甘美な情動をこの世に出現させるものなのだろうか。ただ、このときのセブロンの脳裏で、留置場の独房にいる自分と、いつもは船底の石炭置場で真っ黒な灰にまみれながら隆々たる筋肉をみなぎらせているクレルとの一体感を感じ取り、幻想的快楽に溺れていただろうことはおそらく間違いない。

「結局、彼は寛大たらんとする彼自身の熱望に励まされ、真の犯罪者の光り輝く存在に鼓舞されて、金を盗んだ罪をみずから負ってしまった。警部が彼は逮捕することを警官たちに命ずるのを聞くと、セブロンはひそかに自分の海軍士官としての威光にすがりついた。しかし留置場の独房に閉じこめられて、今ごろ艦内では大騒ぎしているにちがいないと思うと、彼は満足だった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.301」河出文庫)

セブロンの卑劣さ。それはクレルと出会う前からセブロンに備わっていた態度だ。しかしそれが実際にどのような効力を発揮するのかを知ったのはクレルの肉体美の虜(とりこ)になってからである。これといった用事もないのにセブロンは中尉の名においてなぜかクレルを呼び出し自室を掃除させる。そのときあちこちから見え隠れするクレルのたくましく繊細な筋肉繊維の動きの一つ一つとそれが醸し出すえもいわれぬ陰影。たびたびクレルを呼び出しその肉体美に溺れようとするセブロンの卑劣さ。セブロンの卑劣さを逆に手玉にとって何食わぬ顔でのほほんと気楽に振る舞うクレル。このままではセブロンはますます卑劣になっていくだろう。一方、ブレストのマスコミはすでにジルの名を公表していた。

「新聞はジルの事件ーーーブレストの二重殺人ーーーをいまだに語り、警察は殺人犯をいまだに追っていた。新聞記事の描き出したところによれば、殺人犯は警察を手玉にとって、にっちもさっちも行かないようにさせてしまうことができるほどの怖るべき怪物であった。ジルはジル・ド・レエのような、恐ろしい何物かになっていた。ブレストの民衆にとっては、見つからないということは、目に見えないということを意味していた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.314」河出文庫)

ここで「恐ろしい何物か」とある。俗世間のあいだでは一挙に広がるこの種の恐怖感情は、犯人が「見つからないということ」以上に、「見えないということ」によってはるかに増幅される傾向をもつ。たとえば今のネット社会がそうだ。犯人は何もたった一人だとは限らない。たった一人だとは誰も言っていない。しかし複数だとも限らない。単独と複数とは全然事情が異なる。にもかかわらず誰か特定の犯人が「見つければ」一般社会は安心するのだろうか。そうではない。犯人あるいは関係者が逮捕されたとしても、実現されたネット社会において、さらなる犯人を想定することはもはや常識以前である。そして犯人という匿名性はいつも「見えないということ」によって無限に恐怖を増殖させていくのだ。技術の進歩がネット社会を生んだ。恐怖がネット社会を生んだわけではない。しかしネット社会は技術の進歩にもかかわらず、むしろそれゆえに、ネット社会を通して新しい恐怖をどんどん生み出しつづける恐慌(パニック)生産機械としてますます強度と領土とを得ていく。

社会。たとえば日本社会。それは何か。法的にはなるほど一つの国家ではある。だが現実的には常に諸外国と繋がった形でしか存在しない。経済的循環は停止することを許さないからだが。したがって一つの国家はいつも少しづつ形を変容させている。その量的変化が或る一定量を越えると質的変化へ転化する。質的転化による混乱を最小限の枠内に収めておくために採用されているのが現在の「制度としての家庭」というシミュラクル(見せかけ)である。それは家族単位から発生した。しかし発生時点では資本主義は存在していなかった。家族はそのうち慣習化した。当り前のものになった。ところが習慣化して凝固しているのをいいことに十九世紀に出現した資本主義は、家族ではなく、「制度としての家族」を最大限に利用することを思いついた。そしてそれは今なお十分に活用されている。

「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.151~152」河出書房新社)

資本主義の側から都合よく派遣されているだけであるにもかかわらず、それでもなお「家族〔ロゴス〕中心主義」を扇動してはばからないマスコミの態度は、相変わらず「<背信の翻訳>」を行う《背信の翻訳者》でしかない。グローバル化した資本が、なにをどう間違ったとしても「日本第一主義」を掲げることは今後ともほぼ不可能というほかない。世界は融合していく。第一に、日本の多国籍企業こそ最も高速で世界各地に拠点を置きつつ日夜絶え間なく欲望の生産を生産し、また必要なときには欲望の抑制を欲望させているではないか。そして世界的に大きな影響力を持つ日本の多国籍企業が今なお日本の政界と政界による操作を受ける日本社会とを通して一般的家庭に派遣されているのは、特定の多国籍企業のために創設された「制度としての家庭」というシミュラクル(見せかけ)に過ぎない。いまなおそうなのだ。それに従うことは一般家庭にとって経済的な利得があるなどといまだに信じているかぎり、日本はますますどん底へと邁進していくだろう。

そしてこの事実から演繹するに十分なのは次の言葉だ。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)

さらに消費増税について述べるのを忘れているわけではないが、税とは何か、重要なのはそのことだ。

「税が経済の貨幣化をもたらすのであり、税が貨幣を作り出す。税が、必然的に運動、流通、循環の中にある貨幣を作るのであり、循環する流れの中で、必然的に役務と財に対応するものとして貨幣を作るのである。国家は税に、対外貿易の手段を見出す、つまり対外貿易を所有する手段を見出すだろう。しかし貨幣形態が生まれるのは、交易からではなく、税からなのである。そして税から発生する貨幣形態によって、国家が外部との交換を独占すること(貨幣による交換)が可能になる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.190」河出文庫)

ものの見事に核心をはずすマスコミ報道はもうたくさんだと言ってきた。これからも言っていくしかないのだろう。

BGM