映像じたいと化しているジュネ。ジュネの情動は時として過剰過ぎるかのように見える。しかし過剰にしてしまうのは映像の側から受け取らざるを得ない衝撃によってである。
「自分の身体が引き裂かれるような思いだった。自分の苦しみがさらにはげしくなり、至高の歌声にまで、死にまで高まるのが望ましかった。悲惨だった。私はリトンを愛してはおらず、私の愛はすべてまだジャンにそそがれていた。スクリーンの中の対独協力義勇兵はあきらめていた。逮捕されたところだった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
しかし情動の奔出を過剰にしてしまうのは映像の側から受け取らざるを得ない衝撃によってである。どれほど微細なものであってもジュネは或る種のショックを与えられているのだ。そうでなければ情動あるいは感情はまったく動かないし、ましてやジュネのように思考することもない。
「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本姓〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
ジュネは桁違いの「美貌」に対する世間一般のルサンチマン(劣等感、嫉妬、復讐感情)をよく知っている。世間一般の人々は、桁違いに美しい「薔薇」の首をギロチンで吹っ飛ばしたがる、血を見たがる、ということを。
「目の醒めるような美貌にたいしていったいなにができるというのか?首を刎ねるくらいのことだ。そんなふうにして薔薇をつみとる愚か者は薔薇にたいして復讐する。引っ捕えて連行する若い盗人のことを話すとき、刑事(デカ)はこう言ってのける。『こいつを摘んできたよ!』」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
自意識過剰な刑事(デカ)の自慢話にだけ当てはまることではない。もっと巨大な機構であるマスコミからしてすでにそうだ。たとえば、桁違いの「美」の所有者が何かの犯罪に引っかかって逮捕されるとき、その映像を汚辱にまみれた映像商品として全世界に流通させるという顕著な特権に酔いしれる。そしてそこから可能なかぎりの利益を引き出す。
美とは何か。世間一般の人間がどれほど苦労してもけっして手に入らないものに等しい。それは隔絶された孤独でもある。ただ単なる「美貌」だけをいうのではない。巨万の富。ほとんど到達不可能な社会的地位。限度を知らない脅威的暴力。それらが力を失い崩壊の様相を見せ始めるとき、世間一般は興奮のあまり性的リビドー備給のほとんど全力を傾けて見入る。それまで偉容を誇っていた美がついに溶け壊れ醜く崩壊するシーンに向けてすべての強度を注ぎ込み、逆に自分の内部でたちまちこみ上げてくる「権力への意志」を抑えきれず、精神を高揚させ、残酷さに酔いしれ、その官能を味わう。自分でもわからないまますでに無意識の裡(うち)にそうしてしまっているかのように見えはするが、どちらかといえば、あらかじめ気持ちの準備を打ち固め待ち構えていた性犯罪加害者の心境に近い。そのとき視聴者はほとんど眼に《なる》。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)
立場が転倒し、美の所有者は逆に債務者となり世間一般は債権者へと置き換えられる。債権者となった世間一般は何をどのように考え実行に移すのだろう。
「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」(ニーチェ「道徳の系譜・P.72」岩波文庫)
さらに。美の崩壊に際して表面化するのは、世間一般の意識の中に、どれほど愚劣な差別意識が沈潜していたか、今なお沈潜しているかという事実である。
「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)
「したがってリトンが私にとって山頂の花、可憐な深山薄雪草(エーデルワイス)であったとしても驚くにはあたらないわけだ。腕が動いたはずみに彼が腕時計をしているのが目に入った、がその動作はどちらかといえば元気がなく、ジャンの動作とは似ても似つかなかった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
リトンの脱力を見るジュネ。生前のジャンは日常生活においてももっと自分自身を厳しく律するタイプの美少年でありレジスタンスの闘志だった。両者を比較すると今度はリトンの側が貧相に映って見える。それはジュネ自身が自分の身体を通して感じる力の貧困さだ。とっさに思いついたのは、ジャンの兄であり冷淡かつ残酷な性格を持つポーロの力を援用することだった。
「にもかかわらずそれは、たしかにもう一方はもっと力にみなぎってはいたが、ポーロのものと考えることもできただろう。その想像から私は出発しようとしていた、そして私はますますリトンがポーロと一対であるように思えてくるのだった、だけどその魔術を仕遂げるには、完璧な精神集中が、すべてをその成就の目的に充てることが必要だった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
たいへん器用なジュネ。このあたりの叙述に見るジュネの必死さは、しかし、映画館の観衆の必死さの皮肉な反映でもある。観衆のほとんどすべてはフランス軍の勝利とドイツ軍の敗北が決定した後で、事後的に、安心して映画を見ているフランスの一般市民である。だからこれまでは黙って隠れていたくせに勝利するやいなや大声を上げてフランスレジスタンスの闘志として死んだジャンに向けて惜しみない声援を送る。以前は家族友人知人の中にレジスタンス運動家がいるというだけで恐怖に駆られ家庭内では露骨に嫌悪の表情を浮かべさえした世間一般の人々。そのような卑劣なフランス人に対する大いなる軽蔑がフランス人としてフランス語でものを考えるジュネにはある。
さて、アルトー。
「それではこの卑劣な汚猥はどこからくるのか。世界がまだ構成されていないから、あるいは人間が世界についてまだちっぽけな観念しかもっていないから そしてこの観念を人間がいつまでも保存しようとするからか。それは人間が、ある日、世界の観念を 《停止》させたからである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.23」河出文庫)
選択の時。水路のあちこちには関所が設けられているものだが、ここでの一旦《停止》は、人間にとってその後数千年の命運を左右することになる。
「二つの道が彼に与えられていた、無限の外部への道と、細々とした内部への道である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.23」河出文庫)
どうしたか。
「そして彼は細々とした内部を選んだ。そこでは鼠や、舌や 肛門や、亀頭を しめつけるだけでいいのだ。そして神が、神みずからが運動をおさえつけたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.24」河出文庫)
人間は神の法によって裁かれることを選択した。外部へ流出することを妨げられる過程を選択した。そして外部への流出を妨げられた強度の全奔流は内部へ逆行し、人間の内部を浸食する。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
アルトーのいう「神」とは「国家」であり「キリスト教の神」であり「社会的規範」である。それらは人間を凝固し固定し記号化する(ステレオタイプ化する)ための全体的装置をなす。もっと自然に生きつつ死ぬこともできた人間。ところが人間は、驚くべきことに、人間という鋳型(いがた)は嵌め込まれることをみずから欲し、これらによって暴力的に加工=変造されることをみずから意志した。さらになお、これらの条件が揃うためには極めて宗教色の強い国家が先行して成立していなくてはならない。宗教色の強い国家はいかにして成立したか。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
ちなみに聖書にこうある。
「世の始(はじ)めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった」(「新約聖書・ヨハネ福音書・第一章・P.275」岩波文庫)
それを参照すると、だから、始めに暴力的排除があった、ということも可能だろう。一つの言語しか許さないということ。他のどんな宗教の言語も民族の言語も、生活習慣を含めて他のものはすべて、一切認めることはできず頭から否定するということ。したがって、始めに神は暴力であった、とも言いうる。あるいはニーチェの言葉を借りるとすべての神は悪魔から生まれたということになる。
「すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としている」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四六九・P.277」ちくま学芸文庫)
「理想を形成するとは、おのれの悪魔をおのれの神へと《改造する》ことだ。そして、そのためには人々はまずおのれの悪魔を創造し終えていなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四七〇・P.277」ちくま学芸文庫)
ところで今の神とその道徳とは何のことを指していうのか。言うまでもない。資本主義とその精神である。神は不平等を、利子の生産を、増大する格差社会を、欲する。マルクスはいう。
「キリスト教はユダヤ教から発生した。それはふたたびユダヤ教のなかへと解消した。キリスト教徒は、そもそものはじめから、観想的な態度をとるユダヤ人だったのであり、したがってユダヤ人は、実践的〔実際的〕なキリスト教徒なのであって、実践的キリスト教徒はふたたびユダヤ人となった」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.65』岩波文庫)
というのは、聖書の言葉は資本主義を祝福するばかりか、よりいっそう利潤を増大させることを奨励するからである。「新しい酒は新しい皮袋へ」という意味。もっとも、「酒」が何を現わしているかはそれぞれの宗派によって解釈が異なる。使命感、信仰、権力意志、忠誠心、目的達成への精神力、等々である。しかし共通するのは「酒」は「発酵するもの」だという点である。現実の金融機関に当てはめて考えれば、資本増殖への合理的な方法が積極的に肯定されていると取れるのである。該当する箇所。
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、酒は皮袋を破って、酒も皮袋もだめになる」(「新約聖書・マルコ福音書・第二章・P.13」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れることもしない。そんなことをすれば、皮袋が破れて流れ出し、皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば両方(りょうほう)とも安全である」(「新約聖書・マタイ福音書・第九章・P.93」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない」(「新約聖書・ルカ福音書・第五章・P.191」岩波文庫)
上流階級に属する投資家にしてみれば、リスクの高い集中的投資を避けて分散投資を推奨する言葉にも見えるのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「自分の身体が引き裂かれるような思いだった。自分の苦しみがさらにはげしくなり、至高の歌声にまで、死にまで高まるのが望ましかった。悲惨だった。私はリトンを愛してはおらず、私の愛はすべてまだジャンにそそがれていた。スクリーンの中の対独協力義勇兵はあきらめていた。逮捕されたところだった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
しかし情動の奔出を過剰にしてしまうのは映像の側から受け取らざるを得ない衝撃によってである。どれほど微細なものであってもジュネは或る種のショックを与えられているのだ。そうでなければ情動あるいは感情はまったく動かないし、ましてやジュネのように思考することもない。
「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本姓〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである。人間たちは、事実においては、めったに思考せず、思考するにしても、意欲が高まってというよりはむしろ、何かショックを受けて思考するということ、これは、『すべてのひと』のよく知るところである」(ドゥルーズ「差異と反復・上・P.354」河出文庫)
ジュネは桁違いの「美貌」に対する世間一般のルサンチマン(劣等感、嫉妬、復讐感情)をよく知っている。世間一般の人々は、桁違いに美しい「薔薇」の首をギロチンで吹っ飛ばしたがる、血を見たがる、ということを。
「目の醒めるような美貌にたいしていったいなにができるというのか?首を刎ねるくらいのことだ。そんなふうにして薔薇をつみとる愚か者は薔薇にたいして復讐する。引っ捕えて連行する若い盗人のことを話すとき、刑事(デカ)はこう言ってのける。『こいつを摘んできたよ!』」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
自意識過剰な刑事(デカ)の自慢話にだけ当てはまることではない。もっと巨大な機構であるマスコミからしてすでにそうだ。たとえば、桁違いの「美」の所有者が何かの犯罪に引っかかって逮捕されるとき、その映像を汚辱にまみれた映像商品として全世界に流通させるという顕著な特権に酔いしれる。そしてそこから可能なかぎりの利益を引き出す。
美とは何か。世間一般の人間がどれほど苦労してもけっして手に入らないものに等しい。それは隔絶された孤独でもある。ただ単なる「美貌」だけをいうのではない。巨万の富。ほとんど到達不可能な社会的地位。限度を知らない脅威的暴力。それらが力を失い崩壊の様相を見せ始めるとき、世間一般は興奮のあまり性的リビドー備給のほとんど全力を傾けて見入る。それまで偉容を誇っていた美がついに溶け壊れ醜く崩壊するシーンに向けてすべての強度を注ぎ込み、逆に自分の内部でたちまちこみ上げてくる「権力への意志」を抑えきれず、精神を高揚させ、残酷さに酔いしれ、その官能を味わう。自分でもわからないまますでに無意識の裡(うち)にそうしてしまっているかのように見えはするが、どちらかといえば、あらかじめ気持ちの準備を打ち固め待ち構えていた性犯罪加害者の心境に近い。そのとき視聴者はほとんど眼に《なる》。
「アポロン的陶酔はなかんずく眼を興奮させておくので、眼が幻想の力をうる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.96』ちくま学芸文庫)
立場が転倒し、美の所有者は逆に債務者となり世間一般は債権者へと置き換えられる。債権者となった世間一般は何をどのように考え実行に移すのだろう。
「債権者は一種の《快感》ーーー非力な者の上に何の躊躇もなく自己の力を放出しうるという快感、《悪を為すことの喜びのために悪を為す》愉悦、暴圧を加えるという満足感ーーーを返済または補償として受け取ることを許される。しかもこの満足感は、債権者の社会的地位が低くかつ卑しいほどいよいよ高く評価され、ややもすれば債権者にとって非常に結構なご馳走のように思われ、否、より高い地位の味試しのようにさえ思われた。債権者は債務者に『刑罰』を加えることによって一種の、『《主人権》』に参与する。ついには彼もまた、人を『目下』として軽蔑し虐待しうるという優越感に到達するーーーあるいは少なくとも、実際の刑罰権、すなわち行刑がすでに『お上(かみ)』の手に移っている場合には、人の軽蔑され虐待されるのを《見る》という優越感に到達する」(ニーチェ「道徳の系譜・P.72」岩波文庫)
さらに。美の崩壊に際して表面化するのは、世間一般の意識の中に、どれほど愚劣な差別意識が沈潜していたか、今なお沈潜しているかという事実である。
「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)
「したがってリトンが私にとって山頂の花、可憐な深山薄雪草(エーデルワイス)であったとしても驚くにはあたらないわけだ。腕が動いたはずみに彼が腕時計をしているのが目に入った、がその動作はどちらかといえば元気がなく、ジャンの動作とは似ても似つかなかった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
リトンの脱力を見るジュネ。生前のジャンは日常生活においてももっと自分自身を厳しく律するタイプの美少年でありレジスタンスの闘志だった。両者を比較すると今度はリトンの側が貧相に映って見える。それはジュネ自身が自分の身体を通して感じる力の貧困さだ。とっさに思いついたのは、ジャンの兄であり冷淡かつ残酷な性格を持つポーロの力を援用することだった。
「にもかかわらずそれは、たしかにもう一方はもっと力にみなぎってはいたが、ポーロのものと考えることもできただろう。その想像から私は出発しようとしていた、そして私はますますリトンがポーロと一対であるように思えてくるのだった、だけどその魔術を仕遂げるには、完璧な精神集中が、すべてをその成就の目的に充てることが必要だった」(ジュネ「葬儀・P.63」河出文庫)
たいへん器用なジュネ。このあたりの叙述に見るジュネの必死さは、しかし、映画館の観衆の必死さの皮肉な反映でもある。観衆のほとんどすべてはフランス軍の勝利とドイツ軍の敗北が決定した後で、事後的に、安心して映画を見ているフランスの一般市民である。だからこれまでは黙って隠れていたくせに勝利するやいなや大声を上げてフランスレジスタンスの闘志として死んだジャンに向けて惜しみない声援を送る。以前は家族友人知人の中にレジスタンス運動家がいるというだけで恐怖に駆られ家庭内では露骨に嫌悪の表情を浮かべさえした世間一般の人々。そのような卑劣なフランス人に対する大いなる軽蔑がフランス人としてフランス語でものを考えるジュネにはある。
さて、アルトー。
「それではこの卑劣な汚猥はどこからくるのか。世界がまだ構成されていないから、あるいは人間が世界についてまだちっぽけな観念しかもっていないから そしてこの観念を人間がいつまでも保存しようとするからか。それは人間が、ある日、世界の観念を 《停止》させたからである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.23」河出文庫)
選択の時。水路のあちこちには関所が設けられているものだが、ここでの一旦《停止》は、人間にとってその後数千年の命運を左右することになる。
「二つの道が彼に与えられていた、無限の外部への道と、細々とした内部への道である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.23」河出文庫)
どうしたか。
「そして彼は細々とした内部を選んだ。そこでは鼠や、舌や 肛門や、亀頭を しめつけるだけでいいのだ。そして神が、神みずからが運動をおさえつけたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.24」河出文庫)
人間は神の法によって裁かれることを選択した。外部へ流出することを妨げられる過程を選択した。そして外部への流出を妨げられた強度の全奔流は内部へ逆行し、人間の内部を浸食する。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)
アルトーのいう「神」とは「国家」であり「キリスト教の神」であり「社会的規範」である。それらは人間を凝固し固定し記号化する(ステレオタイプ化する)ための全体的装置をなす。もっと自然に生きつつ死ぬこともできた人間。ところが人間は、驚くべきことに、人間という鋳型(いがた)は嵌め込まれることをみずから欲し、これらによって暴力的に加工=変造されることをみずから意志した。さらになお、これらの条件が揃うためには極めて宗教色の強い国家が先行して成立していなくてはならない。宗教色の強い国家はいかにして成立したか。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
ちなみに聖書にこうある。
「世の始(はじ)めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった」(「新約聖書・ヨハネ福音書・第一章・P.275」岩波文庫)
それを参照すると、だから、始めに暴力的排除があった、ということも可能だろう。一つの言語しか許さないということ。他のどんな宗教の言語も民族の言語も、生活習慣を含めて他のものはすべて、一切認めることはできず頭から否定するということ。したがって、始めに神は暴力であった、とも言いうる。あるいはニーチェの言葉を借りるとすべての神は悪魔から生まれたということになる。
「すべての善はなんらかの悪の変化したものである。あらゆる神はなんらかの悪魔を父としている」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四六九・P.277」ちくま学芸文庫)
「理想を形成するとは、おのれの悪魔をおのれの神へと《改造する》ことだ。そして、そのためには人々はまずおのれの悪魔を創造し終えていなくてはならない」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四七〇・P.277」ちくま学芸文庫)
ところで今の神とその道徳とは何のことを指していうのか。言うまでもない。資本主義とその精神である。神は不平等を、利子の生産を、増大する格差社会を、欲する。マルクスはいう。
「キリスト教はユダヤ教から発生した。それはふたたびユダヤ教のなかへと解消した。キリスト教徒は、そもそものはじめから、観想的な態度をとるユダヤ人だったのであり、したがってユダヤ人は、実践的〔実際的〕なキリスト教徒なのであって、実践的キリスト教徒はふたたびユダヤ人となった」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.65』岩波文庫)
というのは、聖書の言葉は資本主義を祝福するばかりか、よりいっそう利潤を増大させることを奨励するからである。「新しい酒は新しい皮袋へ」という意味。もっとも、「酒」が何を現わしているかはそれぞれの宗派によって解釈が異なる。使命感、信仰、権力意志、忠誠心、目的達成への精神力、等々である。しかし共通するのは「酒」は「発酵するもの」だという点である。現実の金融機関に当てはめて考えれば、資本増殖への合理的な方法が積極的に肯定されていると取れるのである。該当する箇所。
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、酒は皮袋を破って、酒も皮袋もだめになる」(「新約聖書・マルコ福音書・第二章・P.13」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れることもしない。そんなことをすれば、皮袋が破れて流れ出し、皮袋もだめになる。新しい酒は新しい皮袋に入れる。そうすれば両方(りょうほう)とも安全である」(「新約聖書・マタイ福音書・第九章・P.93」岩波文庫)
「新しい酒を古い皮袋(かわぶくろ)に入れる者はない。そんなことをすれば、新しい酒は皮袋を破って流れ出し、皮袋もだめになるであろう。新しい酒は新しい皮袋に入れねばならない」(「新約聖書・ルカ福音書・第五章・P.191」岩波文庫)
上流階級に属する投資家にしてみれば、リスクの高い集中的投資を避けて分散投資を推奨する言葉にも見えるのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM