暴々しい美しさに満ちたかつての仲間たちのことを回想するジュネ。
「彼らは皆、わたしが彼らの凹凸(おうとつ)の一つ一つで、あたかも電流が分極作用する電池の端子のように、ふたたび充電することを快く許してくれた」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)
第一に、互いに属し合い互いに制約し合っていること。第二に、互いに排除し合い互いに対立し合う両極であること。この対立し合いつつ作用し合う関係において始めて出現し流動しさらなる流動を再生産していく「電流」のような関係性。そこに発する雷電をこそ巧みに捉え「充電」しなければならないし、そうでなくてはそもそも力に《なる》ことすらできない。「電流が分極作用する」という記述はたいへん巧みだといえる。すなわち次のような関係性であろう。
「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
x量の商品A=y量の商品B または x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(亜麻布20エレ=上衣1着 または二〇エレの亜麻布は一着の上衣に値する)。
1価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。
ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。
相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.94」国民文庫)
ジュネはいう。「はっきりと意識しないながらも、そうする」、ゆえに、「わたしをいっそう鼓舞し、昂揚(こうよう)させ、わたしに仕事への勇気を与え、そしてやがて彼らを守護する」と。
「わたしは、彼らが皆、はっきりと意識しないながらも、そうすることによって、わたしをいっそう鼓舞し、昂揚(こうよう)させ、わたしに仕事への勇気を与え、そしてやがて彼らを守護するためにわたしが力をーーー彼らから放射されたーーー力を十分に蓄積することを可能にするのだということを知っていたのだと思う」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)
マルクス参照。「はっきりと意識しないながらも、そうする」やいなや何が起こるのか。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
両者はともに目に見える何らの暴力も用いてはいない。ただ、「彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」だけのことだ。このことは何も無意識的に知っているということを意味しない。だた「それを行う」ことで等価性は始めて出現する、ということを知っているに過ぎない。しかしいったん実現された両者の等価性は、その後、習慣として反復されるようになり、いずれの共同体内部へも定着していくことになる。それ以前には等価性などどこにもないのだ。
さらにジュネは孤独の裡(うち)に仲間たちのことを思い出す。「彼らの生は外観の点」だけを見ると、「わたしの生と同じほどに脈略がな」い。だからジュネは「現実に」《もまた》「彼らについて何も知ってはいない」と述べる。
「しかし、今、わたしは独りだ。わたしがポケットの中に持っている手帳は、わたしがそのような友達を持ったということの書かれた証拠であるにすぎない。彼らの生は外観の点で、わたしの生と同じほどに脈略がなく、わたしは現実には彼らについて何も知ってはいない」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)
ジュネは本音を語っている。彼らの生は「わたしの生と同じほどに脈略がな」い、と。ジュネの探究心はまるでどこかの哲学者のように旺盛だ。しかし「脈略がない」のはただ「外観《だけ》」だろうか。内面には「脈略が《ある》」とでも言いたいのだろうか。
「彼らの大部分は今、監獄に入っているかもしれない。そして、そうでない連中は、どこにいるだろう?彼らが放浪に出ているとすれば、どのような偶然によってわたしは彼らとめぐり会うかわからず、そのときわたしたちのおのおのがどのような姿をしているか、それもわからない」(ジュネ「泥棒日記・P.370~371」新潮文庫)
出会いはいつも突然だ。再会もまたというべきか。しかしさしあたり問題は外観にせよ内面にせよ、「脈略が《ある》」とか「脈略が《ない》」とか言うとき、人々が頭の中で思い描いている「脈略」とはなんなのかということでなくてはならない。にもかかわらず、人間は、本来的に何らの脈略も知らない。ニーチェはとっくの昔にいっている。人間は《多元性》あるいは《多様性》としてしか存在しないと。
「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)
だからこそジュネは以前触れたように、P.364~365にかけて、「諸要素のジャヴァ《における》出会い」について、「その光輝性」について、「その結晶体」について、語ることができたのである。しかもそれはほんの瞬間のことに過ぎない。その瞬間が過ぎるやいなやすでに崩壊し去っているような「出会い」なのだ。だからこの多様性は常に既に流動する諸力の運動であるとしか言えない。
とはいえ、だからといって、どのような人物であっても、何の脈略もなしに、どんな支離滅裂な言動でも許されるというわけではまったくない。現実はなるほどニーチェのいう通りであるにしても、人間は常に社会的存在である以上、その社会的地位、立場、責任に応じて一定の「文脈」に従って行動することが求められる。その意味でドゥルーズとガタリによる次の指摘は今なお重要だ。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)
さて、儀式にしたがってジャンの葬儀の晩餐を行なったジュネ。今やジャンの身体はジュネの身体内で合体しつつ「腐敗の化学作用」を巻き起こしてくれていることをジュネは切に望む。
「こちらは墓石の隙間から彼の様子をうかがいに出かける。そんなふうに彼の腐敗の化学作用が私のなかに堆積する臭気を、私の口や、肛門や、鼻腔から吐き出しながら、私のなかに彼は生きているのだろうか?」(ジュネ「葬儀・P.16」河出文庫)
ジュネは不安を覚えながらもジャンの死がジュネの身体の中で徐々に発酵し膨張することを欲望する。埋葬当日の会堂の光景。ジュネの目にはこう映るほかない。
「彌撒(ミサ)とは要するにしぼみ去った陰茎(いちもつ)への惜別のかたちでそのつど執り行なわれる儀式を荘厳化したものにほかならない」(ジュネ「葬儀・P.20」河出文庫)
次のシーン。ナチス隊員のエリック・ザイラーは部屋のカーテン越しに周囲を警戒して様子を見る。
「余計な用心ぶりを発揮して、彼は赤いビロードの二重カーテンの片方のかげに身をかくしていた。しばらくそのままの姿勢をつづけていたが、やがてカーテンを手放さずに後ろを振り返った。そのためそのひだの中にほとんどすっぽり包まれたかっこうだった、すると私は肩に軍旗を掲げ、風にはためく赤い布につつまれて、ベルリン市中を行進する、ヒットラー・ユーゲントの一人を脳裏に思い描くのだった。一瞬、エリックはそれら若者たちのうちの一人だった」(ジュネ「葬儀・P.21~22」河出文庫)
エリックはジュネの目の中で、エリックがまだ子どもだった頃の姿、子どものナチス軍団ヒットラー・ユーゲントの一員に《なる》。変身する。少なくともジュネの目にはそう見える。なぜだろうか。整わなければ出現しない条件が整ったからだ。エリックは用心し過ぎているためにエリック自身の顔だけがカーテンの「ひだの中にほとんどすっぽり包まれたかっこう」を呈する。ジュネにとって寄せ集められたカーテンのひだの真ん中に顔だけがぽつりと覗いているその姿形はまぎれもなく人間の「肛門」にしか見えなくなる。それは生涯を通してジュネの性愛の的であり象徴でありつづけた人間の「肛門」という魅惑的造形物を思わせないではおかない。その条件下に拘束されるかぎりでエリックは変化《する》。という事情でなくてはならない。
ちなみにそれは、プルースト作品で、まだ少女だった頃のアルベルチーヌが仲間たちと集団で歩いているシーンをおもわせる。そのときアルベルチーヌは集団の中に入り混じって「集団《へと》溶融」しているため、一個の個体としてのアルベルチーヌなどまるで存在していないかのようにしか思われない。そして集団はモル状を呈し、ただ「『独自の一団』」に《なる》。もっとも、集団とはいっても少女たちの散歩として描かれてはいる。なので、一見しただけでは大人たちのファシズムには見えないわけだが。とはいえ、それはすでに流動する「力《への》意志」がほんのいっとき見せる或る種の形態を取っていることにまちがいはない。プルースト自身、その意識がある。彼女たちの「等質な一つの全体」は他の「群衆からはっきりと区別」されていた、と。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
さらにサルトル作品の有名なシーン。ドイツ軍パリ入城の日の光景。ダニエルは見上げる。こみ上げてくる抑えきれない快感とともに。
「ダニエルは遠くの軍楽隊の音を耳にした、空が軍旗でいっぱいにあふれているように思われ、マロニエの木によりかからずにはいられなかった。この長く続く並木道で《ただ一人》、ただ一人のフランス人、ただ一人の民間人で、敵の全軍隊が彼を眺めていた。怖くはなかった、安心してこれらの無数の眼に身を委ねていた、彼は《われらの征服者》と思い、悦楽に包まれていた。彼らの大胆にまなざしを投げ返し、これらの金髪を、氷河の湖のような眼をしたこれらの日焼けした顔を、これらの細い胴を、信じ難いくらいに長い筋肉質のこれらの腿を満喫していた。彼はつぶやいた。『この連中、なんて美しいんだろう!』彼はもう地に足がつかなかった。彼らの腕の中にさらわれ、胸と平らな腹にぴったり締めつけられていた。空から何かが転げ落ちた。時代後れの掟だ。裁判官の一団は解体した、判決は取り消された。カーキ色のおぞましい小柄な兵士たち、人間と市民の権利の擁護者たちは潰走している。《なんという自由か!》と彼は思い、眼をうるませた。この惨事のただ一人の生き残りだった。憎しみと怒りのこれらの天使たち、これら皆殺しの天使たちにたいしてただ一人の《人間》で、彼らのまなざしのもとで幼年時代が返ってくる。《これが新たな裁判官だ》と彼は思った、《これが新たな掟だ!》目を見張るような穏やかな空、無邪気な小さな積雲、こういったものは彼らの頭上にあると、なんとつまらぬものに見えることか。それは侮辱の、暴力の、悪意の勝利だった、それは<大地>の勝利だった。戦車が一台通った、堂々として悠々と、木の葉の迷彩を施して、ほとんど音を立てていない、後部にいるごく若い男は上着を肩にかけ、シャツの袖を肘の上にまくりあげ、裸の美しい腕を組んでいた。ダニエルは彼に微笑みかけた、若者はけわしい顔で長い間彼を眺めた、眼は輝いている、それから突然、戦車が遠ざかっていく間に、彼は微笑みはじめた。急いでズボンのポケットの中を探り、小さな物を投げてよこした、ダニエルはそれをさっと摑まえた。イギリス製の煙草だ。ダニエルは箱を強く握ったので、指の間で煙草がつぶれていくのが感じられた。相手は相変わらず微笑んでいる。耐え難い甘美なうずきが腿からこめかみへ昇ってきた。もう何がなんだかわからなくなり、やや息を詰まらせながら、彼は同じ言葉を繰り返した。『バターの中に突き入るように〔やすやすと〕ーーー彼らはバターの中に突き入るようにパリに突き入る』。涙で曇った彼の眼の前を、違う顔が通過した、次から次へと違う顔が続き、どれも同じように美しい。彼らはわれわれに<悪>を及ぼす、これから始まるのは<悪の支配>だ、なんという喜び!彼らに花を投げてやるためにできるなら女になりたかった」(サルトル「自由への道5・P.189~191」岩波文庫)
フランスは蹂躙された。けれども、ドイツより先に全体主義化していたのはほかならぬイギリス、フランス、ソ連など、周囲の諸国家の側だった。その意味ではドイツを取り囲んで離さない周囲の諸大国によるドイツへの圧力があり、その限度を忘れた圧力の蓄積が逆にナチスという前代未聞の「皆殺しの天使たち」を醸成させてしまったとも言えるだろう。しかし問題は、そのような力はいつも「流動している」ということを知ることにある。カスタネダは老ヤキ・インディアンの言葉を報告している。
「世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、《すること》を知っとるからなんだ。もしおまえがそう《すること》を知らなければ、世界はちがっていただろうよ」(カスタネダ「呪師に成る・P.262」二見書房)
大事なのは、《別の仕方》で思考する、と同時にステレオタイプ(既成概念)と決別する、という能動的姿勢でなくてはならない。
BGM
「彼らは皆、わたしが彼らの凹凸(おうとつ)の一つ一つで、あたかも電流が分極作用する電池の端子のように、ふたたび充電することを快く許してくれた」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)
第一に、互いに属し合い互いに制約し合っていること。第二に、互いに排除し合い互いに対立し合う両極であること。この対立し合いつつ作用し合う関係において始めて出現し流動しさらなる流動を再生産していく「電流」のような関係性。そこに発する雷電をこそ巧みに捉え「充電」しなければならないし、そうでなくてはそもそも力に《なる》ことすらできない。「電流が分極作用する」という記述はたいへん巧みだといえる。すなわち次のような関係性であろう。
「A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
x量の商品A=y量の商品B または x量の商品Aはy量の商品Bに値する。(亜麻布20エレ=上衣1着 または二〇エレの亜麻布は一着の上衣に値する)。
1価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有の困難がある。
ここでは二つの異種の商品AとB、われわれの例ではリンネルと上着は、明らかに二つの違った役割を演じている。リンネルは自分の価値を上着で表わしており、上着はこの価値表現の材料として役だっている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。第一の商品の価値は相対的価値として表わされる。言いかえれば、その商品は相対的価値形態にある。第二の商品は等価物として機能している。言いかえれば、その商品は等価形態にある。
相対的価値形態と等価形態とは、互いに属しあい互いに制約しあっている不可分な契機であるが、同時にまた、同じ価値表現の、互いに排除しあう、または対立する両端、すなわち両極である。この両極は、つねに、価値表現によって互いに関係させられる別々の商品のうえに分かれている」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.94」国民文庫)
ジュネはいう。「はっきりと意識しないながらも、そうする」、ゆえに、「わたしをいっそう鼓舞し、昂揚(こうよう)させ、わたしに仕事への勇気を与え、そしてやがて彼らを守護する」と。
「わたしは、彼らが皆、はっきりと意識しないながらも、そうすることによって、わたしをいっそう鼓舞し、昂揚(こうよう)させ、わたしに仕事への勇気を与え、そしてやがて彼らを守護するためにわたしが力をーーー彼らから放射されたーーー力を十分に蓄積することを可能にするのだということを知っていたのだと思う」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)
マルクス参照。「はっきりと意識しないながらも、そうする」やいなや何が起こるのか。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
両者はともに目に見える何らの暴力も用いてはいない。ただ、「彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」だけのことだ。このことは何も無意識的に知っているということを意味しない。だた「それを行う」ことで等価性は始めて出現する、ということを知っているに過ぎない。しかしいったん実現された両者の等価性は、その後、習慣として反復されるようになり、いずれの共同体内部へも定着していくことになる。それ以前には等価性などどこにもないのだ。
さらにジュネは孤独の裡(うち)に仲間たちのことを思い出す。「彼らの生は外観の点」だけを見ると、「わたしの生と同じほどに脈略がな」い。だからジュネは「現実に」《もまた》「彼らについて何も知ってはいない」と述べる。
「しかし、今、わたしは独りだ。わたしがポケットの中に持っている手帳は、わたしがそのような友達を持ったということの書かれた証拠であるにすぎない。彼らの生は外観の点で、わたしの生と同じほどに脈略がなく、わたしは現実には彼らについて何も知ってはいない」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)
ジュネは本音を語っている。彼らの生は「わたしの生と同じほどに脈略がな」い、と。ジュネの探究心はまるでどこかの哲学者のように旺盛だ。しかし「脈略がない」のはただ「外観《だけ》」だろうか。内面には「脈略が《ある》」とでも言いたいのだろうか。
「彼らの大部分は今、監獄に入っているかもしれない。そして、そうでない連中は、どこにいるだろう?彼らが放浪に出ているとすれば、どのような偶然によってわたしは彼らとめぐり会うかわからず、そのときわたしたちのおのおのがどのような姿をしているか、それもわからない」(ジュネ「泥棒日記・P.370~371」新潮文庫)
出会いはいつも突然だ。再会もまたというべきか。しかしさしあたり問題は外観にせよ内面にせよ、「脈略が《ある》」とか「脈略が《ない》」とか言うとき、人々が頭の中で思い描いている「脈略」とはなんなのかということでなくてはならない。にもかかわらず、人間は、本来的に何らの脈略も知らない。ニーチェはとっくの昔にいっている。人間は《多元性》あるいは《多様性》としてしか存在しないと。
「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)
だからこそジュネは以前触れたように、P.364~365にかけて、「諸要素のジャヴァ《における》出会い」について、「その光輝性」について、「その結晶体」について、語ることができたのである。しかもそれはほんの瞬間のことに過ぎない。その瞬間が過ぎるやいなやすでに崩壊し去っているような「出会い」なのだ。だからこの多様性は常に既に流動する諸力の運動であるとしか言えない。
とはいえ、だからといって、どのような人物であっても、何の脈略もなしに、どんな支離滅裂な言動でも許されるというわけではまったくない。現実はなるほどニーチェのいう通りであるにしても、人間は常に社会的存在である以上、その社会的地位、立場、責任に応じて一定の「文脈」に従って行動することが求められる。その意味でドゥルーズとガタリによる次の指摘は今なお重要だ。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.294~295」河出書房新社)
さて、儀式にしたがってジャンの葬儀の晩餐を行なったジュネ。今やジャンの身体はジュネの身体内で合体しつつ「腐敗の化学作用」を巻き起こしてくれていることをジュネは切に望む。
「こちらは墓石の隙間から彼の様子をうかがいに出かける。そんなふうに彼の腐敗の化学作用が私のなかに堆積する臭気を、私の口や、肛門や、鼻腔から吐き出しながら、私のなかに彼は生きているのだろうか?」(ジュネ「葬儀・P.16」河出文庫)
ジュネは不安を覚えながらもジャンの死がジュネの身体の中で徐々に発酵し膨張することを欲望する。埋葬当日の会堂の光景。ジュネの目にはこう映るほかない。
「彌撒(ミサ)とは要するにしぼみ去った陰茎(いちもつ)への惜別のかたちでそのつど執り行なわれる儀式を荘厳化したものにほかならない」(ジュネ「葬儀・P.20」河出文庫)
次のシーン。ナチス隊員のエリック・ザイラーは部屋のカーテン越しに周囲を警戒して様子を見る。
「余計な用心ぶりを発揮して、彼は赤いビロードの二重カーテンの片方のかげに身をかくしていた。しばらくそのままの姿勢をつづけていたが、やがてカーテンを手放さずに後ろを振り返った。そのためそのひだの中にほとんどすっぽり包まれたかっこうだった、すると私は肩に軍旗を掲げ、風にはためく赤い布につつまれて、ベルリン市中を行進する、ヒットラー・ユーゲントの一人を脳裏に思い描くのだった。一瞬、エリックはそれら若者たちのうちの一人だった」(ジュネ「葬儀・P.21~22」河出文庫)
エリックはジュネの目の中で、エリックがまだ子どもだった頃の姿、子どものナチス軍団ヒットラー・ユーゲントの一員に《なる》。変身する。少なくともジュネの目にはそう見える。なぜだろうか。整わなければ出現しない条件が整ったからだ。エリックは用心し過ぎているためにエリック自身の顔だけがカーテンの「ひだの中にほとんどすっぽり包まれたかっこう」を呈する。ジュネにとって寄せ集められたカーテンのひだの真ん中に顔だけがぽつりと覗いているその姿形はまぎれもなく人間の「肛門」にしか見えなくなる。それは生涯を通してジュネの性愛の的であり象徴でありつづけた人間の「肛門」という魅惑的造形物を思わせないではおかない。その条件下に拘束されるかぎりでエリックは変化《する》。という事情でなくてはならない。
ちなみにそれは、プルースト作品で、まだ少女だった頃のアルベルチーヌが仲間たちと集団で歩いているシーンをおもわせる。そのときアルベルチーヌは集団の中に入り混じって「集団《へと》溶融」しているため、一個の個体としてのアルベルチーヌなどまるで存在していないかのようにしか思われない。そして集団はモル状を呈し、ただ「『独自の一団』」に《なる》。もっとも、集団とはいっても少女たちの散歩として描かれてはいる。なので、一見しただけでは大人たちのファシズムには見えないわけだが。とはいえ、それはすでに流動する「力《への》意志」がほんのいっとき見せる或る種の形態を取っていることにまちがいはない。プルースト自身、その意識がある。彼女たちの「等質な一つの全体」は他の「群衆からはっきりと区別」されていた、と。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
さらにサルトル作品の有名なシーン。ドイツ軍パリ入城の日の光景。ダニエルは見上げる。こみ上げてくる抑えきれない快感とともに。
「ダニエルは遠くの軍楽隊の音を耳にした、空が軍旗でいっぱいにあふれているように思われ、マロニエの木によりかからずにはいられなかった。この長く続く並木道で《ただ一人》、ただ一人のフランス人、ただ一人の民間人で、敵の全軍隊が彼を眺めていた。怖くはなかった、安心してこれらの無数の眼に身を委ねていた、彼は《われらの征服者》と思い、悦楽に包まれていた。彼らの大胆にまなざしを投げ返し、これらの金髪を、氷河の湖のような眼をしたこれらの日焼けした顔を、これらの細い胴を、信じ難いくらいに長い筋肉質のこれらの腿を満喫していた。彼はつぶやいた。『この連中、なんて美しいんだろう!』彼はもう地に足がつかなかった。彼らの腕の中にさらわれ、胸と平らな腹にぴったり締めつけられていた。空から何かが転げ落ちた。時代後れの掟だ。裁判官の一団は解体した、判決は取り消された。カーキ色のおぞましい小柄な兵士たち、人間と市民の権利の擁護者たちは潰走している。《なんという自由か!》と彼は思い、眼をうるませた。この惨事のただ一人の生き残りだった。憎しみと怒りのこれらの天使たち、これら皆殺しの天使たちにたいしてただ一人の《人間》で、彼らのまなざしのもとで幼年時代が返ってくる。《これが新たな裁判官だ》と彼は思った、《これが新たな掟だ!》目を見張るような穏やかな空、無邪気な小さな積雲、こういったものは彼らの頭上にあると、なんとつまらぬものに見えることか。それは侮辱の、暴力の、悪意の勝利だった、それは<大地>の勝利だった。戦車が一台通った、堂々として悠々と、木の葉の迷彩を施して、ほとんど音を立てていない、後部にいるごく若い男は上着を肩にかけ、シャツの袖を肘の上にまくりあげ、裸の美しい腕を組んでいた。ダニエルは彼に微笑みかけた、若者はけわしい顔で長い間彼を眺めた、眼は輝いている、それから突然、戦車が遠ざかっていく間に、彼は微笑みはじめた。急いでズボンのポケットの中を探り、小さな物を投げてよこした、ダニエルはそれをさっと摑まえた。イギリス製の煙草だ。ダニエルは箱を強く握ったので、指の間で煙草がつぶれていくのが感じられた。相手は相変わらず微笑んでいる。耐え難い甘美なうずきが腿からこめかみへ昇ってきた。もう何がなんだかわからなくなり、やや息を詰まらせながら、彼は同じ言葉を繰り返した。『バターの中に突き入るように〔やすやすと〕ーーー彼らはバターの中に突き入るようにパリに突き入る』。涙で曇った彼の眼の前を、違う顔が通過した、次から次へと違う顔が続き、どれも同じように美しい。彼らはわれわれに<悪>を及ぼす、これから始まるのは<悪の支配>だ、なんという喜び!彼らに花を投げてやるためにできるなら女になりたかった」(サルトル「自由への道5・P.189~191」岩波文庫)
フランスは蹂躙された。けれども、ドイツより先に全体主義化していたのはほかならぬイギリス、フランス、ソ連など、周囲の諸国家の側だった。その意味ではドイツを取り囲んで離さない周囲の諸大国によるドイツへの圧力があり、その限度を忘れた圧力の蓄積が逆にナチスという前代未聞の「皆殺しの天使たち」を醸成させてしまったとも言えるだろう。しかし問題は、そのような力はいつも「流動している」ということを知ることにある。カスタネダは老ヤキ・インディアンの言葉を報告している。
「世界が世界であるのは、それを世界に仕立て上げる仕方、《すること》を知っとるからなんだ。もしおまえがそう《すること》を知らなければ、世界はちがっていただろうよ」(カスタネダ「呪師に成る・P.262」二見書房)
大事なのは、《別の仕方》で思考する、と同時にステレオタイプ(既成概念)と決別する、という能動的姿勢でなくてはならない。
BGM