白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

或るプロセス=「聖性《への》ジュネ」/制服化するジル

2019年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
世間一般の価値観と隔絶した生活を送っていると、そのうち自分と世間一般とのあいだに「截然(せつぜん)と輪郭づけられている」、「わたしを切り取る線が無慈悲」に出来上がってくるものだ。そしてその線の「角度が鋭ければ鋭いほど」、「わたしはより美しく、より燦(きら)めく」。ジュネの実感である。

「わたしがそれに対立しているところの世間によって境界づけられ、それによって截然(せつぜん)と輪郭づけられているわたしは、わたしを傷つけ、わたしに形を与えている線の角度が鋭ければ鋭いほど、わたしを切り取る線が無慈悲であればあるほど、わたしはより美しく、より燦(きら)めくであろう」(ジュネ「泥棒日記・P.311」新潮文庫)

このような美しい線の切り取り方について、特定の表象の「無慈悲」なまでの明確化の方法について。ベルクソンから。

「表象とはまさしくそこにあるものであるとはいえ、つねに潜勢的なのであって、現勢態へ移行しようとする瞬間に他のものへと連続し、〔みずからは〕消失することを余儀なくされることで中性化されてしまう。この変換が起こるために必要なのは、対象に光を当てることではない。その反対であって、対象のいくつかの側面を冥がりに隠し、対象そのものについてその大部分を縮減して、その残余の部分が《事物》のように周囲に嵌(は)めこまれたままとなるのではなく、一枚の《絵画》として周囲から浮きでるようにすることである」(ベルクソン「物質と記憶・P.71」岩波文庫)

ジュネの聖性論は続けられる。が、キリスト教でいう聖性との「差異=違い」がよりいっそう強調される。この点はけっして揺るがせにできるものではない。

「人はすべて行為をその成就にまで続行しなければならない。その出発点がなんであろうとも、終極はすべて美しいはずだ。行為が醜いのは、それがまだ成就されていないからなのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.311~312」新潮文庫)

成就への過程、それはジュネによれば「透明さへの探求」である。そしてもし「終極」があるとすれば、そのときすでにジュネは「透明」な何かに《なる》ということであり、「透明なものそのもの」になっていなければならない。そのときもうジュネは誰の眼にも見えないのだ。ただそこへ至る過程だけがあることになるだろう。「始まりも終わりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲」として、ジュネは放浪の線を引いていくばかりであるだろう。

「リゾームには始まりも終わりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲なのだ。樹木は血統であるが、リゾームは同盟であり、もっぱら同盟に属する。樹木は動詞『である』を押しつけるが、リゾームは接続詞『とーーーとーーーとーーー』を生地としている。この接続詞には動詞『である』をゆさぶり根こぎにする十分な力がある」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.60」河出文庫)

ジュネが目指す聖性について何度か述べてきた。が、ジュネはあくまで、キリスト教でいう聖性との差異性を強調する。というのは、ジュネのいう聖性は、というより、そもそもキリスト教でいう聖性というものにはどこか不純なものの混入が明らかに感じとられるからだ。特定の宗教の熱心な信仰者でもない立場からみても、キリスト教の教義の中にはあまりにも奇妙な論理的矛盾が目につく。特にジュネでなくても、むしろどこにでもいる子どもたちにとっても簡単にわかるような奇妙なエピソードがわんさとある。ジュネはいう。

「ヴァンサン・ド・ポールの聖性に、わたしは疑念をいだく。彼は、彼がその身代りとなって鎖でつながれた徒刑囚に代ってまずその罪を犯すことを受諾すべきだったのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.310」新潮文庫)

この「ヴァンサン・ド・ポールの聖性」について、訳註から次の部分を引いておく。

「言い伝えによれば、彼はある罪人が妻子を貧窮の中に残して服役することを嘆くのを聞いてその身代りになることを願い、聴許されたという」(ジュネ「泥棒日記・P.311」新潮文庫)

犯罪者は誰か。まちがってもヴァンサン・ド・ポールではない。ゆえに、犯罪者と入れ代わってその代理を務めることはできない。なぜなら、言うまでもなく、ヴァンサン・ド・ポールは犯罪を犯した人物ではないからだ。犯罪は社会に対して何らかの損害を与えたと認定されるやいなや成立する債務である。なのになぜ、これといった損害を与えたわけでもないヴァンサン・ド・ポールが実際の犯罪者と等価であるとされ、代わりに入獄し、実際の犯罪者と置き換えることができるのか。明らかにおかしい。百万円の価値のある商品Aをほとんど価値ゼロの商品と交換することはたとえ神の身であっても〔資本なら絶対的に〕許されない。ところがそれが成立してしまう不可解さ。そこにキリスト教独特の手の込んだ手品がある。このことは資本主義の賃金体系において重大な問題を生じさせた。たとえば、或る労働者が一日一万円の報酬を約束された賃金労働に従事したとする。実際にもその契約に妥当する労働に従事した。ところがそこに他の人間がーーーヴァンサン・ド・ポールのような人間がーーーやってきて、一日百円でよいので今の労働者の「身代わり」になりたいと申し出たとする。雇用主は一も二もなく他の人間ーーーヴァンサン・ド・ポールのような人間による「身代わり」労働を採用するのはまちがいない。同時にこれまで雇用されてきた或る労働者はーーー一日一万円の報酬を約束された賃金労働者はーーー即時解雇されるだろう。犯罪と労働とではもちろん領域が異なる。しかし犯罪の場合であれ労働の場合であれ、個々人に割り当てられた固有の「力への意志」が発揮する力能に対して、他人が勝手に介入して個々の尊厳を撹乱してはいけないのだ。だから、このように「ヒューマニズム感情」に訴えて社会的諸関係をめちゃめちゃに転倒させてしまう宗教的観念の中には、「ヒューマニズム」にもかかわらず存続したのではなく、むしろ「ヒューマニズム」ゆえに存続してきた「ヒューマニズム」という名の「《権力意志》あるいは《人間侮蔑》がありあまるほどある」とニーチェはいう。

「愛想のよさのうちには、人間憎悪は微塵(みじん)もない。しかし、それだからこそ人間侮蔑が有り余るほどである」(ニーチェ「善悪の彼岸・九三・P.108」岩波文庫)

ニーチェが「キリスト教による天才的ちょっかい」と呼んだ、その一例がここにある。参考としてキリスト教の方法論について引用しておくべきだろう。

「キリスト教は《猛獣》を支配しようとねがうが、その手段は、それを《病弱》ならしめることである。ーーー弱化せしめるというのが、《馴致》のための、『文明化』のためのキリスト教的処方である」(ニーチェ「反キリスト者・二二」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.192』」ちくま学芸文庫)

社会的弱者はそれこそ群れをなして山積している。その光景は古代から変わらない。しかしキリスト教は社会的弱者を救済すると宣伝しつつ、同時に、社会的弱者は「病気」を患っているのだということを「弱者の条件」として与える。貧困が圧倒的だった古代世界において、救済されたいと思う人々はわれもわれもと率先して「病弱」になろうとする。悲惨や貧困から脱出するために人々は今度はみずから進んで「病弱」になり、キリスト者の教えの通り、社会の命じるまま「《馴致》」されなければならなくなる。要するにこういうことだ。

「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者・四九」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)

次にそのための具体的方法はどうだったか。今なお通用しているのでこれも引用しておこう。大きく二点。

「《苦しんでいる者に対する支配》が彼の王国である。この支配は彼の本能が彼に命ずるところであり、この支配のうちに彼の最も独自な技倆、彼の卓絶した手並み、彼一流の幸福が示されている。彼自らがまず病気にならなければならず、病人や廃人とすっかり縁者にならなければならない。それで初めて病人や廃人を理解することーーー彼らと理解し合うことができるのだ。しかも一方、彼はまた強くもなければならず、他人に対してより以上に自分に対して支配者でなければならず、わけても不死身の権力意志をもっていなければならない。それで初めて病人どもから信頼され畏怖されることができ、病人どもの足場となり、防障となり、支柱となり、強圧となり、典獄となり、暴君となり、神となることができる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.159」岩波文庫)

「彼が医者となるためには、まず傷つけてかからなくてはならない。そこで彼は傷の痛みを鎮めながら、《同時に傷口に毒を塗るのだ》ーーーこの魔法使い、この猛獣使い、彼はわけてもこのことに熟達しているのだ。彼の傍にいると、すべての健康者は必ず病気になり、すべての病人は必ず温順になる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.160」岩波文庫)

さらに、いったん「《馴致》」された人々はそれだけで解放されるだろうか。もちろんそんなことはない。《救世主》(メシア)は一度手に入れた権力を手放すことなど思いも寄らない。次のようにして引き続き《救世主》(メシア)として君臨し、教団をよりいっそう巨大化させていく。

「《救世主と医者》。ーーーキリスト教の始祖は、ーーーおのずからにして理解されることだが、ーーー人間の魂の精通者としては最大の欠陥や先入見を持たないわけではなかった。また魂の医者としては、万能薬に対する、はなはだいかがわしい、そしいて素人じみた信仰にはまりこんでいた。時として彼は、その方法の上で、どんな痛みでも歯を引っこ抜いて治そうとするあの歯医者に似ている。こうして、たとえば彼は、肉欲に対してはこう忠告してそれと戦おうというのである、『もし汝の眼汝を罪に陥さば、抉(ぬ)き出(い)だしてこれを棄てよ』と。ーーーだがやはりそこには違いがのこる。例の歯医者は、少なくとも患者の痛みをなくそうという彼の目的はとげる、ーーーもちろん滑稽になるほど無骨なやり方をもってしてではあるが。ところがあの忠告に従って自分の肉欲を殺してしまったと信ずるキリスト教徒は、錯覚をしている。つまり彼の肉欲は或る気持のわるい吸血鬼のような仕方で生きつづけ、不快な覆面をして彼を苦しめるのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・八三・P.336~337」ちくま学芸文庫)

一方、ジュネのいう聖性は、「一つの状態ではなく、わたしをそこに連れてゆく精神の歩容のことなのだ」。常に生成変化していく変容の過程としてしか存在しない。そしてその終極は見えないものであることがわかっている以上、それについて語るような傲慢な態度をとるようなことはまったくしない。

「わたしが聖性とよぶのは、一つの状態ではなく、わたしをそこに連れてゆく精神の歩容のことなのだ。聖性とは、一つの倫理(モラル)の理想上の一点であり、わたしにはそれが見えないから、それについて語ることはできない」(ジュネ「泥棒日記・P.312~313」新潮文庫)

「一つの状態ではなく、わたしをそこに連れてゆく精神の歩容」。それがジュネの、つつましい、あるいはジュネたちの世界の言葉で言い換えれば豪奢な歩みなのだが、それは「一つの世界を表象する義務から自由になった」あるいは「一つの世界を表象する義務から」の「自由」な解放を目指す「創造」という「現実をアレンジする行為」の実践でなくてはならない。本当の「茨の道」があるとすればジュネの歩みこそがそうだと言われねばならない。

「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)

近づいたとおもえば遠のく。そういうものだ。そしてそこには何の資本も集まってこない。むしろ汚辱ばかりが無限大にまで蓄積される。「引き受ける」とはそういうことだ。そしてその行為は周囲からみれば「いわば狂った女なのだ」。

「わたしがそれに近づくと、それは遠のいてしまう。わたしはそれを欲し、それを恐れる。このわたしの精神の歩容は愚かに見えるかもしれない。とはいえ、それは、苦しくはあるが歓ばしいのである。それはいわば狂った女なのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.313」新潮文庫)

カロリーヌを思い出すジュネ。というより、ジュネ自身、「狂った女」たるカロリーヌたちの、そのまた変種だといえるだろう。「あのカロリーヌの姿に肖(に)る」とジュネは書く。

「愚かにもそれは、スカートを捲(まく)りあげられて、そして歓びの叫びをあげる、あのカロリーヌの姿に肖(に)る」(ジュネ「泥棒日記・P.313」新潮文庫)

この際、カロリーヌたちの演じたエピソードについて振り返っておくべきだろう。あの行列の中にこそジュネの場所はあったはずだと回想している。

「あるとき、その中の一人がみずからカロリーヌ(女子の名前、特にヨーロッパの諸王家等、貴族階級に多い)たちと呼んでいた連中(男娼。主に女装していた)が、破壊された共同便所の跡へ列を組んでお参りをしたことがあった。一九三三年の暴動の際、反乱者たちが、最も穢(きた)ない、しかし最も愛されていた辻便所の一つを破壊したのだった。それは港の、そして兵営の近くにあった辻便所で、それの鉄板は、何千という兵隊たちの熱い小便によって腐蝕されていた。それの死が確認されたとき、とりどりに、ショールを肩に掛け、マンチラを被(かぶ)り、絹のドレスを纏(まと)い、胴のくびれた背広を着たカロリーヌたちがーーーカロリーヌの全部ではなかったが、この厳(おご)そかな儀式に代表者として選ばれた連中がーーーその跡に喪のリボンを結んだ赤い薔薇(ばら)の花束を置きに行ったのだった。行列はパラレロ通りから出発して、サオ・パオロ街を通った後、ランブラス通りをロス・フロレスからコロンブスの銅像のところまで降(くだ)っていった。男娼たちはみんなで三十人ばかりだったろう、朝の八時、昇りはじめた太陽に照らされて、わたしは《彼女》たちの通るのを見ていた。少し離れて彼女たちに従(つ)いていったのだ。わたしは、わたしのいるべき場所が彼女たちの中であることを知っていた、ーーーその理由は、わたしが彼女たちの一人だったというわけではなく、彼女たちのきいきい声や甲高(かんだか)い叫びや奇矯(ききょう)なしぐさは、世間の蔑(さげす)みの幕を突き破ろうとすること以外に目的はない、とわたしに思えたからだ。カロリーヌたちは偉大だった」(ジュネ「泥棒日記・P.87~88」新潮文庫)

なお、「一九三三年の暴動」は「スタヴィスキー事件」のことだろう。フランス政界全体を巻き込んだ疑獄事件。信用金庫を舞台にして左派からも右派からも多数の政治家が関与した。信用金庫を勝手に設立した国会議員スタヴィスキーはどちらかといえば左派だが、そこに謎のナショナリスト団体が登場。政治的立場としては左派右派ともに多数の国会議員が絡んでいたにもかかわらず、ナショナリスト団体はなぜか右派に甘く逆に多くの左派を摘発。同時にフランス各地で両派による武力衝突が多発した。この経過を横目で見ていたのが隣国のナチスドイツ。多くの左派摘発に貢献したとしてナショナリスト団体の代表的人物らを重宝する。しかし第二次大戦のドイツ全滅により、結果的にナショナリスト団体の有力者は処刑された。しかし、ここでジュネはそんなことに構っていない。ヨーロッパ全土が裏切りと略奪のちまたと化していくにつれ、ジュネたちの存在根拠である「泥棒」などほとんど何らの意味も反意味すらもなさなくなってくる。戦争や略奪や裏切りが「正しい国民生活」として日常化してしまうと、逆にジュネらの非日常性が損なわれてしまい、ただ単にうらぶれた地方の放浪を繰り返すほか余り面白いことがないといった倒錯した現象が生じてくるからである。

ジュネは犠牲ということがどのようなことなのか、途方もなく深いところまで覗き込んだことのある人物だ。それはけっして身代わり不可能な固有の深淵であるほかないからである。

「わたしは、孤独はそれほどではないが、犠牲を最も高い美徳と考える。それは最も傑(すぐ)れた意味における創造的美徳であるのだ。それには堕地獄の罰があって然(しか)るべきはずだ。罪悪はわたしの倫理的力を確保することに役だちうるとわたしが主張したら、人は驚くだろうか」(ジュネ「泥棒日記・P.313」新潮文庫)

俗世間の価値観からみて、なぜ罪悪が「倫理的力を確保することに役だちうる」か、おそらくほとんどの場合理解不可能かもしれない。とはいえ、理解している人々も思っている以上に多いのが現実だ。人間、たまには深淵を覗き込むのも頭の体操くらいにはなるだろう。生きるとはどういうことかがよくわかる。

「怪物と戦う者は、自分もまた怪物とならないように用心するがよい。そして、君が長く深淵を覗(のぞ)き込むならば、深淵もまた君を覗き込む」(ニーチェ「善悪の彼岸・一四六・P.120」岩波文庫)

ジュネがキリスト教の聖性と混同されてしまうことについて、常日頃から極めて注意深く用心しているのは次の事情による。たとえば、ジュネが或る犠牲を「引き受ける=生きる」ことにしたとしよう。すると周囲はともすればジュネに、ジュネが目指している聖性ではなくいとも安直にキリスト教の聖性を与えてしまいかねない。ジュネは犯罪者が犯さざるを得なかった犯罪を実際に犯すことで犯罪を「引き受ける/生きる」のであって、逆に犯罪者の犯した犯罪の価値の「身代わり」になって獄中に入り犯罪を「ちゃら」にしてしまうのではない。「身代わり」になることで犯罪者の犯した犯罪ではなく、犯罪行為に固有の独自の「《力》という価値」を身に帯びたいがためではない。あるいは自分で自分自身を「神格化」しようという《権力意志》から「身代わり」を申し出ることでもない。もし両者を混同するとすればそれこそ致命的というほかない。ややもすればジュネの生涯を、人間たちの「汚辱(恥部)を実際に引き受ける/生きること」ではなく、ただ単なる破滅の歴史として葬り去ってしまうおそれすら出てこないとも限らない。その点、ジュネはたいへん注意深くなおかつ慎重この上ない。ジュネは両者の混同がもたらすかもしれない危険についてたいへんな危惧を表明しなくてはならない。

「いつ、わたしは心象(イメージ)の中心に躍(おど)りこむことができるだろうか。わたし自身、心象をあなた方の眼に伝える光となることがーーー。いつ、わたしは詩(ポエジー)の中心に身を置くことができるだろうか。わたしは、聖性と孤独を混同することによって、自分を破滅させる危険がある。しかし、この今述べた言葉は、わたしがそれから取除きたいと思っているキリスト教的な意味をふたたび聖性という語に与える危険がありはしないだろうか」(ジュネ「泥棒日記・P.313」新潮文庫)

さて、クレルの用意した鍛錬を経て次第にクレル化してくるジル。そのぶん可憐で可愛らしい美少年ロジェからだんだん距離を置くことになる。この経過はロジェだけでなく淫売屋《ラ・フェリア》の気丈な女将リジアーヌの情念をも大きく揺るがしているのだが、そのことについては機会を改めたい。なぜなら、リジアーヌはロベールの愛人であり、ロベールはクレルの実弟であり、したがって性行為に身を任せて夢うつつのリジアーヌからすればクレルの分身となりつつあるジルはいつでもロベールに《なる》条件を獲得しつつあるからである。さらにリジアーヌ夫人は《ラ・フェリア》の主人ノルベールの妻であり同時にノルベールはクレルを背後から差し貫いて屈辱にまみれさせた支配者の地位を保ってもいる。しかしそのさらに上位には警察官マリオがいる。マリオはノルベーエルと通じている。一方は淫売屋の主人、もう一方は警察官として。しかし少し位置をずらせてフランス海軍の士官セブロン少尉がおり、セブロンはクレオの虜(とりこ)になってしまっている。とりわけ兄弟であるロベールとクレルの存在はその顔の「そっくりさ」だけでなく体質の「そっくりさ」によって、彼らと性行為におよぶすべての人間を翻弄して止まない。人間関係のややこしさのために便宜上そのように述べていくことにしよう。

クレルはクレルの卵であるジルのために奔走する。まず何をするか。どこからか海軍の制服を持ってきてジルに着せてやる。

「ジルは白昼公然と、ブレストの町へ行くことになった。水兵の制服が、彼の姿をかくしてくれるはずだった。殺人犯が水兵の扮装をして町を歩いているなどと、警官が想像する可能性は、万に一つもないと思われた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.323~324」河出文庫)

たちどころに状況が変わる。というか、変わって見えるほかない。

「水兵の服装はジルを一変させ、見たこともない人間のような外観を彼にあたえていた。もう誰もジルだと思うひとはいなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.324」河出文庫)

制服の効果の絶大さ。世界共通であろう。ニーチェはいう。

「はじめてわれわれを見る知らない人の眼には、われわれが自分自身でそうであると考えているものとは全く違って見えることを、われわれはあまりにも忘れやすい。印象を決めるのはたいてい目につく個々の物以上の何物でもない。そこで全く柔和で公正な人が単に大きな鼻髭をたくわえているだけなら、彼はいわばその蔭に、しかも安らかに座っていることができる。ーーー普通の人の眼は、彼を大きな鼻髭の《付属物》と見る。つまり、軍隊的な、怒りっぽい、事情によっては乱暴な性格と見る。ーーーそしてこれに応じて彼の前で振舞うのである」(ニーチェ「曙光・三八一・P.339~340」ちくま学芸文庫)

いまの日本でいえば生徒や社員が制服を通して学校や会社の象徴となるのではない。逆に制服の側が象徴として君臨し、生徒や社員を通して学校や企業の分身となるのだ。だから、昨今の性犯罪や性風俗店で今なお制服(あるいはそれに準ずる服装)がものをいうのは、年齢性別国籍抜きに、犯罪者や客層から見れば、制服という象徴を通してそれに該当する学校生徒や会社員を思うがままに乱れ果てさせ犯し抜き、散々もて遊び、ついに学校も企業も征服してしまう愉悦の情念と化すことが可能だからにほかならない。もしそれが公にされなければ、犯罪者や客層にとって、その制服をまとった全生徒ならびに全社員そして同一の象徴を冠する系列関係にあるすべての人間とその集団は、思う存分自分の欲望にまみれ果てた猥褻と汚辱の塊として眺めることができるし実際そうするだろう。ニーチェは十九世紀すでにそれを「遠近法的倒錯」と呼んで呆れかえって告発していたわけだが。さて次の部分。ジルはただ単に海軍の服装を身にまとっただけなのだが。ただそれだけのことで「最も粋な軍隊の愛すべき溌剌とした精神が、彼の体内に流れこんでいた」と感じる。

「暗闇のなかで、自分だけのために、彼は入念に服装を整えた。小粋な様子を見せようと苦心して、彼はベレー帽をうしろへ傾けた。最も粋な軍隊の愛すべき溌剌とした精神が、彼の体内に流れこんでいた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.324」河出文庫)

問題は戦争反対とか戦争賛成とか戦争やむなしなどという低級下等なレベルには全然ない。「精神」が「流れこむ」とはどういうことかが問われているのである。ホフマンスタールはいう。

「とつぜん心のなかに、鼠の群の断末魔の苦しみにみちた地下室の情景が浮かびあがったのです。心のなかにはすべてがありました。甘く鼻をつく毒薬の香にみちみちた、冷たく息づまるような地下室の空気、黴(かび)くさい壁にあたってくだける断末魔の鋭い叫び、気を失って絡みあい痙攣(けいれん)する肉体、すてばちになり入り乱れて走りまわり、狂ったように出口を探し求めるさま、行きどまりの隙間で出会った二匹の冷たい怒りの眼つきーーー。鼠の魂がわたしの心のなかでおそろしい運命にむかって歯をむきだしたーーーですが、わたしの心を満たしたのが憐憫の情であったとはお考えにならないでください。それはなりません。もしそうなら、選んだたとえがひどくまずかったのです。あれははるかに憐憫以上のもの、また憐憫以下のものでした。それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへとーーーどこからかはわかりませんがーーー流れこんだ、という感覚でした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙・P.113~115」岩波文庫)

この現象が「憐憫の情」とか「同情」とかいった安易なレベルに位置するものでないことはもはや明らかである。

「ホフマンスタールがねずみの断末魔を見つめたとき、ねずみが『非情な運命に歯むかう』のは、人間であるホフマンスタールの心の中の出来事だった。《だがそれは憐憫の情ではない》、とホフマンスタールはことわっている。同一化と言ってしまうと、いっそう的外れなのだ。それは、似ても似つかない個体同士のあいだでたがいの速度と情動が組み合わせられ、共生が成り立つということなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.202」河出文庫)

問題は今なおニーチェが言及した「情動」「パトス」、“passion”=「感情、情熱、激情」の動きである。そしてジュネはそれ自身〔パトス〕であり、また放浪する線であり、ただ通過する「聖性《への》意志」としての“passage”=「パッセージ、通路、通過」あるいは“process”=「プロセス、過程、経過、手続き」でありつづけている。

BGM