喪の作業を続けるジュネ。当分つづく。というよりラストまで続けられる。というのも、作品「葬儀」はジュネにとっての喪の作業だからである。
「世間の人間は、私をまったく知らない連中までも、私にたいして最大の敬意を払うべきだった、なぜなら私は自分のなかでジャンの喪に服していたのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
ジュネは「正式な喪服」だけでなく、むしろその象徴的なものとの区別を重点化する。「黒の腕章」「上衣の衿の黒い布切れ」「黒い徽章」等々、である。象徴化された様々な物品はすなわち「フェチ商品」の系列をなす。
「寡婦たちの正式な喪服は認めるが、それを徴(しる)し程度にちぢめたもの、黒の腕章や、上衣の衿の黒い布切れや、また労働者にみかける帽子の庇のすみっこの黒い徽章などは、これまで私の眼に滑稽に映ったものだ。とつぜん、私はその必要性に気づいたのである」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
象徴化された様々な物品はすなわち「フェチ商品」の系列をなす。どの商品も特権的でない等価的なフェチ商品の系列として生産されうる。ジュネはそれら種々のフェチの中に「神聖な想い出」を見る。
それはそうと、今の日本。昨今、女性のパンプス着用が問題とされてきた。なるほどハイヒールは以前ほどには見かけなくなった。パンプスも減った感じはする。だが今度はスニーカーが増えた。そしてスニーカーはどんな労働にも向いているのかもしれない。ところが主に「まなざし」によるセクハラは無くならないだろう。というのは、異性愛者の男性が女性に向ける性的リビドー備給は、今度はパンプスからスニーカーへ転移するにちがいないからである。フェチ商品の系列がどこまでも延々と延長可能なことと事情は同じである。フェチ商品に注ぎ込まれる性的リビドーの強度は目に見えない流動するエネルギーの諸運動であって、言い換えれば、ジュネが「神聖な想い出」という言語に込めている強度と一致する。
ちなみにいうと、たまたま家には車がないので、ときどき電車(JR、私鉄とも)を利用することがある。時間帯によるが、席を探そうと車内を見渡してみると、明らかにそわそわしている男性は複数いる。それは少なくとも制服姿の女性と同じ数だけいるだろう。制服というのは特定の制服だけを指すわけではなく、ずっと広い意味での制服をいう。たとえばファッション雑誌で紹介されただけでなく一定期間流行するような性質を獲得しステレオタイプ化した(社会的規模で何度も反復され凝固し固定観念化し形式化した)服装のすべてである。諸商品の系列でいえば「貨幣商品」としての社会的地位を勝ち取った特権的服装のことだ。通勤時はこれ、通学時はこれ、平日の普段着はこれ、休日のお出かけはこれ、というふうに。そのような意味でステレオタイプ化した服装に合わせたソックスのフェチ化が進行している。むしろすでに「ソックス-フェチ」は増加している、と言わねばならない。もっとも、主にスカート着用の場合、その服装全体を構成する諸要素の集合が、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》という条件つきではあるのだが。
したがってソックスとはいっても、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》ことがないようなソックスの場合、逆に男性の欲望は裏切られたと感じ憎悪を爆発させることさえある。そのようなとき、期待を裏切られ自制心を失った男性のルサンチマン(復讐感情)は限度を知らず、女性に対して殴る蹴るといった生々しい直接的暴力をそのまま相手に対してぶちまける行為に出ることが実は少なくない。さらに暴力は方向を置き換えられ、たとえば他の女性(妻)や子どもたちに向け換えられることはよくある。特に多いのは家庭内暴力である。幼稚園児が履くような極端に短い薄汚れた乳臭い白色のソックスの場合などは要注意である。それは個人差はあるものの、性的欲望対象としての美に反しているからだ。なかでも「乳臭さ」は致命的といえる。性欲の発散を阻止された男性の暴力はとりわけ幼稚園児が履くような極端に短い薄汚れた乳臭い白色のソックス姿に向けられやすい。なぜなら、薄汚れた乳臭いイメージの漂うソックス姿は性欲をもてあましているときの男性の裡(うち)に、自分自身の幼少期の無力で未熟な姿を思い浮かべさせて自己嫌悪に陥れさせてしまうからというだけではない。自分に対する女性の服装を構成する諸要素の組み合わせという点で、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》ことをのっけから否応なく拒絶されたと感じるからである。そして暴力的憎悪と化した性的リビドーは内部に蓄積し、外部へ向けて放出できなかったぶん方向を転換して内向し、帰宅と同時に主に妻や子どもたちに向けて殴る蹴るの暴力や罵詈雑言となって爆発することが少なくない。
話を戻そう。バルトのいうように、「エロティックなのは《あいだ》でちらちらする」ということと、その《縁》(ふち)が問題にされるということである。そして多くは《縁》(ふち)に位置するものがフェチ商品化され流通する。
「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(バルト「テクストの快楽・P.18」みすず書房)
ただしバルトはエロティシズムについて述べているわけではない。そうではなく、エロティックとされる商品、たとえば、かつての「ストリップ」、今でいえば「アダルトDVD」に当たるだろうけれども、どれを取ってもなぜ形式化されているのか?と問うているのである。その「価値部分=内容」について、短縮しようとすればできる。観客は先を急がせる。企業であれば時短化可能だ。時短化して残った時間を別の労働へ振り分けてもっと酷使することもできる。もし仮にそうするとしてもしかし、あらかじめ《形式化された(ステレオタイプ化された)順序》に《したがって》、でしか許されないのはなぜなのかと問う。もっとほかの方法でアプローチしてはいけないのかと言いたがっているのである。文学作品の場合もそうだ。なぜ《別の仕方》で読んではいけないのか。そういうことを宙吊りにして攪乱するために書かれたアフォリズム集が「テクストの快楽」なのだ、と言える。逆にエロスかポルノかなどという議論は甚だしい誤解というべきだろう。
ところでしかし、この種のフェチ系列は一体どこまで行くだろうか。たとえば「下駄」はどうだろう。下駄を履いた女性の脚フェチは今のところ少ないとおもわれるが、もし他に何らの選択肢もなくなればおそらく必ずといっていいほど下駄フェチの増加傾向が見られることだろう。いっとき流行した「戦艦むすめ」のことを思い出せば容易にわかるとおもわれる。人間は何かをフェチ化するとき、同時にモンタージュ(奇妙な合成物)化するのだ。その瞬間、それはもはやただ単なる「物品」ではなくなるとともに「神聖なもの」への転化は済んでいる。
「それは敬意をもってきみに接し、いたわりを示さねばならぬことを人々に告げるためのものなのだ、だってきみは神聖な想い出をうちに秘めているのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
喪服は黒い。そして「黒」とのアナロジー(類似、類推)において「黒の腕章」「上衣の衿の黒い布切れ」「黒い徽章」等々の象徴的フェチ商品の系列が出現するが、それらはどれも「黒」とのアナロジー(類似、類推)においてただちに同一化された葬儀のための集団を形成する。死と暗黒とその象徴的フェチ商品の連結によって形成された葬儀参列者は、一つの集団として世間一般の埒外へ置かれることになる。そして葬儀参列者自身、一つの集団としていったん特権的な場に置かれることを承知している。なお葬儀の場面ではないが、プルーストの場合を参照しよう。少女たちが一つの集団となってファシズムを形成するシーン。この場面でアルベルチーヌは集団の中に溶け込んでしまっていて個別的には区別できない。「独自の一団」でしかなくなる。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
ところでジャンには兄がいる。ポーロ。残酷というか冷淡というか、フランス側にもドイツ側にも知り合いを持つだけでなく、どちらにも同じ話を持ちかけたりする根っからの裏切り者である。だからポーロはジュネの前で、生前の弟ジャンのことをあまり話さない。ジャンが生きていた頃もそうだった。ジャンの母がナチス党員を情夫にしていることも知っていたが、見た目だけでなく親族としても軽蔑して振る舞っているニヒリストのようにおもえる。自分のことは棚に上げている。というより家族とは鼻からこれといった関わりを持とうとしない。その冷淡さあるいは残酷さが、ジャンの死後、ジュネにはだんだん美しく映って見えてきた。ジュネの情動はジャンからポーロへ移動する。
「ジャンの死に直面しての私の悲嘆、それが一人の残酷な若者に変身するのだ。それがポーロだ」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
ジュネはポーロの身体について語る。肉体美にこだわる。その「肉体は真っ黒だった、或いは闇の緑色に染まっていた」と述べる。けれども読んでいると、そう書き刻み込むこと自体に快感を覚えているのでは、と思わせるような語り口ではある。
「詩人が彼のことを語るとき、その肉体は真っ黒だった、或いは闇の緑色に染まっていたと言いだしたところで驚くにはあたらない。ポーロの現身(うつせみ)は危険な液体の色をそなえていた。腕と脚の筋肉はのびのびと艶やかだった。この上なくしなやかな節々が想像された。このしなやかさ、筋肉ののびやかさ、色艶は、彼の邪険さのしるしだった。しるしという意味は、彼の邪険さとこれら目に見える特徴とのあいだに、関連があるということだ」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
ジュネ好みの肉体美の特徴を列挙するとともに、それら目に見える特徴と「邪険さ」とのあいだには「関連がある」という。この「関連」はここでもまたアナロジー(類似、類推)が活用されている。
さて、アルトー。「流れ」へと意志する。有機体の解体へと向かう。
「実在するためには自分を存在するがままにしておくだけでいい、しかし生きるには、誰かでなくてはならない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
というのは、「実在する」ことと「生きる」こととはまた違うからだ。ただ単に「実在する」だけならニーチェのいうようにつねに流動し生成変化する強度として全宇宙と共演するだけでよい。それは他の何ものにでも成り得る。可能性は無限に開かれている。次のように。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
ところが特定の「誰か」として「生きる」ということは、社会的なステレオタイプ(固定観念)として、あらかじめ設定された人間という鋳型(いがた)として、凝固し固定された生きものとしての身体を選択しなければならないということだ。しかし「肉」とは何か。「身体=地層」として有機体化されたありとあらゆるもののことだ。だからアルトーは「肉=地層」を「失うことを恐れてはならぬ」と警告する。「身体化=肉化」することはただちに領土化することだからだ。それは同時に、わざわざファシズムのための地層を自分の「身体=地層」から始めることであり準備することでもある。
「誰かであるためには、一つの『骨』をもたなくてはならぬ 骨をあらわにすること、同時に肉を失うことを恐れてはならぬ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
にもかかわらず。
「人間はいつも骨の大地よりも 肉の方を好んできた」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
というふうに、人間は「糞《への》意志」へ近づく。あえて肉を欲し肉を食べることはただちに「糞を欲する」ことと違わないからである。「糞」は地層化した身体のことだ。とすれば「糞」の「生産、蓄積、再生産」とはなんなのか。戦争機械のための地層を準備することだ。冒頭部分で「アメリカ」と「スターリンのロシア」とが例示されたのはただ単なる隠喩ではない。ドゥルーズとガタリはこういっている。
「器官なき身体は強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。器官なき身体はまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。器官なき身体は強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である《内包的空間》の中に強度を配分する。器官なき身体は空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の強度をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の大きさとして現実が生産される。それゆえ、われわれは器官なき身体を有機体の成長以前、器官の組織以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるのであり、《副次的形態》にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能するからだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.314」河出文庫)
ただ単に「糞」といってもそれはまた「貨幣」という名の身体を持っている。アルトーは「糞」という言葉で貨幣とその蓄積された資本をも攻撃する。フロイト参照。
「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)
しかしそれは、なぜ強迫神経症的に何度も繰り返し反復されるのか。
「反復すること自身、つまり同一性を再発見すること自身が、快感の源になっていることは明白である。他方、分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、《どんな場合にも》、快感原則の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、さらに二次過程の能力をある程度欠いていることを示すのである。この拘束されない一性質のために、昼の残滓に固執しながら、夢に現われる願望空想を形成する能力をもっているのである。おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人の漠とした不安は、眠ったままにしておくほうがよいものを目覚まさせるのをはばかるためであるが、それは畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。
しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか?ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーーー本能の特性、おそらくはすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、《本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう》。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的生命における惰性の表明であるとも言えよう」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.172』人文書院)
では資本が再生産するとは何のことか。再生産を繰り返し反復するとはどういうことか。それは慣習の自然法則化と暴力的強制とによってなされる。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
ところで「骨の大地」とはなんなのだろう。スピノザのいう或る種の「様態」であり、強度ゼロというに等しい。
「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫)
地層化あるいは領土化のカテゴリーには「貨幣」だけでなく、もちろん「言語」も入ってくる。そして言語もまた流通する諸力の運動として解体され再生産され生成変化していくかぎりで、「脱地層化=脱領土化」へ、無限の可能性へと開かれている。とはいえ、資本主義的公理系が調整器として次々に付加される以上、脱領土化と再領土化とは同時である。資本主義は一方で脱領土化するものを同時にもう一方で再領土化する。ところでこの器用な「資本主義的公理系《としての》調整器あるいは調整者」とは何か。
「資本主義《国家》は、資本の公理系の中で捉えられる限り、こうしたものとして、脱コード化した種々の流れの調整者である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)
が、抵抗しながら逃走する線として「放浪の線」というジュネ的アプローチもないではない。
「身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作の音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.319」河出文庫)
ジュネでいえば、とりわけ「泥棒日記」の叙述はそうだ。そしてアルトー自身、言語の必要性について完全に撲滅するわけではなく、一定の条件つきで留保あるいは一時的領土化を許している。
「無限とは何か われわれはそれをよく知らない!それは われわれの意識が 法外な、果てしない、法外な 可能性にむけて 《開かれる》のを 示すため われわれが使う 一つの言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.28」河出文庫)
「空間についても、可能性についても、私はそれが何だかよく知らなかった、それを考える必要も私は覚えなかった、それらは 一つの欲求の 切迫した必要に直面して 実在し あるいは実在しない 事物を定義するために発明された言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.32~33」河出文庫)
というふうに。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「世間の人間は、私をまったく知らない連中までも、私にたいして最大の敬意を払うべきだった、なぜなら私は自分のなかでジャンの喪に服していたのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
ジュネは「正式な喪服」だけでなく、むしろその象徴的なものとの区別を重点化する。「黒の腕章」「上衣の衿の黒い布切れ」「黒い徽章」等々、である。象徴化された様々な物品はすなわち「フェチ商品」の系列をなす。
「寡婦たちの正式な喪服は認めるが、それを徴(しる)し程度にちぢめたもの、黒の腕章や、上衣の衿の黒い布切れや、また労働者にみかける帽子の庇のすみっこの黒い徽章などは、これまで私の眼に滑稽に映ったものだ。とつぜん、私はその必要性に気づいたのである」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
象徴化された様々な物品はすなわち「フェチ商品」の系列をなす。どの商品も特権的でない等価的なフェチ商品の系列として生産されうる。ジュネはそれら種々のフェチの中に「神聖な想い出」を見る。
それはそうと、今の日本。昨今、女性のパンプス着用が問題とされてきた。なるほどハイヒールは以前ほどには見かけなくなった。パンプスも減った感じはする。だが今度はスニーカーが増えた。そしてスニーカーはどんな労働にも向いているのかもしれない。ところが主に「まなざし」によるセクハラは無くならないだろう。というのは、異性愛者の男性が女性に向ける性的リビドー備給は、今度はパンプスからスニーカーへ転移するにちがいないからである。フェチ商品の系列がどこまでも延々と延長可能なことと事情は同じである。フェチ商品に注ぎ込まれる性的リビドーの強度は目に見えない流動するエネルギーの諸運動であって、言い換えれば、ジュネが「神聖な想い出」という言語に込めている強度と一致する。
ちなみにいうと、たまたま家には車がないので、ときどき電車(JR、私鉄とも)を利用することがある。時間帯によるが、席を探そうと車内を見渡してみると、明らかにそわそわしている男性は複数いる。それは少なくとも制服姿の女性と同じ数だけいるだろう。制服というのは特定の制服だけを指すわけではなく、ずっと広い意味での制服をいう。たとえばファッション雑誌で紹介されただけでなく一定期間流行するような性質を獲得しステレオタイプ化した(社会的規模で何度も反復され凝固し固定観念化し形式化した)服装のすべてである。諸商品の系列でいえば「貨幣商品」としての社会的地位を勝ち取った特権的服装のことだ。通勤時はこれ、通学時はこれ、平日の普段着はこれ、休日のお出かけはこれ、というふうに。そのような意味でステレオタイプ化した服装に合わせたソックスのフェチ化が進行している。むしろすでに「ソックス-フェチ」は増加している、と言わねばならない。もっとも、主にスカート着用の場合、その服装全体を構成する諸要素の集合が、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》という条件つきではあるのだが。
したがってソックスとはいっても、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》ことがないようなソックスの場合、逆に男性の欲望は裏切られたと感じ憎悪を爆発させることさえある。そのようなとき、期待を裏切られ自制心を失った男性のルサンチマン(復讐感情)は限度を知らず、女性に対して殴る蹴るといった生々しい直接的暴力をそのまま相手に対してぶちまける行為に出ることが実は少なくない。さらに暴力は方向を置き換えられ、たとえば他の女性(妻)や子どもたちに向け換えられることはよくある。特に多いのは家庭内暴力である。幼稚園児が履くような極端に短い薄汚れた乳臭い白色のソックスの場合などは要注意である。それは個人差はあるものの、性的欲望対象としての美に反しているからだ。なかでも「乳臭さ」は致命的といえる。性欲の発散を阻止された男性の暴力はとりわけ幼稚園児が履くような極端に短い薄汚れた乳臭い白色のソックス姿に向けられやすい。なぜなら、薄汚れた乳臭いイメージの漂うソックス姿は性欲をもてあましているときの男性の裡(うち)に、自分自身の幼少期の無力で未熟な姿を思い浮かべさせて自己嫌悪に陥れさせてしまうからというだけではない。自分に対する女性の服装を構成する諸要素の組み合わせという点で、女性の身体の上において陰影深く光り輝く結晶体として《出会う》ことをのっけから否応なく拒絶されたと感じるからである。そして暴力的憎悪と化した性的リビドーは内部に蓄積し、外部へ向けて放出できなかったぶん方向を転換して内向し、帰宅と同時に主に妻や子どもたちに向けて殴る蹴るの暴力や罵詈雑言となって爆発することが少なくない。
話を戻そう。バルトのいうように、「エロティックなのは《あいだ》でちらちらする」ということと、その《縁》(ふち)が問題にされるということである。そして多くは《縁》(ふち)に位置するものがフェチ商品化され流通する。
「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(バルト「テクストの快楽・P.18」みすず書房)
ただしバルトはエロティシズムについて述べているわけではない。そうではなく、エロティックとされる商品、たとえば、かつての「ストリップ」、今でいえば「アダルトDVD」に当たるだろうけれども、どれを取ってもなぜ形式化されているのか?と問うているのである。その「価値部分=内容」について、短縮しようとすればできる。観客は先を急がせる。企業であれば時短化可能だ。時短化して残った時間を別の労働へ振り分けてもっと酷使することもできる。もし仮にそうするとしてもしかし、あらかじめ《形式化された(ステレオタイプ化された)順序》に《したがって》、でしか許されないのはなぜなのかと問う。もっとほかの方法でアプローチしてはいけないのかと言いたがっているのである。文学作品の場合もそうだ。なぜ《別の仕方》で読んではいけないのか。そういうことを宙吊りにして攪乱するために書かれたアフォリズム集が「テクストの快楽」なのだ、と言える。逆にエロスかポルノかなどという議論は甚だしい誤解というべきだろう。
ところでしかし、この種のフェチ系列は一体どこまで行くだろうか。たとえば「下駄」はどうだろう。下駄を履いた女性の脚フェチは今のところ少ないとおもわれるが、もし他に何らの選択肢もなくなればおそらく必ずといっていいほど下駄フェチの増加傾向が見られることだろう。いっとき流行した「戦艦むすめ」のことを思い出せば容易にわかるとおもわれる。人間は何かをフェチ化するとき、同時にモンタージュ(奇妙な合成物)化するのだ。その瞬間、それはもはやただ単なる「物品」ではなくなるとともに「神聖なもの」への転化は済んでいる。
「それは敬意をもってきみに接し、いたわりを示さねばならぬことを人々に告げるためのものなのだ、だってきみは神聖な想い出をうちに秘めているのだから」(ジュネ「葬儀・P.46」河出文庫)
喪服は黒い。そして「黒」とのアナロジー(類似、類推)において「黒の腕章」「上衣の衿の黒い布切れ」「黒い徽章」等々の象徴的フェチ商品の系列が出現するが、それらはどれも「黒」とのアナロジー(類似、類推)においてただちに同一化された葬儀のための集団を形成する。死と暗黒とその象徴的フェチ商品の連結によって形成された葬儀参列者は、一つの集団として世間一般の埒外へ置かれることになる。そして葬儀参列者自身、一つの集団としていったん特権的な場に置かれることを承知している。なお葬儀の場面ではないが、プルーストの場合を参照しよう。少女たちが一つの集団となってファシズムを形成するシーン。この場面でアルベルチーヌは集団の中に溶け込んでしまっていて個別的には区別できない。「独自の一団」でしかなくなる。
「いまは彼女らを個性で区別できるようになったとはいえ、仲間意識と自負心とに気負いたった彼女らのまなざしが、友達の一人に向けられるか通行人に向けられるかによって、あるときは内輪への関心を、あるときは外部への横柄な無頓着を、ちらちらとほのめかしながら、たがいに相手のまなざしと答えあっているその意気投合、また『独自の一団』をつくっていつもいっしょに散歩するほど緊密にむすばれあっているというその意識、それらが、彼女らの個々に離れて独立している肉体間に、その肉体が寄りあってゆっくり進んでゆくとき、おなじ一つのあたたかい影、おなじ一つの大気のように、目に見わけられないが調和ある一つのつながりのようなものを設定し、そのつながりは、彼女らの肉体を部分的に等質な一つの全体にまとめあげると同時に、その等質な全体を、彼女らの肉体の行列がゆっくりとつらなってゆく群衆からはっきりと区別していた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.179」ちくま文庫)
ところでジャンには兄がいる。ポーロ。残酷というか冷淡というか、フランス側にもドイツ側にも知り合いを持つだけでなく、どちらにも同じ話を持ちかけたりする根っからの裏切り者である。だからポーロはジュネの前で、生前の弟ジャンのことをあまり話さない。ジャンが生きていた頃もそうだった。ジャンの母がナチス党員を情夫にしていることも知っていたが、見た目だけでなく親族としても軽蔑して振る舞っているニヒリストのようにおもえる。自分のことは棚に上げている。というより家族とは鼻からこれといった関わりを持とうとしない。その冷淡さあるいは残酷さが、ジャンの死後、ジュネにはだんだん美しく映って見えてきた。ジュネの情動はジャンからポーロへ移動する。
「ジャンの死に直面しての私の悲嘆、それが一人の残酷な若者に変身するのだ。それがポーロだ」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
ジュネはポーロの身体について語る。肉体美にこだわる。その「肉体は真っ黒だった、或いは闇の緑色に染まっていた」と述べる。けれども読んでいると、そう書き刻み込むこと自体に快感を覚えているのでは、と思わせるような語り口ではある。
「詩人が彼のことを語るとき、その肉体は真っ黒だった、或いは闇の緑色に染まっていたと言いだしたところで驚くにはあたらない。ポーロの現身(うつせみ)は危険な液体の色をそなえていた。腕と脚の筋肉はのびのびと艶やかだった。この上なくしなやかな節々が想像された。このしなやかさ、筋肉ののびやかさ、色艶は、彼の邪険さのしるしだった。しるしという意味は、彼の邪険さとこれら目に見える特徴とのあいだに、関連があるということだ」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
ジュネ好みの肉体美の特徴を列挙するとともに、それら目に見える特徴と「邪険さ」とのあいだには「関連がある」という。この「関連」はここでもまたアナロジー(類似、類推)が活用されている。
さて、アルトー。「流れ」へと意志する。有機体の解体へと向かう。
「実在するためには自分を存在するがままにしておくだけでいい、しかし生きるには、誰かでなくてはならない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
というのは、「実在する」ことと「生きる」こととはまた違うからだ。ただ単に「実在する」だけならニーチェのいうようにつねに流動し生成変化する強度として全宇宙と共演するだけでよい。それは他の何ものにでも成り得る。可能性は無限に開かれている。次のように。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
ところが特定の「誰か」として「生きる」ということは、社会的なステレオタイプ(固定観念)として、あらかじめ設定された人間という鋳型(いがた)として、凝固し固定された生きものとしての身体を選択しなければならないということだ。しかし「肉」とは何か。「身体=地層」として有機体化されたありとあらゆるもののことだ。だからアルトーは「肉=地層」を「失うことを恐れてはならぬ」と警告する。「身体化=肉化」することはただちに領土化することだからだ。それは同時に、わざわざファシズムのための地層を自分の「身体=地層」から始めることであり準備することでもある。
「誰かであるためには、一つの『骨』をもたなくてはならぬ 骨をあらわにすること、同時に肉を失うことを恐れてはならぬ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
にもかかわらず。
「人間はいつも骨の大地よりも 肉の方を好んできた」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
というふうに、人間は「糞《への》意志」へ近づく。あえて肉を欲し肉を食べることはただちに「糞を欲する」ことと違わないからである。「糞」は地層化した身体のことだ。とすれば「糞」の「生産、蓄積、再生産」とはなんなのか。戦争機械のための地層を準備することだ。冒頭部分で「アメリカ」と「スターリンのロシア」とが例示されたのはただ単なる隠喩ではない。ドゥルーズとガタリはこういっている。
「器官なき身体は強度にしか占有されないし、群生されることもないように出来ている。強度だけが流通し循環するのだ。器官なき身体はまだ舞台でも場所でもなく、何かが起きるための支えでもない。幻想とは何の関係もなく、何も解釈すべきものはない。器官なき身体は強度を流通させ生産し、それ自身、強度であり非延長である《内包的空間》の中に強度を配分する。器官なき身体は空間ではなく、空間の中に存在するものでもなく、一定の強度をもって空間を占める物質なのだ。この度合は、産み出された強度に対応する。それは強力な、形をもたない、地層化されることのない物質、強度の母体、ゼロに等しい強度であり、しかもこのゼロに少しも否定的なものは含まれていない。否定的な強度、相反する強度など存在しないのだ。物質はエネルギーに等しい。ゼロから出発する強度の大きさとして現実が生産される。それゆえ、われわれは器官なき身体を有機体の成長以前、器官の組織以前、また地層の形成以前の充実した卵、強度の卵として扱う。この卵は軸とベクトル、勾配と閾、エネルギーの変化にともなう力学的な傾向、グループの移動にともなう運動学的な動き、移行などによって決定されるのであり、《副次的形態》にはまったく依存しない。器官はこのとき純粋な強度としてのみ現われ、機能するからだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.314」河出文庫)
ただ単に「糞」といってもそれはまた「貨幣」という名の身体を持っている。アルトーは「糞」という言葉で貨幣とその蓄積された資本をも攻撃する。フロイト参照。
「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)
しかしそれは、なぜ強迫神経症的に何度も繰り返し反復されるのか。
「反復すること自身、つまり同一性を再発見すること自身が、快感の源になっていることは明白である。他方、分析される者にとっては、その幼児期の出来事を転移の中で反復する強迫が、《どんな場合にも》、快感原則の埒外に出ることは明らかである。患者はそのさい完全に幼児のようにふるまい、その原始期の体験の抑圧された記憶痕跡が、拘束された状態で存在しないこと、さらに二次過程の能力をある程度欠いていることを示すのである。この拘束されない一性質のために、昼の残滓に固執しながら、夢に現われる願望空想を形成する能力をもっているのである。おなじ反復強迫が、治療の終りに完全に医師からはなれようとするとき、実にしばしば治療上の障害として現われるのである。分析に慣れていない人の漠とした不安は、眠ったままにしておくほうがよいものを目覚まさせるのをはばかるためであるが、それは畢竟このデモーニッシュな強迫の登場をおそれるからであると推測される。
しかし、本能的なものは、反復への強迫とどのように関係しているのであろうか?ここでわれわれは、ある一般的な、従来明らかに認識されなかったーーーあるいは少なくとも明確には強調されなかったーーー本能の特性、おそらくはすべての有機的生命一般の特性について、手がかりをつかんだという思いが浮かぶのを禁じえない。要するに、《本能とは生命ある有機体に内在する衝迫であって、以前のある状態を回復しようとするものであろう》。以前の状態とは、生物が外的な妨害力の影響のもとで、放棄せざるをえなかったものである。また本能とは、一種の有機的な弾性であり、あるいは有機的生命における惰性の表明であるとも言えよう」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.172』人文書院)
では資本が再生産するとは何のことか。再生産を繰り返し反復するとはどういうことか。それは慣習の自然法則化と暴力的強制とによってなされる。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
ところで「骨の大地」とはなんなのだろう。スピノザのいう或る種の「様態」であり、強度ゼロというに等しい。
「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫)
地層化あるいは領土化のカテゴリーには「貨幣」だけでなく、もちろん「言語」も入ってくる。そして言語もまた流通する諸力の運動として解体され再生産され生成変化していくかぎりで、「脱地層化=脱領土化」へ、無限の可能性へと開かれている。とはいえ、資本主義的公理系が調整器として次々に付加される以上、脱領土化と再領土化とは同時である。資本主義は一方で脱領土化するものを同時にもう一方で再領土化する。ところでこの器用な「資本主義的公理系《としての》調整器あるいは調整者」とは何か。
「資本主義《国家》は、資本の公理系の中で捉えられる限り、こうしたものとして、脱コード化した種々の流れの調整者である」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.302」河出書房新社)
が、抵抗しながら逃走する線として「放浪の線」というジュネ的アプローチもないではない。
「身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作の音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.319」河出文庫)
ジュネでいえば、とりわけ「泥棒日記」の叙述はそうだ。そしてアルトー自身、言語の必要性について完全に撲滅するわけではなく、一定の条件つきで留保あるいは一時的領土化を許している。
「無限とは何か われわれはそれをよく知らない!それは われわれの意識が 法外な、果てしない、法外な 可能性にむけて 《開かれる》のを 示すため われわれが使う 一つの言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.28」河出文庫)
「空間についても、可能性についても、私はそれが何だかよく知らなかった、それを考える必要も私は覚えなかった、それらは 一つの欲求の 切迫した必要に直面して 実在し あるいは実在しない 事物を定義するために発明された言葉である」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.32~33」河出文庫)
というふうに。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM