ジュネは「有罪性」を帯びている。そしてそのことを十分に意識している。有罪性とは何か。それは国家の側が個別の側に向かって一挙に与える社会的烙印にほかならない。しかしジュネは国家共同体の側から与えられた有罪性の烙印を自分の生と性のために活用することを欲する。
「有罪性なしに自恃の念は存在しない。もし自恃の念(倨傲(きょごう)さ)が最も大胆な自由であるならばーーー神と決闘するサタンーーー、もし自恃の念が、そこにわたしの有罪性がそびえる、そしてそれで織られたところの、壮麗なマントであるならば、わたしは有罪であることを欲する」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
そもそも国家はどのようにして出現したか。ニーチェから引こう。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
国家の出現はほとんどいつも奇襲的爆発的暴力によってなされてきたという連綿たる歴史がある。しかしなぜジュネには「場所」が「与えられ」なかったのか。
「棄子であるということのために、わたしは孤独な少年時代と青春とを持った」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
だから「泥棒した」。そのうち「泥棒」に《なる》。という経過があった。それに対して国家の側は社会的価値観による実力排除を行使した。ジュネは孤立する。このような傾向はそのすべてが表面化されていないというだけのことであって、実際は今なお世界中で多少なりとも風習として残っているだろうとおもわれる。さらにその最も洗練された形態では、風習どころか、逆に先進的自己更新性を獲得した資本主義の運動として様々な公理系を付け加えながら、日々欲望の流れの条理化に余念がない。排除された有罪者はもはや「孤立」しない。「管理」されるのだ。サンプルとして、データとして、マーケティングの対象として。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
さて、ジュネが生きていた時代に戻ろう。といっても今や現代特有の「管理社会」が出現したということのほかは、当時からほとんど変わっていないように見える。有罪性を帯びた者。泥棒になった者。犯罪者。ジュネを含め、彼ら彼女らはどのような取り扱いを受けてきただろうか。というより、社会は犯罪者をどのように利用し同時に活用してきたか。二箇所列挙する。
「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)
「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)
そして事態がそういうことでしかないならば、むしろ「わたしは有罪であることを欲する」とジュネはいう。ニーチェのいう「運命愛《への》意志」である。
「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)
「運命愛」の解釈になるが、ジュネは有罪性を社会の側から「与えられるもの」として受け取るのでは《なく》、ジュネの側から「かちとるのだ」と述べる。
「有罪性は独異性を現出させる(他との混合状態をぶち壊す)のであり、もし有罪性が硬(かた)い心を持っているならば(なぜなら、罪を犯したというだけでは十分でなく、その罪に値し、そしてその罪を犯したということに値する存在とならなければならないのだから)、彼はその彼の心を孤独という台座の上に高く掲げるのである。孤独はわたしに与えられるものではない、わたしはそれをかちとるのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
有罪性の烙印がもたらす徹底的な孤独と排除。しかしジュネはそれと「闘う」というわけではない。勇ましく闘って英雄になるとか、討ち死にして神格化されるとかいう方向を目指さない。むしろ「有罪性、犯罪者、破壊者」であるという世間の眼に対して、わたしは「有罪性、犯罪者、破壊者」でありそれ以外の何ものでもないという態度を積極的に選択する。といってもジュネの場合、有罪性は「裏切り、盗み、性倒錯(フェチ含む)」といったありふれたレベルでしかないのだが。それはともかく、「孤独はわたしに与えられるものではない、わたしはそれをかちとるのだ」と宣言する。その積極性とはどういうことか。
「『能動的』とは何か?ーーー権力をつかみかかること」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六五七・P.179」ちくま学芸文庫)
そしてまた積極的に選択するとはどういうことか。
「弱い人間たちは『私はこうせざるをえない』と言い、強い人間たちは『事はこうあらざるをえない』と言う」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・五二三・P.289」ちくま学芸文庫)
ジュネは是非もなく「強い人間」になろうとますます自分で自分自身を鍛錬していく。しかしそれはただ単に筋肉隆々な肉体改造によってマッチョになることとは何の関係もない。そうではなく、政治的社会的機構を通して操作される世間からの排除圧力に対して、「《ディオニュソス的に然りと断言すること》」、である。それがよりいっそう深い汚辱への過程であれ、ますます激しくなる性倒錯への過程であれ、救いようがなければなくなるほど、少なくとも自己「英雄化=神格化」される機会から遠のくことができるし、人間たちから隔絶されればされるほど人間たちから搾取されることもないのであるから。
ところでジュネは、有罪性から得られる利得について「孤独、美、詩」など様々な呼び方をしている。芸術的だ。同時に「裏切り、盗み、同性愛」とも呼ぶ。これらもまたジュネにとって芸術的でなければならない。両者のあいだに強度の違いはない。あるのは形式的な差異ばかりだ。とはいえ、それらはいつも、一様に「性愛《への》意志」によって貫徹されていることに着目したい。
「わたしは孤独へ、美への念願によって導かれるのだ。わたしは孤独において、自己を確定することを、すなわち、わたしの輪郭を決定し、混合の状態から抜け出し、わたしを秩序づけることを願う」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
ジュネは「裏切り者、泥棒、同性愛者」として、その「孤独」、その「自己確定」、その「輪郭」を決定し、或る「秩序」の「創造《への》意志」に《なる》。この生成変化は、しかし、どのようにして行われるべきか。読者には読者それぞれの読みがあるにちがいない。それこそ無数にあるだろう。今の日本語に翻訳するとすればジュネは自分で自分自身を「進路指導」しようと試みているかのようだ。とすれば、さしあたりニーチェが面白いことをいっているので参照しておこうとおもう。
「《われわれは為すことによって棄て去る》。ーーー畢竟、私には、『これをするな!諦めろ!自分に打ち克て!』という、あの一切の道徳が気に喰わない。ーーーそれとは逆に、何かを為せ、繰り返し為せ、朝から晩まで為せ、さらに夜にはそれを夢にまで見よ、と私を励まし駆り立てる道徳、そして、これを《立派に》為すこと・《私》ひとりの身にできるかぎりそれを立派に為すこと以外の何ごとをも全く考えさせないような道徳こそ、私の気に入るものだ!このように生きる者の身からは、こうした生き方に服しないものが次つぎに脱落してゆく。この者は憎悪も反感もなしに、今日はこれが、明日はあれが、風そよぐその度に樹から離れ去る黄色した木の葉のように、わが身から別れを告げてゆくのを、見る。いな、彼は、別れを告げるのを見さえしない。それほどにきびしく彼の眼は、自分の目標を、側方でも後方でも下方でもなくただひたむきに前方を、見やっている。『われわれが何を棄て去るかを決めるのは、われわれの所為であるべきだ。われわれはその為すことによって、棄て去るのだ』ーーーこれこそ私の意にかなうもの、こう告げるのは《私の》信条だ。反対に、私は、眼を開いたまま自分の零落を求めようなどとは欲しない。私は、あらゆる退嬰(たいえい)的な徳ーーーその本質が否定と自己断念そのものであるような徳を、欲しない」(ニーチェ「悦ばしき知識・第四書・三〇四・P.320~321」ちくま学芸文庫)
なお、有罪性が帯びる特徴についての確認。それは「アブノーマル(変則者)、ボーダー(境界線)、脱領土性」である。この点で再び現代社会の特徴がひそかに顔を覗かせる。とりわけ、今なお犯罪者を利用しなおかつ活用するという方法は依然として採用されている点は無視できない。現代社会ではその利用法あるいは活用法が緻密に細分化され、犯罪者はかつてのような近寄りがたい脅威ではなくなった。名誉回復されるべき部分は名誉回復されるようになった。けれども、国家によって「犯罪者」から脅威性が剥ぎ取られていくぶん、それだけいっそう狡猾に国家の枠を越えたグローバルで「犯罪的なもの」は残される。そしてこの「犯罪的なもの」は、かつて国家が犯罪者とその犯罪を利用し活用したように、こんどは逆に国家を利用し活用するのである。かつてのように国家が戦争機械を所有する、というのではなく、こんどは逆に国家が戦争機械の一部分に過ぎなくなるような体制へと加工=合成(モンタージュ)され再編成されるのだ。日本も例外なく再編成あるいは再編集のさなかに組み込まれていると十分にいうことができる。
さて、クレルの対決。命を賭けた闘争。しかしそれはまぎれもなく新しい友情の再生産過程でもある。
「犯人が危険を冒した(自分の首を賭けた)ということだけでも、すでになまなかの論拠では抵抗し得ないような、所有の意識が彼のなかに確立されるには十分であろう。しかし犯人を犠牲者に結びつける友情ーーー犠牲者を犯人の人格の延長とする友情ーーーは、ある魔術的な現象を生ぜしめるのだ。わたしたちは、その現象を次のように表現しようと思う。すなわち、私はいま、私自身の一部(犠牲者に対する私の愛情)が賭けられた危険を冒したところである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.342」河出文庫)
始めはヘーゲル弁証法的二元論のようにおもえる。両極に対立した二つの項が存在する。或る品物を巡っての対立関係がある。クレルが、犯人を犠牲者に結びつける友情と呼ぶもの。「犠牲者を犯人の人格の延長とする友情」の《繋がり》によって、両者は互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機となり、同時に、互いに排除しあい互いに対立する両極として関係し合う。さらに両者はともに命を賭けている。だから勝利した側は主人に、敗北した側は奴隷になる、という暗黙の掟がある。
「私は悪魔とのあいだに一種の契約(文書になっていないが)をむすぶことができる。この悪魔に対して、私は自分の魂も自分の腕も譲り渡すつもりはないが、これらと同じくらい貴重なある物を譲り渡そうとしている。それは何かと言えば、一人の友達である。この友達の死が、私の盗みを聖化するのである。問題は、形式的な華やかさではなくて(涙や悲嘆や死や血のなかには、対象として身ぶりとして事物として、法典のなかの法規よりもっと強力な理由が理由が存在するけれども)、真の魔術に属する行為なのである。この魔術が私をして、友達が《自発的に》自分の生命と交換しようとした品物の、正しい所有者たらしめる」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.342」河出文庫)
貴重な品物を巡ってなされた命を賭けた闘争。クレルは勝利する。ということはすなわち、クレルをして、自分の友達が「《自発的に》自分の生命と交換しようとした品物の、正しい所有者たらしめる」ことになる。そしてもし誤ってクレルが「正しい所有者」にならないような態度を取るとすれば、それこそ「友達が《自発的に》自分の生命と交換しようとし」ておもむいた「闘争《への》意志」に対してかえって侮辱を与えてしまいかねないことになる。当り前のような話だが、相手が友達であるだけにかえって混み入って見えているに過ぎない。なお、犠牲者が友達であることについて少しばかり。そもそも友達同士の間柄というのは多少なりとも互いに互いをたすけ合って生きてきた仲間同士の関係である。さらにそのかぎりで、クレルにせよその友達にせよ、両者ともに幾分かは自分たち同士の「樹液で養われ合ってきた」という事実は疑えない、ということでなくてはならない。だから次にあるように、なおさら「私の苦痛」はなるほど痛い。そしてこの「苦痛」がよりいっそう両者のあいだの絆(きずな)を鋼鉄のごとく鍛えるのだ。
「なぜ自発的なのかというと、私の犠牲者は友達である以上、多かれ少なかれ私の樹液で養われた、私の枝の先端の葉だからである(私の苦痛がそのことを示している)。クレルは、自分が力をつくして禁治産者としてしまうことができるような人物は、一種の瀆聖行為でも犯さない限り、あの盗んだ宝石を自分から奪うことはできないはずだと思っていた。というのは、彼がさっさと身を全うするために警官の手に引渡していた共犯者(そして友達)は、禁錮重労働五年の刑を宣告されていたからである。クレルが盗んだ品物を本当に所有しているという感じをもつのは、自分の不安のためでは全くなく、むしろもっと高貴なと言ってもいいほどのーーーいかなる感情の介入する余地もないーーーある意識のためだった。それは傷ついた仲間に対する、いわば男らしい誠実のようなものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.342~343」河出文庫)
最も傷ついたのは誰か。クレルだろうか。それとも友達だろうか。あるいはこのような事態を目の当たりにした警察だろうか。ただ、クレルは数々の盗品を思い出しながら、様々なものに《なる》。生成変化を旅する。それは欲望に貫かれた盗品の系列をなす。また、泥棒仲間に対する友情あるいは信頼なくして手に入れることができなかったという点で、クレルの盗品の記憶の系列を次々と接続させていく欲望の中には当然、それらの盗みに関わった数々の友達に対する「友情あるいは信頼《への》欲望」がかつて確かに存在したという確実性を感じとることができる。
「わたしたちの主人公は、共犯者に利益を分けたくないという考えをもったことはなく、人間の法律の手の届かぬところに利益を保存しておきたいという考えの持ち主だった。新たに盗みを犯すたびに、クレルは盗んだ品物と自分とのあいだの神秘な絆を確かめたいという欲求を感じるのである。獲得の権利は一つの意味をおびる。クレルはその友達を腕環に、ネックレスに、金時計に、イヤリングに変形させる。彼がある感情ーーー友情ーーーを鋳造することに成功したというとき、そこで問題になるのは、たぶん他人には判断しようのない一つの実験であろう。この錬金術のような変成の術は、彼だけにしか係りがないのである。彼の利益を《吐き出させ》ようと試みる者はすべて、墓あばきの罪を犯さねばならぬであろう」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.343」河出文庫)
そしてまた、これら盗まれた商品の系列の中には中心がない。特権的商品というものはない。ただ、それらは次のような、これといった特権的商品のない、中心のない、脱中心化された諸商品の無限の系列をなすばかりだ。クレルの友達は「腕輪」に、「ネックレス」に、「金時計」に、「イヤリング」に《なる》。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
しかし、ジルの逮捕によって、これまでジルとともに実行してきたすべての盗品はクレルとジルとの共同作業の「利益を象徴する、想像上の黄金の宝石」に変わる。そしてこの変化はクレルの身体が「想像上の宝石」を象徴とする等価性が成り立つかぎりで、クレルは宝石に《なる》。
「ジルの逮捕は、したがって、クレルに一種の男らしい悲しみをあたえた。しかし同時にクレルは、ジルの協力によって行なったあらゆる盗みの利益を象徴する、想像上の黄金の宝石が、自分の肉のなかにほとんど嵌めこまれたような感覚を味わったのである。上述のメカニズムを、作者はごく一般的なものであると主張したい。それは複雑な意識に特有なものではなく、あらゆる意識に特有なものなのだ。ただ、クレルの意識だけはそのメカニズムの材料をさらに必要としていて、意識自身の矛盾から、つねに材料を引出していなければならなかったのである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.344」河出文庫)
ただ、叙述が混み入ったのは、クレルがいつも気にかけているように、常に意識的でなおかつ論理的でありたいという希望を汲んだジュネによって記されたという形をとっているからである。なお、難解かとおもわれるので繰り返しておくと、クレルが、「犯人を犠牲者に結びつける友情と呼ぶもの」とは、言い換えれば、「性的リビドー備給」であるといえる。
BGM
「有罪性なしに自恃の念は存在しない。もし自恃の念(倨傲(きょごう)さ)が最も大胆な自由であるならばーーー神と決闘するサタンーーー、もし自恃の念が、そこにわたしの有罪性がそびえる、そしてそれで織られたところの、壮麗なマントであるならば、わたしは有罪であることを欲する」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
そもそも国家はどのようにして出現したか。ニーチェから引こう。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
国家の出現はほとんどいつも奇襲的爆発的暴力によってなされてきたという連綿たる歴史がある。しかしなぜジュネには「場所」が「与えられ」なかったのか。
「棄子であるということのために、わたしは孤独な少年時代と青春とを持った」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
だから「泥棒した」。そのうち「泥棒」に《なる》。という経過があった。それに対して国家の側は社会的価値観による実力排除を行使した。ジュネは孤立する。このような傾向はそのすべてが表面化されていないというだけのことであって、実際は今なお世界中で多少なりとも風習として残っているだろうとおもわれる。さらにその最も洗練された形態では、風習どころか、逆に先進的自己更新性を獲得した資本主義の運動として様々な公理系を付け加えながら、日々欲望の流れの条理化に余念がない。排除された有罪者はもはや「孤立」しない。「管理」されるのだ。サンプルとして、データとして、マーケティングの対象として。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
さて、ジュネが生きていた時代に戻ろう。といっても今や現代特有の「管理社会」が出現したということのほかは、当時からほとんど変わっていないように見える。有罪性を帯びた者。泥棒になった者。犯罪者。ジュネを含め、彼ら彼女らはどのような取り扱いを受けてきただろうか。というより、社会は犯罪者をどのように利用し同時に活用してきたか。二箇所列挙する。
「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)
「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)
そして事態がそういうことでしかないならば、むしろ「わたしは有罪であることを欲する」とジュネはいう。ニーチェのいう「運命愛《への》意志」である。
「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)
「運命愛」の解釈になるが、ジュネは有罪性を社会の側から「与えられるもの」として受け取るのでは《なく》、ジュネの側から「かちとるのだ」と述べる。
「有罪性は独異性を現出させる(他との混合状態をぶち壊す)のであり、もし有罪性が硬(かた)い心を持っているならば(なぜなら、罪を犯したというだけでは十分でなく、その罪に値し、そしてその罪を犯したということに値する存在とならなければならないのだから)、彼はその彼の心を孤独という台座の上に高く掲げるのである。孤独はわたしに与えられるものではない、わたしはそれをかちとるのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
有罪性の烙印がもたらす徹底的な孤独と排除。しかしジュネはそれと「闘う」というわけではない。勇ましく闘って英雄になるとか、討ち死にして神格化されるとかいう方向を目指さない。むしろ「有罪性、犯罪者、破壊者」であるという世間の眼に対して、わたしは「有罪性、犯罪者、破壊者」でありそれ以外の何ものでもないという態度を積極的に選択する。といってもジュネの場合、有罪性は「裏切り、盗み、性倒錯(フェチ含む)」といったありふれたレベルでしかないのだが。それはともかく、「孤独はわたしに与えられるものではない、わたしはそれをかちとるのだ」と宣言する。その積極性とはどういうことか。
「『能動的』とは何か?ーーー権力をつかみかかること」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六五七・P.179」ちくま学芸文庫)
そしてまた積極的に選択するとはどういうことか。
「弱い人間たちは『私はこうせざるをえない』と言い、強い人間たちは『事はこうあらざるをえない』と言う」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・五二三・P.289」ちくま学芸文庫)
ジュネは是非もなく「強い人間」になろうとますます自分で自分自身を鍛錬していく。しかしそれはただ単に筋肉隆々な肉体改造によってマッチョになることとは何の関係もない。そうではなく、政治的社会的機構を通して操作される世間からの排除圧力に対して、「《ディオニュソス的に然りと断言すること》」、である。それがよりいっそう深い汚辱への過程であれ、ますます激しくなる性倒錯への過程であれ、救いようがなければなくなるほど、少なくとも自己「英雄化=神格化」される機会から遠のくことができるし、人間たちから隔絶されればされるほど人間たちから搾取されることもないのであるから。
ところでジュネは、有罪性から得られる利得について「孤独、美、詩」など様々な呼び方をしている。芸術的だ。同時に「裏切り、盗み、同性愛」とも呼ぶ。これらもまたジュネにとって芸術的でなければならない。両者のあいだに強度の違いはない。あるのは形式的な差異ばかりだ。とはいえ、それらはいつも、一様に「性愛《への》意志」によって貫徹されていることに着目したい。
「わたしは孤独へ、美への念願によって導かれるのだ。わたしは孤独において、自己を確定することを、すなわち、わたしの輪郭を決定し、混合の状態から抜け出し、わたしを秩序づけることを願う」(ジュネ「泥棒日記・P.357」新潮文庫)
ジュネは「裏切り者、泥棒、同性愛者」として、その「孤独」、その「自己確定」、その「輪郭」を決定し、或る「秩序」の「創造《への》意志」に《なる》。この生成変化は、しかし、どのようにして行われるべきか。読者には読者それぞれの読みがあるにちがいない。それこそ無数にあるだろう。今の日本語に翻訳するとすればジュネは自分で自分自身を「進路指導」しようと試みているかのようだ。とすれば、さしあたりニーチェが面白いことをいっているので参照しておこうとおもう。
「《われわれは為すことによって棄て去る》。ーーー畢竟、私には、『これをするな!諦めろ!自分に打ち克て!』という、あの一切の道徳が気に喰わない。ーーーそれとは逆に、何かを為せ、繰り返し為せ、朝から晩まで為せ、さらに夜にはそれを夢にまで見よ、と私を励まし駆り立てる道徳、そして、これを《立派に》為すこと・《私》ひとりの身にできるかぎりそれを立派に為すこと以外の何ごとをも全く考えさせないような道徳こそ、私の気に入るものだ!このように生きる者の身からは、こうした生き方に服しないものが次つぎに脱落してゆく。この者は憎悪も反感もなしに、今日はこれが、明日はあれが、風そよぐその度に樹から離れ去る黄色した木の葉のように、わが身から別れを告げてゆくのを、見る。いな、彼は、別れを告げるのを見さえしない。それほどにきびしく彼の眼は、自分の目標を、側方でも後方でも下方でもなくただひたむきに前方を、見やっている。『われわれが何を棄て去るかを決めるのは、われわれの所為であるべきだ。われわれはその為すことによって、棄て去るのだ』ーーーこれこそ私の意にかなうもの、こう告げるのは《私の》信条だ。反対に、私は、眼を開いたまま自分の零落を求めようなどとは欲しない。私は、あらゆる退嬰(たいえい)的な徳ーーーその本質が否定と自己断念そのものであるような徳を、欲しない」(ニーチェ「悦ばしき知識・第四書・三〇四・P.320~321」ちくま学芸文庫)
なお、有罪性が帯びる特徴についての確認。それは「アブノーマル(変則者)、ボーダー(境界線)、脱領土性」である。この点で再び現代社会の特徴がひそかに顔を覗かせる。とりわけ、今なお犯罪者を利用しなおかつ活用するという方法は依然として採用されている点は無視できない。現代社会ではその利用法あるいは活用法が緻密に細分化され、犯罪者はかつてのような近寄りがたい脅威ではなくなった。名誉回復されるべき部分は名誉回復されるようになった。けれども、国家によって「犯罪者」から脅威性が剥ぎ取られていくぶん、それだけいっそう狡猾に国家の枠を越えたグローバルで「犯罪的なもの」は残される。そしてこの「犯罪的なもの」は、かつて国家が犯罪者とその犯罪を利用し活用したように、こんどは逆に国家を利用し活用するのである。かつてのように国家が戦争機械を所有する、というのではなく、こんどは逆に国家が戦争機械の一部分に過ぎなくなるような体制へと加工=合成(モンタージュ)され再編成されるのだ。日本も例外なく再編成あるいは再編集のさなかに組み込まれていると十分にいうことができる。
さて、クレルの対決。命を賭けた闘争。しかしそれはまぎれもなく新しい友情の再生産過程でもある。
「犯人が危険を冒した(自分の首を賭けた)ということだけでも、すでになまなかの論拠では抵抗し得ないような、所有の意識が彼のなかに確立されるには十分であろう。しかし犯人を犠牲者に結びつける友情ーーー犠牲者を犯人の人格の延長とする友情ーーーは、ある魔術的な現象を生ぜしめるのだ。わたしたちは、その現象を次のように表現しようと思う。すなわち、私はいま、私自身の一部(犠牲者に対する私の愛情)が賭けられた危険を冒したところである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.342」河出文庫)
始めはヘーゲル弁証法的二元論のようにおもえる。両極に対立した二つの項が存在する。或る品物を巡っての対立関係がある。クレルが、犯人を犠牲者に結びつける友情と呼ぶもの。「犠牲者を犯人の人格の延長とする友情」の《繋がり》によって、両者は互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機となり、同時に、互いに排除しあい互いに対立する両極として関係し合う。さらに両者はともに命を賭けている。だから勝利した側は主人に、敗北した側は奴隷になる、という暗黙の掟がある。
「私は悪魔とのあいだに一種の契約(文書になっていないが)をむすぶことができる。この悪魔に対して、私は自分の魂も自分の腕も譲り渡すつもりはないが、これらと同じくらい貴重なある物を譲り渡そうとしている。それは何かと言えば、一人の友達である。この友達の死が、私の盗みを聖化するのである。問題は、形式的な華やかさではなくて(涙や悲嘆や死や血のなかには、対象として身ぶりとして事物として、法典のなかの法規よりもっと強力な理由が理由が存在するけれども)、真の魔術に属する行為なのである。この魔術が私をして、友達が《自発的に》自分の生命と交換しようとした品物の、正しい所有者たらしめる」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.342」河出文庫)
貴重な品物を巡ってなされた命を賭けた闘争。クレルは勝利する。ということはすなわち、クレルをして、自分の友達が「《自発的に》自分の生命と交換しようとした品物の、正しい所有者たらしめる」ことになる。そしてもし誤ってクレルが「正しい所有者」にならないような態度を取るとすれば、それこそ「友達が《自発的に》自分の生命と交換しようとし」ておもむいた「闘争《への》意志」に対してかえって侮辱を与えてしまいかねないことになる。当り前のような話だが、相手が友達であるだけにかえって混み入って見えているに過ぎない。なお、犠牲者が友達であることについて少しばかり。そもそも友達同士の間柄というのは多少なりとも互いに互いをたすけ合って生きてきた仲間同士の関係である。さらにそのかぎりで、クレルにせよその友達にせよ、両者ともに幾分かは自分たち同士の「樹液で養われ合ってきた」という事実は疑えない、ということでなくてはならない。だから次にあるように、なおさら「私の苦痛」はなるほど痛い。そしてこの「苦痛」がよりいっそう両者のあいだの絆(きずな)を鋼鉄のごとく鍛えるのだ。
「なぜ自発的なのかというと、私の犠牲者は友達である以上、多かれ少なかれ私の樹液で養われた、私の枝の先端の葉だからである(私の苦痛がそのことを示している)。クレルは、自分が力をつくして禁治産者としてしまうことができるような人物は、一種の瀆聖行為でも犯さない限り、あの盗んだ宝石を自分から奪うことはできないはずだと思っていた。というのは、彼がさっさと身を全うするために警官の手に引渡していた共犯者(そして友達)は、禁錮重労働五年の刑を宣告されていたからである。クレルが盗んだ品物を本当に所有しているという感じをもつのは、自分の不安のためでは全くなく、むしろもっと高貴なと言ってもいいほどのーーーいかなる感情の介入する余地もないーーーある意識のためだった。それは傷ついた仲間に対する、いわば男らしい誠実のようなものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.342~343」河出文庫)
最も傷ついたのは誰か。クレルだろうか。それとも友達だろうか。あるいはこのような事態を目の当たりにした警察だろうか。ただ、クレルは数々の盗品を思い出しながら、様々なものに《なる》。生成変化を旅する。それは欲望に貫かれた盗品の系列をなす。また、泥棒仲間に対する友情あるいは信頼なくして手に入れることができなかったという点で、クレルの盗品の記憶の系列を次々と接続させていく欲望の中には当然、それらの盗みに関わった数々の友達に対する「友情あるいは信頼《への》欲望」がかつて確かに存在したという確実性を感じとることができる。
「わたしたちの主人公は、共犯者に利益を分けたくないという考えをもったことはなく、人間の法律の手の届かぬところに利益を保存しておきたいという考えの持ち主だった。新たに盗みを犯すたびに、クレルは盗んだ品物と自分とのあいだの神秘な絆を確かめたいという欲求を感じるのである。獲得の権利は一つの意味をおびる。クレルはその友達を腕環に、ネックレスに、金時計に、イヤリングに変形させる。彼がある感情ーーー友情ーーーを鋳造することに成功したというとき、そこで問題になるのは、たぶん他人には判断しようのない一つの実験であろう。この錬金術のような変成の術は、彼だけにしか係りがないのである。彼の利益を《吐き出させ》ようと試みる者はすべて、墓あばきの罪を犯さねばならぬであろう」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.343」河出文庫)
そしてまた、これら盗まれた商品の系列の中には中心がない。特権的商品というものはない。ただ、それらは次のような、これといった特権的商品のない、中心のない、脱中心化された諸商品の無限の系列をなすばかりだ。クレルの友達は「腕輪」に、「ネックレス」に、「金時計」に、「イヤリング」に《なる》。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
しかし、ジルの逮捕によって、これまでジルとともに実行してきたすべての盗品はクレルとジルとの共同作業の「利益を象徴する、想像上の黄金の宝石」に変わる。そしてこの変化はクレルの身体が「想像上の宝石」を象徴とする等価性が成り立つかぎりで、クレルは宝石に《なる》。
「ジルの逮捕は、したがって、クレルに一種の男らしい悲しみをあたえた。しかし同時にクレルは、ジルの協力によって行なったあらゆる盗みの利益を象徴する、想像上の黄金の宝石が、自分の肉のなかにほとんど嵌めこまれたような感覚を味わったのである。上述のメカニズムを、作者はごく一般的なものであると主張したい。それは複雑な意識に特有なものではなく、あらゆる意識に特有なものなのだ。ただ、クレルの意識だけはそのメカニズムの材料をさらに必要としていて、意識自身の矛盾から、つねに材料を引出していなければならなかったのである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.344」河出文庫)
ただ、叙述が混み入ったのは、クレルがいつも気にかけているように、常に意識的でなおかつ論理的でありたいという希望を汲んだジュネによって記されたという形をとっているからである。なお、難解かとおもわれるので繰り返しておくと、クレルが、「犯人を犠牲者に結びつける友情と呼ぶもの」とは、言い換えれば、「性的リビドー備給」であるといえる。
BGM