ジュネの愛人ミカエリスはジュネを愛の対象として神格化してしまう。しかしあくまでも「汚辱《への》意志」として生きているジュネは愛にもかかわらず、ではなくむしろ愛ゆえに、二人とも監獄に収監されたことを利用する。ミカエリスによるジュネの神格化は、ジュネ自身のアイデアを実践に移すことによって徹底的にぶち壊されてしまわなければならない。
「さらにそれ以上彼から離れるには、何か口実が必要だった。ところがその機会はさっそく来た。ある朝、彼が身をかがめて警官の一人が落した鉛筆を拾ってやった。階段へ行ってから、わたしは彼を罵(ののし)った。彼はわたしがなぜ怒るのかわからないと答えた。そしてわたしを鎮(しず)めようとしていっそう愛情深い態度を示したので、わたしはムカムカッとなった」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
ジュネは意を決してミカエリスにこう言い放つ。
「『お前はなんて腰抜けなんだ』とわたしは言ってやった、『なんて卑しい野郎だ。お巡りたちはお前に対してはやけに寛大だな。今にお前は奴らの長靴をほんとに舐める気なんだろう!奴らがそのうちお前の独房に忍んでくるのを待ってやがるんだろう!』」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
ミカエリスにはジュネが理想の愛人として、さらにあるまじきことに「解放者」として映って見えていた。ところが獄中でのジュネは社会からとことん拒絶され見放された罪悪の塊でなくてはならない。自分がどれほど卑劣か、卑怯か、醜悪か、倒錯者か、救いようがないか、感動的なまでに失墜した裏切り者か。その事実を獄中でミカエリスに見せつけてやる。そしてこれ以上ない腐敗物としてのジュネ本来の姿をミカエリスにまざまざと見せつけることで、ジュネはその目撃者であるミカエリスに向かって、恥部を見られた怨念を込めて償却しようのない憎悪を抱く、という経過をたどらなければならない。
「わたしは、彼が、わたしがいかに『解放者』であるかを見た後に、わたしの失墜を目のあたり見たということのために、彼に憎悪(ぞうお)を感じていた」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
ジュネは自分で自分自身の汚臭に満ちた姿と態度、卑劣ぶりをミカエリスの目の前で加速的に演じる。しかし逆説的なことだが、憎悪というものはその中に一片の愛を含んでしまうものだ。だからこそ憎悪は所詮憎悪でしかないのだ。冷淡な軽蔑者そのものになりきれないジュネは煩悶のうちにある。
「わたしの服はすっかり薄汚くなり、わたし自身も垢(あか)に汚れ、ひげも剃(そ)らず、髪の毛はもじゃもじゃになっていた、ーーーわたしは醜くなり、そして、それが彼自身の生来の姿であったためにミカエリスが厭がっていた、ならず者の様子に返っていたのだった。わたしはそのあいだもいよいよ恥ずかしさの感情の中に沈んでいった。わたしはもはやわたしの友(アミ)を愛さなくなっていたのだ。それどころか、この愛ーーーそれはわたしが経験した初めての保護者的立場の愛だったーーーにとって代ったものは、それがまだいくつかの愛情の小繊維を含んでいたために不純で陰険な、憎悪だった」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
愛情というものの取り扱い方は本当に厄介なものだと、ジュネ自身、身に染みて深く感じとっていただろう。ところがこの、「身に染みる」という情動の動きは、それがたとえ「失墜」を意味するものであっても、それはそれでまた別種の快楽を獲得する行為になりうる。
「またミカエリスにはああ言ったが、もしわたしがひとりだったならば、わたしは警官たちに熱烈な愛を捧(ささ)げていただろう。独房の中に閉じこめられるや否や、わたしが夢想したのは、彼らの絶大な力であり、彼らの友情であり、彼らとわたしとの間に生じうるある種の共犯関係、それにおいて我々相互の力能を交換し合うことによって、彼らは無頼漢として、わたしは裏切り者として、それぞれ自己を顕(あら)わすだろうと思われた共犯関係であった」(ジュネ「泥棒日記・P.136~137」新潮文庫)
いま引いた部分に顕著なように、また別種の快楽を獲得する行為。どのようにして成立するのか。看守に対しては次のように。
「病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫)
ジュネの神格化を阻止するためにジュネ自身が用いた、ミカエリス個人に対する罵倒は次のようなメカニズムによって。
「おのれに抵抗するのも甘味なことであって、それはもじゃもじゃした感情の毛髪をうしろ向きにくしけずることなのだ」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一〇四五・P.543」ちくま学芸文庫)
そしておそらく理解不可能におちいっているであろう世間一般に対しては次のように。
「人々は、堅気(かたぎ)の男と悪党とのあいだの道徳的な違いをあまりにも大きく考えすぎている。泥棒や殺人者に対する法律は、教養がある者たちや富んでいる者たちに有利なようにつくられている」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七〇五・P.439」ちくま学芸文庫)
さて、形式的にはクレルより遥かに上層階級に位置するセブロン中尉。クレルはただ単なる水兵。セブロンは海軍士官なのだから。そしてセブロンの全身全霊を賭けた「汚辱《への》意志」とその実行とによって、なるほど均衡状態は破れかかってきている。とはいえ、しかし実質的脅威はまだクレルの側にある。もう少しだ。セブロンは激しい妄想状態のうちに突入する。セブロンは妄想に《なる》。幾つか創案してみる。最終的に次のような案に落ち着いた。
「長いこと思い悩んだ末に、少尉は次のような解決を選んだ。《クレルは発砲する。しかし心が動揺しているので、わたしを撃ち損う。わたしは負傷する》。艦へ帰っても、士官はクレルの顔をおぼえているとは誰にも言わない(ちょうどジルの顔をおぼえていないと言ったように)。そこで、士官は彼よりももっと強い立場になる。士官を愛しているかもしれない彼よりも」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.371」河出文庫)
しかしどうやって?という肝心の計画性を欠いたまま、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。ところが艦船はもう出港まぎわまできている。早く何とかして絶好の機会をものにしなければならない。幻想で終わらせるわけにはいかない。ところで、小説はもうほとんどラストに近いというのに、セブロンの日記の中に、並びにとしては余りにも不自然な部分がある。ポスターに関する記述だ。小説の中では前半で一度書かれていたのだが、なぜここでまた反復されているのだろう。どちらの記述にもあてはまるのは、セブロンはポスターの犠牲者であり、ポスターの犠牲者の犠牲者でもあるという部分。ともかくポスターを見たことによってクレルは、そしてクレルを通してセブロンもまた、たぶん生まれて始めて《運命愛》としての「意志」を受け取ることになったにちがいない。
「わたしもまたポスターの犠牲者なのだ。とくに白いゲートルを巻き、フランス植民地の入口で歩哨に立っている陸戦隊員の絵を描いた、一枚のポスターの犠牲者だ。羅針盤が彼の踵の一つに突き刺さっていた。薔薇色の薊(あざみ)が彼の頭上を飾っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.374~375」河出文庫)
ラカンのいう「鏡像段階」というのは、おそらく、人生のうちに一度だけでなく何度か到来する経験なのではと考えられる。人間は生まれてすぐに自分は人間であると自覚して生まれてくるのではないように。ポスターとセブロンとののっぴきならぬ関係について。
「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。
この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126』弘文堂)
「重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~127』弘文堂)
「じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.127』弘文堂)
「鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。
けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。
《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.128~129』弘文堂)
というように人間はいかようにも形成されうる。世界から国家へ、国家から企業(マスコミ含む)ならびに地域社会へ、企業(マスコミ含む)ならびに地域社会から家庭へ。人間形成過程はそのような加工=変造の暴力的編成過程でもある。だから、周囲の人間の姿形〔身体〕はもちろんだが、或る生活様式、或るポスター、或る映像、或る小説、或る季節、或る物(制服、文房具、おもちゃ、自動車、等々)、それらはすべて人間を形成するために《外部から》やってくる。たとえば魅力的な制服の場合、身体だけでなく性格まで制服にふさわしく見えるように似せようと懸命になる。尊敬する人物に憧れて過労死するまでとことん同一化を目指す。そういったことは多少なりとも誰もが経験する過程であって、だから《鏡像段階》には程度の差しかない。しかし同一化といっても、鏡像はあくまで自分の側にはなく鏡像の側にある。したがってこの同一化は一生懸命になればなるほど逆に「自己疎外」する機能として働く。強烈な「自己疎外」を経験すればするほど人間はよりいっそう激しく分裂していくほかない。
次のセンテンスはジュネの言葉だが、おおかたの人間の欲望を代弁しているといえるだろう。
「外見上ーーーといっても、この外見は現実的で欠けるところがないーーークレルはあまりにも美しく、あまりにも純粋なので、わたしは彼にあらゆる罪を負わせてやりたくなる。ところで、わたしは果してクレルを汚してやりたいのか、それとも、純粋の象徴そのものによって人間的外見を危うくすることにより、悪をほろぼし、悪を無益かつ無効なものにしてやりたいのか、はっきりさせることの不安の念をおぼえる」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.376」河出文庫)
「あまりにも美しく」見えるもの。「あまりにも美しく」思えるもの。過剰な美。あるいは理想的な美。そしてまた理想的な美に少し足りないか、あるいはすでに少しばかり汚れがかって見える美。少しばかり汚れがかって見える美の場合、もっと激しい汚れへの途上に見えたり、あるいは内面の猥褻さが表面に浮き出てちらちら漂っているかのように見えるため、よりいっそう穢らわしい汚辱へ一挙に転倒させてやりたくなるという無意識が強烈に蠕動する。そういうものに対して多少なりとも誰もがおもうこと。セブロンの言葉。「わたしは彼にあらゆる罪を負わせてやりたくなる」。要するに「汚してやりたくなる」。それが性的快楽の場合、性別など関係なく、煮えくりかえり湧きあふれ限度を忘れた性欲でめちゃめちゃにしてやり、とことん「汚してやりたくなる」というありふれた《欲望の流動》に《なる》といえる。資本主義はこの種のありとあらゆる欲望を商品化することに成功してきたといえる。フェチ商品がそうだ。何がフェチ対象であって何がフェチ対象でないかなど、今や誰にもわからないありさまなのだ。しかしフェチ対象の頂点が何かは誰でも知っている。貨幣である。そして今や「死」すら商品化されている。たとえば「あなたはどんな死に方がお望みですか」といったような。あるいは殺人事件なら連続無惨大量であればあるほどマスコミのために利益を生む商品へ置き換えられるといったように。
さらにマスコミは、最も有力な発言者が死んでしまった今になって「関電役員問題」を取り上げている。同時に、関電の役員問題と社内体質ばかりを取り上げる。一方、原発問題は取り上げない。なぜだろう。関電の社内体質を透明化して新しく生まれ変わろうとする関電のために懸命に奉仕してでもいるのだろうか、マスコミは。このままでは肝心の原発問題はますます背後へ退いていってしまう。この前にも京都アニメーション放火事件があったとき、マスコミは強行に埋め立てが進んでいくばかりの沖縄基地問題をほとんどそっちのけにして、まるで沖縄基地問題などどうでもいいことであるかのように「京アニ」に報道を集中させて平気で振る舞っていた。そして成立こそしたけれどもまるで内容のはっきりしない「全世代型」というキャッチフレーズのもと、増税ゆえに、誰一人としてまったくの無料では自殺すらできにくくなるという状況が創設された。処理費用がかかってくる。消費税もかかってくる。そしてまた、それらの諸商品は疑う余地なく合法的に取り扱われることとなった。少なくとも日本の資本主義はまた新しい公理系を付け加えることに首尾よく成功した。不自由だけは確実に増した。
一九三〇年代のフランスに戻ろう。セブロンは迷っている。めちゃめちゃに汚してやれば純粋さは失われる。純粋さが失われればもうそれはクレル固有の美しさを持ち得ない。悪が混じってくる。しかし悪が混じっていないクレル、殺人者でないクレルなどまったく何の魅力も持たない。だからクレルの純粋な美しさをぶち壊すわけにはいかない。しかしぶち壊して徹底的に汚してやらねば気が済まない。そうしてこそクレルの美も力も光り輝くからだ。セブロンは何重にもダブルバインドされた宙吊り状態をさまよう。
セブロンはこのときほとんどクレルに《なる》。クレルという人間はほぼ次の通りだからだ。
「彼がぺてん師であってくれたらよかった、とわたしは言った。いかめしく子供っぽい水兵の服装のなかに、彼は敏捷かつ荒々しい肉体をかくしており、この肉体のなかに、殺人鬼の魂をかくしているのである。クレルはそんな男だ。わたしはそう信じている」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.377」河出文庫)
ジュネが代弁しているように美しいものをめちゃめちゃに汚してやりたいという欲望。しかしもしそれが物理的にも抽象的にも不可能なとき、人間はどんなことを思いつくか。
ひれふすのである。ひれふして逆に相手を盛大かつセンス良く飾り立てるのだ。問題は制服、仕草、態度といった「表層」にある。
「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)
ところで、野蛮な男どもの宴から距離を置いているしかない淫売屋の女将リジアーヌにはよく見えていることがある。クレルとロベールという兄弟の《あいだ》で愛されている美少年ロジェのことだ。それは「発見」というかたちを取って見い出される。
「《分ったわ、あれは彼らの子供なんだわ!》
これまで一度もーーーこの時をも含めてーーー女主人は、二人の兄弟のあいだに子供が生れるほど、彼らが愛し合っているなどとは考えたこともなかった。それでもこの兄弟の肉体的な類似が、彼女の愛に対するこれほど厄介な障害になっているとすれば、それは一つの愛でしかあり得なかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.380」河出文庫)
しかしなぜリジアーヌにはそれが見えたのか。ニーチェとマルクスとを参照しておきたい。
「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)
リジアーヌは淫売屋《ラ・フェリア》の主人ではない。主人ノルベールの夫人である。実質的に娼婦たちの面倒を見て店を切り盛りしている「女将」だ。客層である男たちがどんな立派な社会的身分であろうと、社会的身分の高さにもかかわらず、どれほど多彩きわまりない奇怪な性的嗜好を持っているか熟知している。その上で娼婦たち(客層にとっての「天使たち」)を部屋ごとに派遣する立場だ。したがってニーチェのいう「道徳《外》に位置」する距離を獲得しているぶん、男たちには見えないものを距離を置いて冷静に観察することができる。
「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)
若年層だった頃のマルクス=エンゲルスは「独仏年誌」発行などでフランスとドイツではなるほど批評家としてそこそこ知られた存在だった。ところが資本主義発祥の地イギリスに行くとほとんどまったく知られていなかったという痛烈な経験がある。その経験がドイツの政治的経済的社会的状況について或る種の距離を置いて検証するという態度の重要性に気づく機会になった。
今後、高度テクノロジーがどのようにしてこのような複雑な事情をできるかぎりのローコストで解明しつつ、世界を、武装平和ではなく多様性の宇宙へ参入させていくことができるのか。楽しみではある。
BGM
「さらにそれ以上彼から離れるには、何か口実が必要だった。ところがその機会はさっそく来た。ある朝、彼が身をかがめて警官の一人が落した鉛筆を拾ってやった。階段へ行ってから、わたしは彼を罵(ののし)った。彼はわたしがなぜ怒るのかわからないと答えた。そしてわたしを鎮(しず)めようとしていっそう愛情深い態度を示したので、わたしはムカムカッとなった」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
ジュネは意を決してミカエリスにこう言い放つ。
「『お前はなんて腰抜けなんだ』とわたしは言ってやった、『なんて卑しい野郎だ。お巡りたちはお前に対してはやけに寛大だな。今にお前は奴らの長靴をほんとに舐める気なんだろう!奴らがそのうちお前の独房に忍んでくるのを待ってやがるんだろう!』」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
ミカエリスにはジュネが理想の愛人として、さらにあるまじきことに「解放者」として映って見えていた。ところが獄中でのジュネは社会からとことん拒絶され見放された罪悪の塊でなくてはならない。自分がどれほど卑劣か、卑怯か、醜悪か、倒錯者か、救いようがないか、感動的なまでに失墜した裏切り者か。その事実を獄中でミカエリスに見せつけてやる。そしてこれ以上ない腐敗物としてのジュネ本来の姿をミカエリスにまざまざと見せつけることで、ジュネはその目撃者であるミカエリスに向かって、恥部を見られた怨念を込めて償却しようのない憎悪を抱く、という経過をたどらなければならない。
「わたしは、彼が、わたしがいかに『解放者』であるかを見た後に、わたしの失墜を目のあたり見たということのために、彼に憎悪(ぞうお)を感じていた」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
ジュネは自分で自分自身の汚臭に満ちた姿と態度、卑劣ぶりをミカエリスの目の前で加速的に演じる。しかし逆説的なことだが、憎悪というものはその中に一片の愛を含んでしまうものだ。だからこそ憎悪は所詮憎悪でしかないのだ。冷淡な軽蔑者そのものになりきれないジュネは煩悶のうちにある。
「わたしの服はすっかり薄汚くなり、わたし自身も垢(あか)に汚れ、ひげも剃(そ)らず、髪の毛はもじゃもじゃになっていた、ーーーわたしは醜くなり、そして、それが彼自身の生来の姿であったためにミカエリスが厭がっていた、ならず者の様子に返っていたのだった。わたしはそのあいだもいよいよ恥ずかしさの感情の中に沈んでいった。わたしはもはやわたしの友(アミ)を愛さなくなっていたのだ。それどころか、この愛ーーーそれはわたしが経験した初めての保護者的立場の愛だったーーーにとって代ったものは、それがまだいくつかの愛情の小繊維を含んでいたために不純で陰険な、憎悪だった」(ジュネ「泥棒日記・P.136」新潮文庫)
愛情というものの取り扱い方は本当に厄介なものだと、ジュネ自身、身に染みて深く感じとっていただろう。ところがこの、「身に染みる」という情動の動きは、それがたとえ「失墜」を意味するものであっても、それはそれでまた別種の快楽を獲得する行為になりうる。
「またミカエリスにはああ言ったが、もしわたしがひとりだったならば、わたしは警官たちに熱烈な愛を捧(ささ)げていただろう。独房の中に閉じこめられるや否や、わたしが夢想したのは、彼らの絶大な力であり、彼らの友情であり、彼らとわたしとの間に生じうるある種の共犯関係、それにおいて我々相互の力能を交換し合うことによって、彼らは無頼漢として、わたしは裏切り者として、それぞれ自己を顕(あら)わすだろうと思われた共犯関係であった」(ジュネ「泥棒日記・P.136~137」新潮文庫)
いま引いた部分に顕著なように、また別種の快楽を獲得する行為。どのようにして成立するのか。看守に対しては次のように。
「病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫)
ジュネの神格化を阻止するためにジュネ自身が用いた、ミカエリス個人に対する罵倒は次のようなメカニズムによって。
「おのれに抵抗するのも甘味なことであって、それはもじゃもじゃした感情の毛髪をうしろ向きにくしけずることなのだ」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一〇四五・P.543」ちくま学芸文庫)
そしておそらく理解不可能におちいっているであろう世間一般に対しては次のように。
「人々は、堅気(かたぎ)の男と悪党とのあいだの道徳的な違いをあまりにも大きく考えすぎている。泥棒や殺人者に対する法律は、教養がある者たちや富んでいる者たちに有利なようにつくられている」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・七〇五・P.439」ちくま学芸文庫)
さて、形式的にはクレルより遥かに上層階級に位置するセブロン中尉。クレルはただ単なる水兵。セブロンは海軍士官なのだから。そしてセブロンの全身全霊を賭けた「汚辱《への》意志」とその実行とによって、なるほど均衡状態は破れかかってきている。とはいえ、しかし実質的脅威はまだクレルの側にある。もう少しだ。セブロンは激しい妄想状態のうちに突入する。セブロンは妄想に《なる》。幾つか創案してみる。最終的に次のような案に落ち着いた。
「長いこと思い悩んだ末に、少尉は次のような解決を選んだ。《クレルは発砲する。しかし心が動揺しているので、わたしを撃ち損う。わたしは負傷する》。艦へ帰っても、士官はクレルの顔をおぼえているとは誰にも言わない(ちょうどジルの顔をおぼえていないと言ったように)。そこで、士官は彼よりももっと強い立場になる。士官を愛しているかもしれない彼よりも」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.371」河出文庫)
しかしどうやって?という肝心の計画性を欠いたまま、いたずらに時間ばかりが過ぎていく。ところが艦船はもう出港まぎわまできている。早く何とかして絶好の機会をものにしなければならない。幻想で終わらせるわけにはいかない。ところで、小説はもうほとんどラストに近いというのに、セブロンの日記の中に、並びにとしては余りにも不自然な部分がある。ポスターに関する記述だ。小説の中では前半で一度書かれていたのだが、なぜここでまた反復されているのだろう。どちらの記述にもあてはまるのは、セブロンはポスターの犠牲者であり、ポスターの犠牲者の犠牲者でもあるという部分。ともかくポスターを見たことによってクレルは、そしてクレルを通してセブロンもまた、たぶん生まれて始めて《運命愛》としての「意志」を受け取ることになったにちがいない。
「わたしもまたポスターの犠牲者なのだ。とくに白いゲートルを巻き、フランス植民地の入口で歩哨に立っている陸戦隊員の絵を描いた、一枚のポスターの犠牲者だ。羅針盤が彼の踵の一つに突き刺さっていた。薔薇色の薊(あざみ)が彼の頭上を飾っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.374~375」河出文庫)
ラカンのいう「鏡像段階」というのは、おそらく、人生のうちに一度だけでなく何度か到来する経験なのではと考えられる。人間は生まれてすぐに自分は人間であると自覚して生まれてくるのではないように。ポスターとセブロンとののっぴきならぬ関係について。
「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。
この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126』弘文堂)
「重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~127』弘文堂)
「じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.127』弘文堂)
「鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。
けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。
《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.128~129』弘文堂)
というように人間はいかようにも形成されうる。世界から国家へ、国家から企業(マスコミ含む)ならびに地域社会へ、企業(マスコミ含む)ならびに地域社会から家庭へ。人間形成過程はそのような加工=変造の暴力的編成過程でもある。だから、周囲の人間の姿形〔身体〕はもちろんだが、或る生活様式、或るポスター、或る映像、或る小説、或る季節、或る物(制服、文房具、おもちゃ、自動車、等々)、それらはすべて人間を形成するために《外部から》やってくる。たとえば魅力的な制服の場合、身体だけでなく性格まで制服にふさわしく見えるように似せようと懸命になる。尊敬する人物に憧れて過労死するまでとことん同一化を目指す。そういったことは多少なりとも誰もが経験する過程であって、だから《鏡像段階》には程度の差しかない。しかし同一化といっても、鏡像はあくまで自分の側にはなく鏡像の側にある。したがってこの同一化は一生懸命になればなるほど逆に「自己疎外」する機能として働く。強烈な「自己疎外」を経験すればするほど人間はよりいっそう激しく分裂していくほかない。
次のセンテンスはジュネの言葉だが、おおかたの人間の欲望を代弁しているといえるだろう。
「外見上ーーーといっても、この外見は現実的で欠けるところがないーーークレルはあまりにも美しく、あまりにも純粋なので、わたしは彼にあらゆる罪を負わせてやりたくなる。ところで、わたしは果してクレルを汚してやりたいのか、それとも、純粋の象徴そのものによって人間的外見を危うくすることにより、悪をほろぼし、悪を無益かつ無効なものにしてやりたいのか、はっきりさせることの不安の念をおぼえる」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.376」河出文庫)
「あまりにも美しく」見えるもの。「あまりにも美しく」思えるもの。過剰な美。あるいは理想的な美。そしてまた理想的な美に少し足りないか、あるいはすでに少しばかり汚れがかって見える美。少しばかり汚れがかって見える美の場合、もっと激しい汚れへの途上に見えたり、あるいは内面の猥褻さが表面に浮き出てちらちら漂っているかのように見えるため、よりいっそう穢らわしい汚辱へ一挙に転倒させてやりたくなるという無意識が強烈に蠕動する。そういうものに対して多少なりとも誰もがおもうこと。セブロンの言葉。「わたしは彼にあらゆる罪を負わせてやりたくなる」。要するに「汚してやりたくなる」。それが性的快楽の場合、性別など関係なく、煮えくりかえり湧きあふれ限度を忘れた性欲でめちゃめちゃにしてやり、とことん「汚してやりたくなる」というありふれた《欲望の流動》に《なる》といえる。資本主義はこの種のありとあらゆる欲望を商品化することに成功してきたといえる。フェチ商品がそうだ。何がフェチ対象であって何がフェチ対象でないかなど、今や誰にもわからないありさまなのだ。しかしフェチ対象の頂点が何かは誰でも知っている。貨幣である。そして今や「死」すら商品化されている。たとえば「あなたはどんな死に方がお望みですか」といったような。あるいは殺人事件なら連続無惨大量であればあるほどマスコミのために利益を生む商品へ置き換えられるといったように。
さらにマスコミは、最も有力な発言者が死んでしまった今になって「関電役員問題」を取り上げている。同時に、関電の役員問題と社内体質ばかりを取り上げる。一方、原発問題は取り上げない。なぜだろう。関電の社内体質を透明化して新しく生まれ変わろうとする関電のために懸命に奉仕してでもいるのだろうか、マスコミは。このままでは肝心の原発問題はますます背後へ退いていってしまう。この前にも京都アニメーション放火事件があったとき、マスコミは強行に埋め立てが進んでいくばかりの沖縄基地問題をほとんどそっちのけにして、まるで沖縄基地問題などどうでもいいことであるかのように「京アニ」に報道を集中させて平気で振る舞っていた。そして成立こそしたけれどもまるで内容のはっきりしない「全世代型」というキャッチフレーズのもと、増税ゆえに、誰一人としてまったくの無料では自殺すらできにくくなるという状況が創設された。処理費用がかかってくる。消費税もかかってくる。そしてまた、それらの諸商品は疑う余地なく合法的に取り扱われることとなった。少なくとも日本の資本主義はまた新しい公理系を付け加えることに首尾よく成功した。不自由だけは確実に増した。
一九三〇年代のフランスに戻ろう。セブロンは迷っている。めちゃめちゃに汚してやれば純粋さは失われる。純粋さが失われればもうそれはクレル固有の美しさを持ち得ない。悪が混じってくる。しかし悪が混じっていないクレル、殺人者でないクレルなどまったく何の魅力も持たない。だからクレルの純粋な美しさをぶち壊すわけにはいかない。しかしぶち壊して徹底的に汚してやらねば気が済まない。そうしてこそクレルの美も力も光り輝くからだ。セブロンは何重にもダブルバインドされた宙吊り状態をさまよう。
セブロンはこのときほとんどクレルに《なる》。クレルという人間はほぼ次の通りだからだ。
「彼がぺてん師であってくれたらよかった、とわたしは言った。いかめしく子供っぽい水兵の服装のなかに、彼は敏捷かつ荒々しい肉体をかくしており、この肉体のなかに、殺人鬼の魂をかくしているのである。クレルはそんな男だ。わたしはそう信じている」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.377」河出文庫)
ジュネが代弁しているように美しいものをめちゃめちゃに汚してやりたいという欲望。しかしもしそれが物理的にも抽象的にも不可能なとき、人間はどんなことを思いつくか。
ひれふすのである。ひれふして逆に相手を盛大かつセンス良く飾り立てるのだ。問題は制服、仕草、態度といった「表層」にある。
「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)
ところで、野蛮な男どもの宴から距離を置いているしかない淫売屋の女将リジアーヌにはよく見えていることがある。クレルとロベールという兄弟の《あいだ》で愛されている美少年ロジェのことだ。それは「発見」というかたちを取って見い出される。
「《分ったわ、あれは彼らの子供なんだわ!》
これまで一度もーーーこの時をも含めてーーー女主人は、二人の兄弟のあいだに子供が生れるほど、彼らが愛し合っているなどとは考えたこともなかった。それでもこの兄弟の肉体的な類似が、彼女の愛に対するこれほど厄介な障害になっているとすれば、それは一つの愛でしかあり得なかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.380」河出文庫)
しかしなぜリジアーヌにはそれが見えたのか。ニーチェとマルクスとを参照しておきたい。
「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)
リジアーヌは淫売屋《ラ・フェリア》の主人ではない。主人ノルベールの夫人である。実質的に娼婦たちの面倒を見て店を切り盛りしている「女将」だ。客層である男たちがどんな立派な社会的身分であろうと、社会的身分の高さにもかかわらず、どれほど多彩きわまりない奇怪な性的嗜好を持っているか熟知している。その上で娼婦たち(客層にとっての「天使たち」)を部屋ごとに派遣する立場だ。したがってニーチェのいう「道徳《外》に位置」する距離を獲得しているぶん、男たちには見えないものを距離を置いて冷静に観察することができる。
「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)
若年層だった頃のマルクス=エンゲルスは「独仏年誌」発行などでフランスとドイツではなるほど批評家としてそこそこ知られた存在だった。ところが資本主義発祥の地イギリスに行くとほとんどまったく知られていなかったという痛烈な経験がある。その経験がドイツの政治的経済的社会的状況について或る種の距離を置いて検証するという態度の重要性に気づく機会になった。
今後、高度テクノロジーがどのようにしてこのような複雑な事情をできるかぎりのローコストで解明しつつ、世界を、武装平和ではなく多様性の宇宙へ参入させていくことができるのか。楽しみではある。
BGM