白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー10

2019年10月28日 | 日記・エッセイ・コラム
スクリーンにはジャンとリトンとの死闘が映し出されている。

「二人の若者を私は自分の愛情の二重の光の下にとどめていた。彼らがこれから耽ろうとしている殺人遊戯は、むしろ戦士の舞踏であり、そのなかではいずれか一方の死は偶発的な、ほとんど過失にひとしいものといえるだろう。それはいうなれば血を見るまでに至る情事だ」(ジュネ「葬儀・P.65~66」河出文庫)

しかし「殺人遊戯」はなぜ「情事」でもあるのか。それを知るためには人間の快楽はどのように発生するかを知っていなくてはならない。

「『快』の本質が適切にも権力の《増大感》として(だから比較を前提とする差異の感情として)特徴づけられたとしても、このことではまだ『不快』の本質は定義づけられてはいない。民衆が、《したがって》言語が信じこんでいる誤った対立こそ、つねに、真理の歩みをさまたげる危険な足枷(あしかせ)であった。そのうえ、小さな不快の刺激の或る《律動的連続》が一種の快の条件となっているという、いくつかの場合があり、このことで、権力感情の、快の感情のきわめて急速な増大が達成されるのである。これは、たとえば痒痛(ようつう)において、交接作用のさいの性的痒痛においてもまたみられる場合であり、私たちは、このように不快が快の要素としてはたらいているのをみとめる。小さな阻止が克服されると、ただちにこれにつづいてまた小さな阻止が生じ、これがまた克服されるーーー抵抗と勝利のこのような戯れが、快の本質をなすところの、ありあまり満ちあふれる権力のあの総体的感情を最も強く刺激すると思われる」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六九九・P.222~223」ちくま学芸文庫)

さらに。

「人間は快をもとめるのでは《なく》、また不快をさけるのでは《ない》。私がこう主張することで反駁(はんばく)しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。快と不快とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である。ーーー人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《権力の増大》である。この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とするーーーそれゆえ不快は、おのれの権力への意志を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。ーーー不快は、《私たちの権力感情の低減》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの権力感情へとはたらきかける、ーーー阻害はこの権力への意志の《刺戟剤》なのである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・七〇二・P.226~227」ちくま学芸文庫)

生前のジャンから受け取った詩を思い出すジュネ。

「その詩、それは美しかったかどうか問われても、美とはいかなるものかわからない以上その質問に私は正直に答えられない。この本の中では(またこれ以外の作品の中でも)<美しい>という言葉と<美>という言葉はその素材自体にまつわるちからをそなえている。これらの言葉はもはや頭では理解しえないものだ。どこでもいいドレスの一部にダイヤの飾りを縫いつけるような調子で私はこれらの言葉を用いるのであり、ボタンの役目を果させるためではない」(ジュネ「葬儀・P.77」河出文庫)

ジュネ的倫理における「美しさ」について。「泥棒日記」参照。

「すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それですでにそれが美しい行為となることが決る。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起こさせるならば、その行為は美しいのだ。ときとして、下劣とされている行為を我々が思い描くときの意識が、やがてそれを表示するときの表現の強烈さが、我々を否応なく歌に駆りたてることがある。もし、裏切りが我々を歌わせるとすれば、それは、それが美しいからにほかならない」(ジュネ「泥棒日記・P.24」新潮文庫)

音楽がもたらされるとき、その行為は「美しい」。それがジュネの倫理である。間違っても社会的通俗的規則に則った「ボタンの役目を果させるためではない」。

ところで、ジャンの詩は一般的な詩とは「別物」だとジュネは主張する。

「この詩はそれとは別物だった。これら四聯の詩句を、私は別な十二聯の詩句と混ぜ合わせるつもりだった(彼の血が私の血と混ざり合うように。大人げない遊びであることはわかっているが、そんなふうに言いだせば、列強国間の条約の署名儀式だってそうだし、ルトンド十字路の清めの儀式だって、樹皮のなかに頭文字を絡み合わせる遊びだって、またーーー)」(ジュネ「葬儀・P.77」河出文庫)

取り扱い方を変更するつもりでいる。このような取り扱い方の変更は、特にジュネでなくても構わない。むしろ世間一般であっても言語に敏感な人々は思いのほかたくさんいる。ジュネに限らず言語に敏感な人々あるいは言葉が好きな人々はこのような言葉遊びに実にしばしば快感を覚える。そして暇さえあれば言葉遊びに興じる。職場でも授業中でもトイレの中でも。

世界中の人々の間で行われる愛の行為。その数々の奇妙さをおもえば何ら不思議でない。「樹皮のなかに頭文字を絡み合わせる遊び」は余りにも稚拙におもえてしまうわけだが、しかしそれが稚拙だというのなら、「列強国間の条約の署名」もまたその「儀式性」を踏襲しているかぎりで、余りにも稚拙だと言わねばならない。むしろ原始的ではなかろうか。しかし「列強国間の条約の署名」も同様に稚拙に見えてしまうのはなぜだろう。「署名じたい」より、「署名」という行為が持つ「儀式性」に、余りにも幼稚な強迫神経症的宗教的反復性を見てしまうからである。

「神経症的儀式は、日常生活の一定行為のさい、つねに同じか、あるいは規則的に変更される方法で実行されている細かい仕種、付加行為、制限、規定から成り立っている。これらの行動は、われわれには単なる『形式』という印象をあたえ、いわば、まったく無意味に思われる。これは、患者自身もそう思っていないわけではないが、彼らはこれをやめることができない。というのは、この儀式に違反すればかならず耐えがたい不安という罰を受け、この不安がすぐに、中止したことの埋めあわせを強要するからである。儀式行為自体と同じように、その外見や行動もまた細かく、これらは儀式によって飾り立てられ、難しくされ、それだけにどうしても遅滞しがちになる。たとえば、衣服の着脱、就床、身体的諸欲求の充足などがこれである。ある儀式のやり方を記述するには、これをいわば一連の不文律のようなものにあてはめていけばできる、たとえば、寝床儀式ではつぎのようになる。椅子はベッドの前のこうこうきめられた位置になければならず、その椅子の上には、衣服が一定の順序でたたんでおかれていなければいけない。掛布団は足もとでさしこみ、シーツは平らに伸ばしていなければならない。クッションはかくかくに配置し、体まである正確にきめられた姿勢になっていなければいけない。こうして初めて、眠ってよいことになる。軽い症例では、儀式は、習慣上の当り前なやり方が過度になったものと同じように見える。だが、これを行なうにあたっての特殊な小心さと等閑に付したさいの不安とが、この儀式をとくに『聖なる行為』にさせている、たいていの場合、これを邪魔されることは耐えられない」(フロイト「強迫行為と宗教的礼拝」『フロイト著作集5・P.377~378』人文書院)

まるで子どもだ。ところが大人もしばしばこのような「反復強迫」に陥る。フロイトによれば何らかの無意識的「罪責意識」(ニーチェのいう「良心の疚(やま)しさ」)に対する形式的否認の繰り返しによって強迫神経症的な反復が生じてくるとされる。さらにこの無意識的罪責意識にもとづく宗教的反復強迫的行為は「新たな動機の生ずるたびに更新される《欲望》のなかで、つねに新たに作りなおされる」と述べる。だから新たな欲望が生ずるたびにどんどん「反復強迫」的儀式も追加されてくる。終わりなき《自己懲罰》という形式を取る。しかし人間は絶え間なく欲望を生産している。そして欲望の生産は常に無意識的罪責意識(良心の疾(やま)しさ)として感じられざるを得なくさせられている。しかしそれは儀式性を取った《自己懲罰》という形式の反復によってのみ一時的に解消することができると信じ込まれている。だから人間は欲望を感じるたびに《自己懲罰》の反復によって《自己防衛》していなければ、増殖する不安のあまり気が済まない状況に追い込まれるほかない。宗教や軍隊はそのような人間特有の性質を最大限利用しようとするわけだが。

「儀式は《防衛》ないし《保証行為》、すなわち《保護手段》として始まる」(フロイト「強迫行為と宗教的礼拝」『フロイト著作集5・P.381』人文書院)

何度も繰り返し反復される特定の儀式的行為。それは周囲の眼にも自分自身としても余りにも異様なので次第に「無気味」におもえてくる。

「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)

しかし条約調印とまではいかずとも、芸術の領域、たとえば文学ではどうだろう。とりわけ古典的文学の中では独特の「無気味さ」が逆に消え去ってしまってはいないだろうか。あるいは、あるはずのない「無気味さ」を意図的に出現させたりしないだろうか。

「《多くの、もしそれが実生活で起こったならば無気味に思われるようなことも、文学の中ではかならずしも無気味ではないし、また文学には、実生活には存在しないような無気味な効果を生む多くの可能性がある》」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.354』人文書院)

だからといって「列強国間の条約の署名」からさえ「無気味さ」が消え去ってしまうわけではない。逆に将来不安を増大させることがよくある。「列強国間の条約の署名」の場合、むしろ血の臭いが漂ってこないだろうか。ニーチェはいう。

「もろもろの宗教戦争と並んで絶えず《道徳戦争》が行なわれている。これは、一つの衝動が人類を《おのれの支配下に置こう》と欲しているということにほかならない。そして諸宗教が死滅すればするほど、この格闘はそれだけますます《血なまぐさく》なり《目に見えるように》なるであろう」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七一七・P.350」ちくま学芸文庫)

「これら四聯の詩句はジャンの口をとおして(私は言葉にこだわる)一つの(一つの肉体か、それとも魂か?)を取り出すことによって、虹色に輝く、ただし暗闇の、もしくはすごく鮮明な色調をおびた、きらめく仕ぐさの役者たちが登場するさまざまな風景に富んだ魂を啓示するのだった。言語は、とりわけこのような言語は、魂(だからこそ私はこの語を選ぶのだ)と言葉とを表現するものだ」(ジュネ「葬儀・P.77~78」河出文庫)

ジュネが言語にこだわるのは、「こだわり」という点にかぎっていえば、一般市民が言語にこだわるのと何ら異ならない。しかしジュネが世間一般から遠ざけられ自分からも遠ざかったのにはまた別の理由がある。いずれ述べたい。なお、「ルトンド十字路」はパリのモンパルナスにあるロトンド交差点のことかもしれない。ジュネを見出したコクトーらの溜まり場だったカフェなどがある。

さて、アルトー。神がもし固定的な存在だとすれば、それはただちに「糞」でしかない。

「神とは存在なのだろうか。神が存在なのだとすれば神は糞である。神が存在でないとすれば 神は存在しない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.24」河出文庫)

「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)

そして「糞」とは地層であり領土であり商品であり貨幣であり資本であり戦争機械でもある。

「ところで神は存在しないのである、けれども神はあらゆる形をまとって前進する空虚のようだ その最も完璧な表象とは 毛虱の大群の行進である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.24」河出文庫)

アルトーは「神」というものを表象するとすれば「毛虱の大群の行進」に等しいと述べる。ところでこの見立ては勘違いでもなければ妄想でもない。メキシコでフィールドワークを行ったカスタネダはいう。

「コヨーテは流動体で、液状で、輝く存在だった」(カスタネダ「呪師に成る・P.338」二見書房)

カスタネダの「呪師に成る」は他の一連の著作の一つである。けれども他の著作ではペヨーテを含む催幻覚性植物が用いられている。が、「呪師に成る」ではペヨーテを含む催幻覚性植物を一切用いていない。用いられているのは身体とその運動とである。そこで織りなされる種々の実験があるだけだ。要するに、人間の身体は使い方次第で、LSDやペヨーテや他の催幻覚性物質を用いた時と同様の或る別種の状態を作りだすことができるということがわかればよい。そしてそれはどのような状態かというと、人間はただ、ニーチェのいう「多様な流動性」としてしか存在しないということである。人間の眼は粗雑過ぎるのでその流動状態を上手く捉えることができないのだ。さらにそもそも眼自体が身体の一部であるかぎり、眼もまた絶え間なく自然の中で自然の部分として新陳代謝を繰り返しつつ流動している。全宇宙と共演している。

ところが人間は、数千年にわたる慣習によって凝固し固定し記号化しステレオタイプ化した諸条件に拘束されてしまっているため、《別の仕方で》ものを見たり考えたりすることが極めて困難になってしまった。人間は人間自身の身体を用いて《別の仕方で》ものを見たり考えたりすることを拒絶した。そして「『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきた」。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

人間はすでに取り返しのつかないことをやってしまった。その後の世界を生きているばかりだ。

「『アルトーさん、あなたは狂人だ。ミサはどうなるのです』。私は洗礼もミサも否定する。内面的性欲的次元にあって、いわゆるイエス・キリストの 祭壇への降臨ほどに いまわしい人間の行為は ほかにない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)

イエスは人間の悪を引き受けると宣言した。その行為はだから、他の人間が肉食し糞を蓄積し地層化し領土化し商品化し貨幣化し資本化し戦争機械化する許可を与えたに等しい。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM