言語化がさらなる言語化を呼び込み続々と連想の系列を再生産させていくジュネ。
「私は椅子に腰かけた。他の連中はひざまずいているのが目に入った。ジャンに敬意を表してだろう、で私も、人目に立たぬようひざまずこうとした。上衣のポケットになんの気なしに手を入れると、マッチの小箱にふれた。それは空っぽだった。投げ捨てるかわりに、うっかりまたポケットに納めてしまったのだ」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)
連想の系列に入っていくジュネ。「比喩」と述べてはいるが、類似の系列ともいえる。
「(私はポケットにマッチの小箱を入れている)
とたんに、いつか、監獄で誰かが囚人に許される小包のことを話題にしたさいに使った比喩が脳裏によみがえったとしても、べつに不思議ではない。
『小包は週に一つしかだめだ。棺桶だろうがマッチ箱だろうが、同じこと。小包一つさ』」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)
このアナロジー(類似、類推)から次のように考えるジュネ。
「ちがいない。マッチ箱も棺桶も同じことだ。おれはポケットに小さな棺桶を入れているのだ」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)
という経過をたどる。何の不思議もない。とはいえ、何もジュネだけが特異な感性を持っているわけではない。このようなアナロジーは世間一般で抵抗なく大変多くの場合に用いられている。たとえば、死者がペンダント愛好家だった場合、他の人々は《事後的》に他のペンダントを買ってきて身に付けたりしないだろうか。記憶は何度でも置き換えられる。そしてその作業はその時その時で組み合わせを変える。ふさわしいものへと加工=編集し直される。記憶とその想起について。ベルクソンから。P.321図5参照。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
さて、アルトー。詩ではあるものの喧伝されているほど難解なものではない。読んでみよう。
「なぜなら生産しなければならないからだ、あらゆる行動手段によって自然が置換しうるいたるところで自然を置換しなければならないのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)
しかし自然を置換するためにはあらかじめ人間による自然界の社会化がなされ終わっていなければならない。それは十九世紀のうちにほぼ完了した。次のように。
「『純粋』科学といえども、その素材どころか目的すら、商業と工業によって、人間たちの感性的活動によって、《初めて》手に入るのである。それほどまでに、この活動、この間断なき感性的な労働と創造、この生産こそが、今日実存する感性的世界全体の基礎なのだから、もしそれがほんの一年でも中断されようものなら、フォイエルバッハは自然界のうちに一大変動を見出すだろうし、また人間界全体も、彼自身の直感能力も、それどころか彼自身の生存すら、たちまち消失してしまうことだろう。もちろん、そのさい《外的》自然の先在性ということは現存する。これら一切のことが、原初の、自然発生によって生じた人間たちには当てはまらないことも、もちろんである。しかし、こうした区別は、人間が自然とは区別されるものとして考察される限りでしか意味をなさない。ちなみに、この人類史に先行する自然なるものは、およそフォイエルバッハが住んでいる自然ではなく、<ニューファウンドランドの奥地>最近誕生したばかりのオーストラリアの珊瑚島嶼の上ならいざしらず、今日もはやどこにも実存せず、したがってフォイエルバッハにとっても実存しない自然である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.47~48」岩波文庫)
そうしていつでも自然を置換できるようになった。
「人間の無気力に強大な領域を与えなくてはならない 労働者は職をみつけねばならず、新しい行動の場を作らなければならない、そこではついにあらゆるまやかしのでっちあげ製品、あらゆる卑劣な人工的代用物が幅をきかすようになる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)
シミュラクル(見せかけ)の商品化。ボードリヤールはいう。
「現実的なものの規定は、《それに等しい複製の生産が可能なもの》ということだ。この規定は、ある過程が一定の条件のもとで正確に再生産できるとする近代科学や、事物の等価性の普遍的システムを提起する産業的合理性と同時代のものである(古典的表象行為は等価性の原則に基づいていない。それは、オリジナルの書き換えであり、説明であり、注釈である)。この複製過程では、現実は、単に複製可能なものではなく、《いつもすでに複製されてしまったもの》、つまり、ハイパー現実なのだ。
それでは、現実と芸術はお互いに完全に吸収しあって、姿を消してしまうのだろうか。そうではない。ハイパー・リアリズムは、現実と芸術を、シミュラークル(見せかけ)のレベルーーーそれらを成り立たせている特権と偏見のレベルーーーで、とりかえることによって、その頂点にまで高めることになる。ハイパー現実は、シミュレーション過程にどっぷりとつかっているからこそ、表象行為を乗り越えているのだ。それがもたらす表象作用の回転式ショーケース化は、気違いじみたものだ。だがこの種の内部で爆発する狂気は、芸術の中心からはずれているどころか、中心に流し目を送り、その深部ではみずからが反復されることを願っている。夢のなかで、これは夢を見ているのだなと気づくのに似ているが、この場合は、検閲作用と夢の状態の持続性の働きにすぎない。ところが、ハイパー・リアリズムは、それが持続させるコード化された現実(この現実を、ハイパー・リアリズムはなにひとつ変えようとしない)の不可欠な一部分なのである。
したがって、ハイパー・リアリズムの定義は逆転されねばならない。《ハイパー現実となったのは、今日では現実そのものの方だ》。すでに、シュルレアリスムの秘密は、もっとも平凡な現実が超現実となりうることのうちにあったのだが、そういうことが起こるのは、まだ芸術と想像力の領域に属している特権的な瞬間に限られていた。ところが、現在では、政治的、社会的、歴史的、経済的等々の日常的現実のすべてが、ハイパー・リアリズムのシミュラークル(見せかけ)の領域にすでに組みこまれてしまった。われわれは、いたるところで、現実の『美的』幻覚にとりかこまれて暮らしている。『事実は小説よりも奇なり』という古い格言は、生活の審美化のシュルレアリスム的段階に対応するもので、今では乗り越えられてしまった。生活がたちむかえるような(そして勝利をおさめられるような)虚構は、もはや存在しないーーー今や現実全体が、現実のゲームとなり、クールでサイバネティックス的な段階の根源的な幻滅が、ホットで幻覚的な段階にとってかわったのである」(ボードリヤール「象徴交換と死・P.175~177」ちくま学芸文庫)
あらゆる性行為は人工的な性行為に置き換え可能だ。そして製造されるものは必ずしも人間の身体だとは限らない。続々と生み出される強度としての人工的性行為はすべて、姿形を変えて他の何にでも製造されうるようになった。「軍隊と戦艦」の絶え間ない「生産」もまた。
「そこでは美しい本物の自然など無用で、恥ずべきことにこれを最後に、わがもの顔の代用品に場所をあけわたさねばならない そこではあらゆる人工授精工場の精液がめざましい効果をあげ、軍隊と戦艦を生産する」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)
再生産過程は多種多様な可能性への分岐を果たした。そしてもちろん、それらはただ単に生産されるだけではない。たとえば十月十八日、日本政府は自衛隊の中東派遣検討に入った。
「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫)
グローバル資本主義の一帰結。国家は戦争機械の所有者ではなくなって、逆に国家は戦争機械の一部分に過ぎなくなったという新しい事実をよく見て取ることができる。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
「神戸市いじめ教諭問題」について。加害者はできるかぎりサディズムになりきっていたいと欲望している印象を強く受けた。サディストではなくサディズムというわけは、それが死の本能そのものと化した超自我だからであり、サディズム以外の何ものでもない超自我だからである。基本的に人間は「無生物へ還ろう」とする死の本能をサディズムとして何度も繰り返し反復させる欲動をもつ。
「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.174』人文書院)
しかし自己内部で完結させてしまうのでなしに、死の本能は外部へも向かう。そして周囲の社会的事情が許せばしばしば外部へのみ向かう場合がある。それがサディズム丸出しになった超自我本来の「死の本能=暴力《への》意志」である。そのときサディストの超自我は自分の自我のすべてを他者の中へ無理やり押しつけ押し込むとともに徹底的に死の本能そのものとしてのサディズムと化す。被害者はサディストの死の本能の思うがままに「生物以前」の状態へ、「無生物あるいは単なる無機物」へと暴力的に還元されるほかない。ドゥルーズはいう。
「サディストとはおのれ自身の超自我であって、外部にしか自我を見いださない。通常であれば、超自我を道徳化するのは、自我の内面化と補完性であり、この自我に対して超自我は手厳しい仕打ちを行う。また超自我を道徳化するのは、この補完性を庇護する母性的な構成要素でもある。だが超自我が解き放たれ猛威を振るうとき、超自我が自我を追放し、それとともに母のイメージをも追放するとき、超自我の根っからの不道徳性が、サディズムと呼ばれるもののなかでその姿をあらわすのである。サディズムの犠牲者とは、母と自我にほかならない。《サディズムの自我は外部にしか存在しない》。これこそサディズムの無感動の根本的な意味なのだ。《サディズムには犠牲者の自我のほかに自我などない》。超自我へと還元される怪物、おのれの全面的な残酷性を実現させる超自我、そして、おのれの力能を外へと逸脱させるやいなや、充足せるセクシャリティを跳躍のうちに再発見する超自我。サディストには犠牲者の自我のほかに自我などない」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.186~187」河出文庫)
なので、放置しておくといずれ被害者は殺害されていたか殺害されるに等しい行為(飛び降り、等々)を強要されていたか、少なくとも自殺に追い込まれていたにちがいない。またなお、加害教諭らは二〇代の被害教諭らに対し「セックスを強要しその映像を送る」ことを命じていたとされる点についいて。残酷さと性的官能性との関係について。
「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)
「或る人間の性欲の程度と性格とは、その精神の絶頂にまで及ぶ」(ニーチェ「善悪の彼岸・七五・P.104」岩波文庫)
とすれば比較対象が出てくる。先日判決のあった「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」。判決は最終的に終身刑。今回の「いじめ教諭」は死者こそ出ていないものの顕著な類似性を感じないではいられない。なお、「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」の被告の場合、被告はまだ自分の欲望に関して正直に話していた。が、「神戸市いじめ教諭事件」の加害者側はいっこうに正直でもなければ真面目でもない。或る意味、残酷さはなるほど程度の差に過ぎないかもしれない。だが一定の年齢を越え、社会的に狡猾になっているぶん、よりいっそう《残酷なもの》は姿形を変えて残るのである。当局発表では「なるべく予断を排して」とのことだった。ところがしかし「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」は、当局発表にある「予断」に入るのかそれとも入らないのか。そんなこともわからない状態なのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「私は椅子に腰かけた。他の連中はひざまずいているのが目に入った。ジャンに敬意を表してだろう、で私も、人目に立たぬようひざまずこうとした。上衣のポケットになんの気なしに手を入れると、マッチの小箱にふれた。それは空っぽだった。投げ捨てるかわりに、うっかりまたポケットに納めてしまったのだ」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)
連想の系列に入っていくジュネ。「比喩」と述べてはいるが、類似の系列ともいえる。
「(私はポケットにマッチの小箱を入れている)
とたんに、いつか、監獄で誰かが囚人に許される小包のことを話題にしたさいに使った比喩が脳裏によみがえったとしても、べつに不思議ではない。
『小包は週に一つしかだめだ。棺桶だろうがマッチ箱だろうが、同じこと。小包一つさ』」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)
このアナロジー(類似、類推)から次のように考えるジュネ。
「ちがいない。マッチ箱も棺桶も同じことだ。おれはポケットに小さな棺桶を入れているのだ」(ジュネ「葬儀・P.30」河出文庫)
という経過をたどる。何の不思議もない。とはいえ、何もジュネだけが特異な感性を持っているわけではない。このようなアナロジーは世間一般で抵抗なく大変多くの場合に用いられている。たとえば、死者がペンダント愛好家だった場合、他の人々は《事後的》に他のペンダントを買ってきて身に付けたりしないだろうか。記憶は何度でも置き換えられる。そしてその作業はその時その時で組み合わせを変える。ふさわしいものへと加工=編集し直される。記憶とその想起について。ベルクソンから。P.321図5参照。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321~322」岩波文庫)
さて、アルトー。詩ではあるものの喧伝されているほど難解なものではない。読んでみよう。
「なぜなら生産しなければならないからだ、あらゆる行動手段によって自然が置換しうるいたるところで自然を置換しなければならないのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)
しかし自然を置換するためにはあらかじめ人間による自然界の社会化がなされ終わっていなければならない。それは十九世紀のうちにほぼ完了した。次のように。
「『純粋』科学といえども、その素材どころか目的すら、商業と工業によって、人間たちの感性的活動によって、《初めて》手に入るのである。それほどまでに、この活動、この間断なき感性的な労働と創造、この生産こそが、今日実存する感性的世界全体の基礎なのだから、もしそれがほんの一年でも中断されようものなら、フォイエルバッハは自然界のうちに一大変動を見出すだろうし、また人間界全体も、彼自身の直感能力も、それどころか彼自身の生存すら、たちまち消失してしまうことだろう。もちろん、そのさい《外的》自然の先在性ということは現存する。これら一切のことが、原初の、自然発生によって生じた人間たちには当てはまらないことも、もちろんである。しかし、こうした区別は、人間が自然とは区別されるものとして考察される限りでしか意味をなさない。ちなみに、この人類史に先行する自然なるものは、およそフォイエルバッハが住んでいる自然ではなく、<ニューファウンドランドの奥地>最近誕生したばかりのオーストラリアの珊瑚島嶼の上ならいざしらず、今日もはやどこにも実存せず、したがってフォイエルバッハにとっても実存しない自然である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.47~48」岩波文庫)
そうしていつでも自然を置換できるようになった。
「人間の無気力に強大な領域を与えなくてはならない 労働者は職をみつけねばならず、新しい行動の場を作らなければならない、そこではついにあらゆるまやかしのでっちあげ製品、あらゆる卑劣な人工的代用物が幅をきかすようになる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)
シミュラクル(見せかけ)の商品化。ボードリヤールはいう。
「現実的なものの規定は、《それに等しい複製の生産が可能なもの》ということだ。この規定は、ある過程が一定の条件のもとで正確に再生産できるとする近代科学や、事物の等価性の普遍的システムを提起する産業的合理性と同時代のものである(古典的表象行為は等価性の原則に基づいていない。それは、オリジナルの書き換えであり、説明であり、注釈である)。この複製過程では、現実は、単に複製可能なものではなく、《いつもすでに複製されてしまったもの》、つまり、ハイパー現実なのだ。
それでは、現実と芸術はお互いに完全に吸収しあって、姿を消してしまうのだろうか。そうではない。ハイパー・リアリズムは、現実と芸術を、シミュラークル(見せかけ)のレベルーーーそれらを成り立たせている特権と偏見のレベルーーーで、とりかえることによって、その頂点にまで高めることになる。ハイパー現実は、シミュレーション過程にどっぷりとつかっているからこそ、表象行為を乗り越えているのだ。それがもたらす表象作用の回転式ショーケース化は、気違いじみたものだ。だがこの種の内部で爆発する狂気は、芸術の中心からはずれているどころか、中心に流し目を送り、その深部ではみずからが反復されることを願っている。夢のなかで、これは夢を見ているのだなと気づくのに似ているが、この場合は、検閲作用と夢の状態の持続性の働きにすぎない。ところが、ハイパー・リアリズムは、それが持続させるコード化された現実(この現実を、ハイパー・リアリズムはなにひとつ変えようとしない)の不可欠な一部分なのである。
したがって、ハイパー・リアリズムの定義は逆転されねばならない。《ハイパー現実となったのは、今日では現実そのものの方だ》。すでに、シュルレアリスムの秘密は、もっとも平凡な現実が超現実となりうることのうちにあったのだが、そういうことが起こるのは、まだ芸術と想像力の領域に属している特権的な瞬間に限られていた。ところが、現在では、政治的、社会的、歴史的、経済的等々の日常的現実のすべてが、ハイパー・リアリズムのシミュラークル(見せかけ)の領域にすでに組みこまれてしまった。われわれは、いたるところで、現実の『美的』幻覚にとりかこまれて暮らしている。『事実は小説よりも奇なり』という古い格言は、生活の審美化のシュルレアリスム的段階に対応するもので、今では乗り越えられてしまった。生活がたちむかえるような(そして勝利をおさめられるような)虚構は、もはや存在しないーーー今や現実全体が、現実のゲームとなり、クールでサイバネティックス的な段階の根源的な幻滅が、ホットで幻覚的な段階にとってかわったのである」(ボードリヤール「象徴交換と死・P.175~177」ちくま学芸文庫)
あらゆる性行為は人工的な性行為に置き換え可能だ。そして製造されるものは必ずしも人間の身体だとは限らない。続々と生み出される強度としての人工的性行為はすべて、姿形を変えて他の何にでも製造されうるようになった。「軍隊と戦艦」の絶え間ない「生産」もまた。
「そこでは美しい本物の自然など無用で、恥ずべきことにこれを最後に、わがもの顔の代用品に場所をあけわたさねばならない そこではあらゆる人工授精工場の精液がめざましい効果をあげ、軍隊と戦艦を生産する」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.10」河出文庫)
再生産過程は多種多様な可能性への分岐を果たした。そしてもちろん、それらはただ単に生産されるだけではない。たとえば十月十八日、日本政府は自衛隊の中東派遣検討に入った。
「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫)
グローバル資本主義の一帰結。国家は戦争機械の所有者ではなくなって、逆に国家は戦争機械の一部分に過ぎなくなったという新しい事実をよく見て取ることができる。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
「神戸市いじめ教諭問題」について。加害者はできるかぎりサディズムになりきっていたいと欲望している印象を強く受けた。サディストではなくサディズムというわけは、それが死の本能そのものと化した超自我だからであり、サディズム以外の何ものでもない超自我だからである。基本的に人間は「無生物へ還ろう」とする死の本能をサディズムとして何度も繰り返し反復させる欲動をもつ。
「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.174』人文書院)
しかし自己内部で完結させてしまうのでなしに、死の本能は外部へも向かう。そして周囲の社会的事情が許せばしばしば外部へのみ向かう場合がある。それがサディズム丸出しになった超自我本来の「死の本能=暴力《への》意志」である。そのときサディストの超自我は自分の自我のすべてを他者の中へ無理やり押しつけ押し込むとともに徹底的に死の本能そのものとしてのサディズムと化す。被害者はサディストの死の本能の思うがままに「生物以前」の状態へ、「無生物あるいは単なる無機物」へと暴力的に還元されるほかない。ドゥルーズはいう。
「サディストとはおのれ自身の超自我であって、外部にしか自我を見いださない。通常であれば、超自我を道徳化するのは、自我の内面化と補完性であり、この自我に対して超自我は手厳しい仕打ちを行う。また超自我を道徳化するのは、この補完性を庇護する母性的な構成要素でもある。だが超自我が解き放たれ猛威を振るうとき、超自我が自我を追放し、それとともに母のイメージをも追放するとき、超自我の根っからの不道徳性が、サディズムと呼ばれるもののなかでその姿をあらわすのである。サディズムの犠牲者とは、母と自我にほかならない。《サディズムの自我は外部にしか存在しない》。これこそサディズムの無感動の根本的な意味なのだ。《サディズムには犠牲者の自我のほかに自我などない》。超自我へと還元される怪物、おのれの全面的な残酷性を実現させる超自我、そして、おのれの力能を外へと逸脱させるやいなや、充足せるセクシャリティを跳躍のうちに再発見する超自我。サディストには犠牲者の自我のほかに自我などない」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.186~187」河出文庫)
なので、放置しておくといずれ被害者は殺害されていたか殺害されるに等しい行為(飛び降り、等々)を強要されていたか、少なくとも自殺に追い込まれていたにちがいない。またなお、加害教諭らは二〇代の被害教諭らに対し「セックスを強要しその映像を送る」ことを命じていたとされる点についいて。残酷さと性的官能性との関係について。
「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)
「或る人間の性欲の程度と性格とは、その精神の絶頂にまで及ぶ」(ニーチェ「善悪の彼岸・七五・P.104」岩波文庫)
とすれば比較対象が出てくる。先日判決のあった「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」。判決は最終的に終身刑。今回の「いじめ教諭」は死者こそ出ていないものの顕著な類似性を感じないではいられない。なお、「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」の被告の場合、被告はまだ自分の欲望に関して正直に話していた。が、「神戸市いじめ教諭事件」の加害者側はいっこうに正直でもなければ真面目でもない。或る意味、残酷さはなるほど程度の差に過ぎないかもしれない。だが一定の年齢を越え、社会的に狡猾になっているぶん、よりいっそう《残酷なもの》は姿形を変えて残るのである。当局発表では「なるべく予断を排して」とのことだった。ところがしかし「名古屋大学女子学生タリウム殺人事件」は、当局発表にある「予断」に入るのかそれとも入らないのか。そんなこともわからない状態なのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM