或る有名なギャングの一団が警察に降伏したエピソードが話題になる。さんざん横暴な行為を働いてきて最後に降参したというだけの話なのだが、他の仲間たちがギャングの意気地なさをねたにして笑っているとき、突然アルマンが大真面目な顔で怒り出して言った。ギャングたちはそれまで何度も警察との死闘を演じてきてとうとう追いつめられる事態に立ち至ったとき、最後の最後に「最も豪勢で贅沢な祭り」を演じた。それが「降伏」ということだと。聞いていたジュネはおもう。
「ギャングたちの降伏についてアルマンがあえて与えてくれた説明がそのギャングたちの場合にもあてはなると言おうとしているのではない、そうではなく、それがわたしの場合に、すなわち、わたしがそのような状況の下に降伏したとすればその場合に、あてはまるだろうということだ」(ジュネ「泥棒日記・P.321」新潮文庫)
ジュネはアルマンが「温かい心」の持主だということを知った。ジュネは汚穢復権を目指しているわけだが、アルマンはアルマンなりに屈辱復権を目指している。そして両者に共通する「復権《への》意志」は偶然にも言語を用いて行われていると。
「アルマンの温かい心は、また、卑しむべき部署の放棄でしかなかったことを、一つの晴れの祭典、荘重な、と同時に笑うべき大行進(パレード)に変貌(へんぼう)させるということにあったのだ。アルマンが絶えず心にかけていたことは、復権ということだった。それも、彼自身なり、他の個々の人間のそれではなく、倫理的惨(みじ)めさの復権であった。彼はあらゆる種類の倫理的惨めさに、貴顕社会の快楽の表現であるところのいろいろな属性を付与した」(ジュネ「泥棒日記・P.321~322」新潮文庫)
そこでアルマンに関しては何一つ創作なしに経験したがままを描いてみたいとジュネはおもう。
「彼は、わたしがその名前を変えずにこの本の中に書き記したいと思うただ一人の人間なのである。どんなにわずかでも彼について真実を曲げることは、わたしの気持が許さないのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.322」新潮文庫)
気づけばジュネの裡(うち)に「アルマン《への》意志」が出現している。もっとも、ジュネはそれを「アルマン《への》意志」という言葉で言い表わしてはいないが。それは次のような変容において目に見えるようになるものだ。
「わたしは、彼の堂々たる体格、筋肉、毛並みなどに遠く及ばないことはもちろんだが、それにもかかわらずときとして、鏡の中の自分を見て、ふと、わたしの顔に彼の厳(きび)しい優しさの片鱗(へんりん)を発見するように思うことがある。そういうとき、わたしは自分を誇らしく思う、わたしの潰(つぶ)れた鈍重な面(つら)を誇らしく思う」(ジュネ「泥棒日記・P.322」新潮文庫)
とはいえ、ジュネもまたアルマンのように堂々とした筋肉隆々たるマッチョを目指して肉体改造に励むということではない。ジュネが目指す変容というのは、生成変化ということであり、それはまずもって「情動の変化と移動」ということでなくてはならない。だから全然マッチョでなくても構わないしマッチョになりたければなればいい。生成変化という過程において《なる》ということは、顔が似ているとか似ていないとかいうこととは関係がない。むしろ「欲望」と関係がある。というのは「生成変化は欲望のプロセス」だからだ。
「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.234」河出文庫)
ところが「欲望」というのは往々にしてとても陳腐なものだ。しかし重要なのは、欲望ほど革命的なものもほかにないと知ることであろうだろう。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.146~147」河出書房新社)
アルマンの力。その偉大さ。それはとっさに世界を変える技術を身に付けていたことにある。ただ単に堂々とした筋肉隆々たる肉体美にあったわけではない。肉体美は装飾品に過ぎない。といってもアルマンを装飾する数々の象徴については以前すでに述べた。「組み合わされた両腕=楯形(たてがた)=紋章=組紐飾り」というふうに。それがなくてはアルマン自体が溶けてなくなってしまうという次元に達した象徴というものについて。さて、アルマンはとっさに世界を転倒させる言語的技術を身に付けていたので、「彼は顔色一つ変えずに頬に平手打ちを受けることができたろう、そして、その肉体にどのような侮辱を加えられても、いささかも害(そこな)われることなく、依然として偉大であった」にちがいないとジュネはおもう。
「彼は、椅子から立ちあがるやいなや、世界に君臨していた。彼は顔色一つ変えずに頬に平手打ちを受けることができたろう、そして、その肉体にどのような侮辱を加えられても、いささかも害(そこな)われることなく、依然として偉大であっただろう」(ジュネ「泥棒日記・P.322」新潮文庫)
アルマンに固有の「屈辱復権《への》意志」、それも不屈の意志を眼の前にして朦朧となるジュネ。ジュネはせっせとアルマンに奉仕する。
「我々の共同の寝台に二人で寝るとき、彼は寝台全部を占領した。両脚は最も鈍角な角度に開かれていて、わたしはその二本の脚のあいだにやっと身をひそめるだけの場所を見いだすのだった。わたしは彼の性器の陰で眠っていた。それはときにはわたしの両眼の上に垂れかかっていることがあり、またときにはわたしが朝目をさますと、それがわたしの額を巨(おお)きな、そして奇妙な褐色の角で飾っていることもあった。彼が目をさますと、彼の足が、暴々(あらあら)しくはないがしかし抵抗できない圧力でわたしを寝床から逐(お)い出すのだった。彼は口をきかなかった。そして悠然と煙草を吹かしていたーーーわたしが、この、『知恵』がその中に憩(いこ)い、その中で錬成されていた、『聖櫃』(せいき)のためにコーヒーとイーストを用意しているあいだーーー」(ジュネ「泥棒日記・P.322~323」新潮文庫)
文章を見ているとアルマンはたいへん傲慢なタイプにおもえる。これまで引用してきた通りだ。しかし持てる性愛のすべてをアルマンへ注ぎ込むことにまたとない快楽を感じるジュネはそんなことを気にしたりしない。そして相手がアルマンであろうがなかろうがマッチョであろうがなかろうが、性愛の力は無限大にまで拡張する。たとえばスティリターノはまったくマッチョでない。しかしアルマンはマッチョな男性の側に類別可能だ。しかしジュネがアルマンのような「大きくて逞(たくま)しい男を選ぶ」にあたって、或る条件がある。それは「失敗したときに護ってもらいたいためではな」い。むしろ隠微な隠れ家として、またそれだけではなく、隠微な隠れ家として独特の「陰影」を有している点である。
「わたしが大きくて逞(たくま)しい男を選ぶのは、失敗したときに護ってもらいたいためではなく、あまりにも強烈な恐怖を感じたときにわたしが彼の腕や腿(もも)の凹(くぼ)みというすばらしい避難所に駆けこみたいからだと、わたしは思っている。この選択は危険である。というのは、この選択の結果、恐怖があまりにも完全に柔らいで、優情と化してしまったことがしばしばあるからだわたしはあまりにもやすやすと、そうした見事な肩に、そうした背中に、腰に、身を任せてしまう」(ジュネ「泥棒日記・P.339」新潮文庫)
仲間同士の会話というものは楽しいものだ。けれども仲間同士だからこそ特に気をつけないといけないこともある。
「《沈黙》。ーーー自分の友人たちについて語ってはならない。さもないと、友愛感を言い過(あやま)つことになろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二五二・P185」ちくま学芸文庫)
ということもあるからだが。次のエピソードは世間一般にも共通する言葉の使用方法の問題である。
「ある晩、ふとした不注意きわまる会話から、我々は、アルマンが、食うために、マルセイユからブラッセルまで、町から町へと、キャフェからキャフェへと、客の前で紙のレースを切る抜いて歩いたということを知った。このことをスティリターノとわたしに話した波止場の荷担人(にあげにん)は、少しも嘲笑的ではなかった。彼は一挺(ちょう)の鋏(はさみ)と折りたたんだ紙片から作りだされた、繊巧な出来ばえのナフキンやハンケチなどについて、実に自然に語った。
『おりゃあ、この眼で、奴(やっこ)さんが、あのアルマンが、お得意の芸当をやるとこを見たんだぜ』
岩のような、落着きはらったわたしの支配者が、女のする手仕事を遂行するところを想像して、わたしは感動した」(ジュネ「泥棒日記・P.323」新潮文庫)
この場合、一見したところでは、ただ単純なコントラストがジュネを惑乱させているように思える。そしてそれはたぶん、幾らかの事実でもあるだろう。コントラストの激しさが人間感情に働きかける情動には並並ならぬものがあるからだ。ところがジュネはここでもなお、わざわざ「感動した」と書くことで、他の仲間の感じ方とは別の意識を獲得しているように思われる。そしてこの「感動」には次に行うべき現実的操作がすでに接続されている。ジュネはもうとっくの間に言語の使用方法に関する達人の領域に入っているといえる。しかも他の多くの著名作家を凌駕しつつ。
「どんな滑稽な姿もわたしの支配者としての彼を侵すことはできなかった。わたしは、彼がどの徒刑場からこの世に浮かびあがってきたのか、また、彼がそこから釈放されて出たのか脱獄してきたのかも知らなかったが、しかもわたしがそのとき彼について知らされたこの新事実は、彼があのあらゆる種類の巧妙さを習得する学校、ーーーすなわち、マロニ河の沿岸(ギュイヤーヌ)ないしはフランス国内の中央刑務所のいずれかーーーの出身であることを明らかに証明することであった」(ジュネ「泥棒日記・P.323」新潮文庫)
さて、海軍の制服を身にまとい、身も心も別人になったつもりのジル。標的は海軍士官セブロン中尉である。クレルの計画によるものだが実行しなければならないのはジル以外にない。そうでなければこの計画じたい、何の意味もなくなってしまう。ジルはジルだが、ジルはジルであるよりいっそうクレルに《なる》ということでなければならない。そのために、セブロン中尉襲撃は「クレル《への》意志」を証明するものとして成就されねばならない。
「儀礼的な服装の魔力によって、制服というものは諸君の人格を無にし、深い安らぎのなかに諸君を沈めてくれる効果があるのである。外套のポケットに両手を入れて、ジルは待っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.325」河出文庫)
とはいえ、ジルはほんのつい最近まで左官見習いのあどけない少年なのであって、成長著しい多感な時期にあたってはいても、しかし制服を変えるだけで実際の士官襲撃を計画通りに実行できるとは必ずしも限らない。制服を変えるやいなや心まで置き換えてしまえるのはまだ思春期特有の少年だからである。だが士官襲撃は社会的な規模で判決を持つほかない成人の行為にほかならず実際にもそう見なされる。ジルは公衆トイレに身をひそめる。まだ濃い霧が早朝のブレストをつつんでいる。
「少尉がたった一人、霧のなかを横切りつつあった。ジルはピストルを手に下げて、共同小便所を飛び出した。そして少尉に追いつくと、少尉に身体を密着させて、
『声を立てるな。鞄を渡せ。さもないと射つぞ』
少尉は、英雄的行為を行うチャンスが突然自分の前に提出された、と思った。同時に彼は、この行為を部下たち、とくにクレルに報告することができる証人がいないのを残念に思った。したがって、このような行為は無駄であると彼は判断したが、もしこのような行為を行わなければ、自分の名誉は失われると考えた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.326」河出文庫)
セブロン少尉の意識の動きが面白い。ことの成り行きについて「この行為を部下たち、とくにクレルに報告することができる証人がいないのを残念に思」うのだ。殺されるにせよ生き残るにせよ、いずれにせよ、セブロンはクレルに対して「勇敢に戦った」=「英雄だった」ということが最も大事な関心事なわけである。このあたりの機微はジュネたち「裏切り者、泥棒、性倒錯者」にとって「名誉」とは何かということと通じ合う独自でなおかつ唯一無二の広く深い瞬発的情動の働きを見逃すわけにはいかない。ところが一番怯えているのはジルなのである。恐怖のあまりに声が硬直してしまい、声の硬直ゆえ、相手にとっては直接的すぎる「ぶっきらぼうな荒っぽい言葉」を生(なま)のまま投げつけることになる。さらにジルの怯えは、ジル自身を極度の緊張感の中へ放り込み、ジルをほとんど獣性化させてしまう。すると人と人とのあいだで成立する「議論」の余地という時間も空間もその場から一挙に排除される。ジルにとってはジル自身の怯えのおかげというべきか、とっさにセブロンが考える「議論」にジルが「捲(ま)きこまれる余地」は放棄される。ここでいう「議論」とはいわゆる「弁証論」である。A(少年ジル)がこうする。B(セブロン少尉)はこうされる。するとCという自体が発生する。となると最初のAとしてジルはどうなるだろうか?ほんの一時でいい、考え直してみるのも決してわるくはないだろう。単純化すればそういう話の流れになる。ところが逆に、ジルの側にはもうそのような余裕がない。
「『動くな。声を立てるな。金を出せ』
恐怖のさなかにあって、ジルは非常に落着いていた。恐怖は彼に、ぶっきらぼうな荒っぽい言葉を使う勇気をあたえていた。また恐怖は、明晰な判断力を彼にあたえてもいた。短い言葉を吐き出しつつ、彼は議論に捲(ま)きこまれる余地をあたえなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.327」河出文庫)
セブロンは落ち着いている。早々にジルの少年ぶりを見切ってしまったようだ。
「少尉は動かなかった。
『金を出さなければ、どてっ腹に射ちこむぞ』
『射つがいい』
ジルは肩をねらって射った。肩が粉砕され、鞄が手から落ちるだろうと思ったのである。二人の肉体が霧のなかに形づくっていた、小さな空洞の隠れ場に、轟然たる発射音が鳴りひびいた。すぐさまジルは左手を鞄の革紐にのばし、鞄を自分の方へ引寄せ、同時にピストルの銃口を少尉の目もとに近づけた。
『放せ。さもないと射ち殺すぞ』
少尉は革紐を放した。ジルはそのまま少し後退し、いきなり身体の向きを変えると、全速力で逃げた。そして霧のなかに姿を消した。十五分後に、彼は自分の隠れ家に帰っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.327」河出文庫)
襲撃には成功したものの実質的には敗退してしまったジル。しかしやれることはやったはずではなかろうかとも考える。警察は警察のやることを淡々とこなすばかりだ。
「警察はジルの仕業だとは少しも思わなかった。水兵のなかに犯人を探したが、誰も見つからなかった。クレルは一度も追求されなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.327」河出文庫)
クレルが現場にいる必要性はまったくない。というより襲撃現場とは全然別のところで寝そべっていても構わないのだ。ところで、ジルの身も心も変えた制服について。たとえば軍港は海軍にとって制服である。それは美しくなくてはならない。機能美にあふれていなければならない。ジュネは次のような文章にしている。
「その使命が祖国の沿岸の防衛よりもむしろ沿岸の装飾であった、あのフランス海軍の一員に彼はなっていた。ダンケルクからヴィルフランシュまで、あちらこちらに軍港と呼ばれる稠密(ちょうみつ)な結び目をつくりながら、フランス海軍は、海岸線に沿って優美な一本の花飾り模様を切り抜き、刺繍する」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.324」河出文庫)
そしてこの文章はジュネが「裏切り者、泥棒、性倒錯者」であると同時に「批評家」でありなおかつ「詩人」でなければ決して成立することのなかった部分であろうとおもうのである。日本では坂口安吾に次の文章がある。
「それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども一見したばかりで、その美しさは僕の魂をゆりうごかした。僕は浜辺に休み、水に浮かぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪(ゆが)められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上がったのである。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ『必要』であり、一も二も百も、終始一貫ただ『必要』のみ。そうして、この『やむべからざる実質』がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ」(坂口安吾「日本文化私観」『坂口安吾全集14・P.381~382』ちくま文庫)
ジュネに固有の「汚醜の美」もたぶんそこから生まれた。「やむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ」ものとして書かれたにちがいない。
BGM
「ギャングたちの降伏についてアルマンがあえて与えてくれた説明がそのギャングたちの場合にもあてはなると言おうとしているのではない、そうではなく、それがわたしの場合に、すなわち、わたしがそのような状況の下に降伏したとすればその場合に、あてはまるだろうということだ」(ジュネ「泥棒日記・P.321」新潮文庫)
ジュネはアルマンが「温かい心」の持主だということを知った。ジュネは汚穢復権を目指しているわけだが、アルマンはアルマンなりに屈辱復権を目指している。そして両者に共通する「復権《への》意志」は偶然にも言語を用いて行われていると。
「アルマンの温かい心は、また、卑しむべき部署の放棄でしかなかったことを、一つの晴れの祭典、荘重な、と同時に笑うべき大行進(パレード)に変貌(へんぼう)させるということにあったのだ。アルマンが絶えず心にかけていたことは、復権ということだった。それも、彼自身なり、他の個々の人間のそれではなく、倫理的惨(みじ)めさの復権であった。彼はあらゆる種類の倫理的惨めさに、貴顕社会の快楽の表現であるところのいろいろな属性を付与した」(ジュネ「泥棒日記・P.321~322」新潮文庫)
そこでアルマンに関しては何一つ創作なしに経験したがままを描いてみたいとジュネはおもう。
「彼は、わたしがその名前を変えずにこの本の中に書き記したいと思うただ一人の人間なのである。どんなにわずかでも彼について真実を曲げることは、わたしの気持が許さないのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.322」新潮文庫)
気づけばジュネの裡(うち)に「アルマン《への》意志」が出現している。もっとも、ジュネはそれを「アルマン《への》意志」という言葉で言い表わしてはいないが。それは次のような変容において目に見えるようになるものだ。
「わたしは、彼の堂々たる体格、筋肉、毛並みなどに遠く及ばないことはもちろんだが、それにもかかわらずときとして、鏡の中の自分を見て、ふと、わたしの顔に彼の厳(きび)しい優しさの片鱗(へんりん)を発見するように思うことがある。そういうとき、わたしは自分を誇らしく思う、わたしの潰(つぶ)れた鈍重な面(つら)を誇らしく思う」(ジュネ「泥棒日記・P.322」新潮文庫)
とはいえ、ジュネもまたアルマンのように堂々とした筋肉隆々たるマッチョを目指して肉体改造に励むということではない。ジュネが目指す変容というのは、生成変化ということであり、それはまずもって「情動の変化と移動」ということでなくてはならない。だから全然マッチョでなくても構わないしマッチョになりたければなればいい。生成変化という過程において《なる》ということは、顔が似ているとか似ていないとかいうこととは関係がない。むしろ「欲望」と関係がある。というのは「生成変化は欲望のプロセス」だからだ。
「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.234」河出文庫)
ところが「欲望」というのは往々にしてとても陳腐なものだ。しかし重要なのは、欲望ほど革命的なものもほかにないと知ることであろうだろう。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.146~147」河出書房新社)
アルマンの力。その偉大さ。それはとっさに世界を変える技術を身に付けていたことにある。ただ単に堂々とした筋肉隆々たる肉体美にあったわけではない。肉体美は装飾品に過ぎない。といってもアルマンを装飾する数々の象徴については以前すでに述べた。「組み合わされた両腕=楯形(たてがた)=紋章=組紐飾り」というふうに。それがなくてはアルマン自体が溶けてなくなってしまうという次元に達した象徴というものについて。さて、アルマンはとっさに世界を転倒させる言語的技術を身に付けていたので、「彼は顔色一つ変えずに頬に平手打ちを受けることができたろう、そして、その肉体にどのような侮辱を加えられても、いささかも害(そこな)われることなく、依然として偉大であった」にちがいないとジュネはおもう。
「彼は、椅子から立ちあがるやいなや、世界に君臨していた。彼は顔色一つ変えずに頬に平手打ちを受けることができたろう、そして、その肉体にどのような侮辱を加えられても、いささかも害(そこな)われることなく、依然として偉大であっただろう」(ジュネ「泥棒日記・P.322」新潮文庫)
アルマンに固有の「屈辱復権《への》意志」、それも不屈の意志を眼の前にして朦朧となるジュネ。ジュネはせっせとアルマンに奉仕する。
「我々の共同の寝台に二人で寝るとき、彼は寝台全部を占領した。両脚は最も鈍角な角度に開かれていて、わたしはその二本の脚のあいだにやっと身をひそめるだけの場所を見いだすのだった。わたしは彼の性器の陰で眠っていた。それはときにはわたしの両眼の上に垂れかかっていることがあり、またときにはわたしが朝目をさますと、それがわたしの額を巨(おお)きな、そして奇妙な褐色の角で飾っていることもあった。彼が目をさますと、彼の足が、暴々(あらあら)しくはないがしかし抵抗できない圧力でわたしを寝床から逐(お)い出すのだった。彼は口をきかなかった。そして悠然と煙草を吹かしていたーーーわたしが、この、『知恵』がその中に憩(いこ)い、その中で錬成されていた、『聖櫃』(せいき)のためにコーヒーとイーストを用意しているあいだーーー」(ジュネ「泥棒日記・P.322~323」新潮文庫)
文章を見ているとアルマンはたいへん傲慢なタイプにおもえる。これまで引用してきた通りだ。しかし持てる性愛のすべてをアルマンへ注ぎ込むことにまたとない快楽を感じるジュネはそんなことを気にしたりしない。そして相手がアルマンであろうがなかろうがマッチョであろうがなかろうが、性愛の力は無限大にまで拡張する。たとえばスティリターノはまったくマッチョでない。しかしアルマンはマッチョな男性の側に類別可能だ。しかしジュネがアルマンのような「大きくて逞(たくま)しい男を選ぶ」にあたって、或る条件がある。それは「失敗したときに護ってもらいたいためではな」い。むしろ隠微な隠れ家として、またそれだけではなく、隠微な隠れ家として独特の「陰影」を有している点である。
「わたしが大きくて逞(たくま)しい男を選ぶのは、失敗したときに護ってもらいたいためではなく、あまりにも強烈な恐怖を感じたときにわたしが彼の腕や腿(もも)の凹(くぼ)みというすばらしい避難所に駆けこみたいからだと、わたしは思っている。この選択は危険である。というのは、この選択の結果、恐怖があまりにも完全に柔らいで、優情と化してしまったことがしばしばあるからだわたしはあまりにもやすやすと、そうした見事な肩に、そうした背中に、腰に、身を任せてしまう」(ジュネ「泥棒日記・P.339」新潮文庫)
仲間同士の会話というものは楽しいものだ。けれども仲間同士だからこそ特に気をつけないといけないこともある。
「《沈黙》。ーーー自分の友人たちについて語ってはならない。さもないと、友愛感を言い過(あやま)つことになろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二五二・P185」ちくま学芸文庫)
ということもあるからだが。次のエピソードは世間一般にも共通する言葉の使用方法の問題である。
「ある晩、ふとした不注意きわまる会話から、我々は、アルマンが、食うために、マルセイユからブラッセルまで、町から町へと、キャフェからキャフェへと、客の前で紙のレースを切る抜いて歩いたということを知った。このことをスティリターノとわたしに話した波止場の荷担人(にあげにん)は、少しも嘲笑的ではなかった。彼は一挺(ちょう)の鋏(はさみ)と折りたたんだ紙片から作りだされた、繊巧な出来ばえのナフキンやハンケチなどについて、実に自然に語った。
『おりゃあ、この眼で、奴(やっこ)さんが、あのアルマンが、お得意の芸当をやるとこを見たんだぜ』
岩のような、落着きはらったわたしの支配者が、女のする手仕事を遂行するところを想像して、わたしは感動した」(ジュネ「泥棒日記・P.323」新潮文庫)
この場合、一見したところでは、ただ単純なコントラストがジュネを惑乱させているように思える。そしてそれはたぶん、幾らかの事実でもあるだろう。コントラストの激しさが人間感情に働きかける情動には並並ならぬものがあるからだ。ところがジュネはここでもなお、わざわざ「感動した」と書くことで、他の仲間の感じ方とは別の意識を獲得しているように思われる。そしてこの「感動」には次に行うべき現実的操作がすでに接続されている。ジュネはもうとっくの間に言語の使用方法に関する達人の領域に入っているといえる。しかも他の多くの著名作家を凌駕しつつ。
「どんな滑稽な姿もわたしの支配者としての彼を侵すことはできなかった。わたしは、彼がどの徒刑場からこの世に浮かびあがってきたのか、また、彼がそこから釈放されて出たのか脱獄してきたのかも知らなかったが、しかもわたしがそのとき彼について知らされたこの新事実は、彼があのあらゆる種類の巧妙さを習得する学校、ーーーすなわち、マロニ河の沿岸(ギュイヤーヌ)ないしはフランス国内の中央刑務所のいずれかーーーの出身であることを明らかに証明することであった」(ジュネ「泥棒日記・P.323」新潮文庫)
さて、海軍の制服を身にまとい、身も心も別人になったつもりのジル。標的は海軍士官セブロン中尉である。クレルの計画によるものだが実行しなければならないのはジル以外にない。そうでなければこの計画じたい、何の意味もなくなってしまう。ジルはジルだが、ジルはジルであるよりいっそうクレルに《なる》ということでなければならない。そのために、セブロン中尉襲撃は「クレル《への》意志」を証明するものとして成就されねばならない。
「儀礼的な服装の魔力によって、制服というものは諸君の人格を無にし、深い安らぎのなかに諸君を沈めてくれる効果があるのである。外套のポケットに両手を入れて、ジルは待っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.325」河出文庫)
とはいえ、ジルはほんのつい最近まで左官見習いのあどけない少年なのであって、成長著しい多感な時期にあたってはいても、しかし制服を変えるだけで実際の士官襲撃を計画通りに実行できるとは必ずしも限らない。制服を変えるやいなや心まで置き換えてしまえるのはまだ思春期特有の少年だからである。だが士官襲撃は社会的な規模で判決を持つほかない成人の行為にほかならず実際にもそう見なされる。ジルは公衆トイレに身をひそめる。まだ濃い霧が早朝のブレストをつつんでいる。
「少尉がたった一人、霧のなかを横切りつつあった。ジルはピストルを手に下げて、共同小便所を飛び出した。そして少尉に追いつくと、少尉に身体を密着させて、
『声を立てるな。鞄を渡せ。さもないと射つぞ』
少尉は、英雄的行為を行うチャンスが突然自分の前に提出された、と思った。同時に彼は、この行為を部下たち、とくにクレルに報告することができる証人がいないのを残念に思った。したがって、このような行為は無駄であると彼は判断したが、もしこのような行為を行わなければ、自分の名誉は失われると考えた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.326」河出文庫)
セブロン少尉の意識の動きが面白い。ことの成り行きについて「この行為を部下たち、とくにクレルに報告することができる証人がいないのを残念に思」うのだ。殺されるにせよ生き残るにせよ、いずれにせよ、セブロンはクレルに対して「勇敢に戦った」=「英雄だった」ということが最も大事な関心事なわけである。このあたりの機微はジュネたち「裏切り者、泥棒、性倒錯者」にとって「名誉」とは何かということと通じ合う独自でなおかつ唯一無二の広く深い瞬発的情動の働きを見逃すわけにはいかない。ところが一番怯えているのはジルなのである。恐怖のあまりに声が硬直してしまい、声の硬直ゆえ、相手にとっては直接的すぎる「ぶっきらぼうな荒っぽい言葉」を生(なま)のまま投げつけることになる。さらにジルの怯えは、ジル自身を極度の緊張感の中へ放り込み、ジルをほとんど獣性化させてしまう。すると人と人とのあいだで成立する「議論」の余地という時間も空間もその場から一挙に排除される。ジルにとってはジル自身の怯えのおかげというべきか、とっさにセブロンが考える「議論」にジルが「捲(ま)きこまれる余地」は放棄される。ここでいう「議論」とはいわゆる「弁証論」である。A(少年ジル)がこうする。B(セブロン少尉)はこうされる。するとCという自体が発生する。となると最初のAとしてジルはどうなるだろうか?ほんの一時でいい、考え直してみるのも決してわるくはないだろう。単純化すればそういう話の流れになる。ところが逆に、ジルの側にはもうそのような余裕がない。
「『動くな。声を立てるな。金を出せ』
恐怖のさなかにあって、ジルは非常に落着いていた。恐怖は彼に、ぶっきらぼうな荒っぽい言葉を使う勇気をあたえていた。また恐怖は、明晰な判断力を彼にあたえてもいた。短い言葉を吐き出しつつ、彼は議論に捲(ま)きこまれる余地をあたえなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.327」河出文庫)
セブロンは落ち着いている。早々にジルの少年ぶりを見切ってしまったようだ。
「少尉は動かなかった。
『金を出さなければ、どてっ腹に射ちこむぞ』
『射つがいい』
ジルは肩をねらって射った。肩が粉砕され、鞄が手から落ちるだろうと思ったのである。二人の肉体が霧のなかに形づくっていた、小さな空洞の隠れ場に、轟然たる発射音が鳴りひびいた。すぐさまジルは左手を鞄の革紐にのばし、鞄を自分の方へ引寄せ、同時にピストルの銃口を少尉の目もとに近づけた。
『放せ。さもないと射ち殺すぞ』
少尉は革紐を放した。ジルはそのまま少し後退し、いきなり身体の向きを変えると、全速力で逃げた。そして霧のなかに姿を消した。十五分後に、彼は自分の隠れ家に帰っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.327」河出文庫)
襲撃には成功したものの実質的には敗退してしまったジル。しかしやれることはやったはずではなかろうかとも考える。警察は警察のやることを淡々とこなすばかりだ。
「警察はジルの仕業だとは少しも思わなかった。水兵のなかに犯人を探したが、誰も見つからなかった。クレルは一度も追求されなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.327」河出文庫)
クレルが現場にいる必要性はまったくない。というより襲撃現場とは全然別のところで寝そべっていても構わないのだ。ところで、ジルの身も心も変えた制服について。たとえば軍港は海軍にとって制服である。それは美しくなくてはならない。機能美にあふれていなければならない。ジュネは次のような文章にしている。
「その使命が祖国の沿岸の防衛よりもむしろ沿岸の装飾であった、あのフランス海軍の一員に彼はなっていた。ダンケルクからヴィルフランシュまで、あちらこちらに軍港と呼ばれる稠密(ちょうみつ)な結び目をつくりながら、フランス海軍は、海岸線に沿って優美な一本の花飾り模様を切り抜き、刺繍する」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.324」河出文庫)
そしてこの文章はジュネが「裏切り者、泥棒、性倒錯者」であると同時に「批評家」でありなおかつ「詩人」でなければ決して成立することのなかった部分であろうとおもうのである。日本では坂口安吾に次の文章がある。
「それは小さな、何か謙虚な感じをさせる軍艦であったけれども一見したばかりで、その美しさは僕の魂をゆりうごかした。僕は浜辺に休み、水に浮かぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なく歪(ゆが)められ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上がったのである。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ『必要』であり、一も二も百も、終始一貫ただ『必要』のみ。そうして、この『やむべからざる実質』がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ」(坂口安吾「日本文化私観」『坂口安吾全集14・P.381~382』ちくま文庫)
ジュネに固有の「汚醜の美」もたぶんそこから生まれた。「やむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ」ものとして書かれたにちがいない。
BGM