ジュネの「有罪性」あるいは「独異性」。それは生まれてきたときすでに備わっていたはずだ、とジュネはいう。
「もちろん、有罪者は、そしてそうであることを誇りとする者は、彼の独異性を社会に負うているのではあろう。しかし彼はその前にすでにこの彼の独異性を備えていたはずである、社会がそれを認め、そしてそれを罪となしたためには」(ジュネ「泥棒日記・P.358」新潮文庫)
有罪性あるいは独異性。それは「社会」によって「認め」られ、さらに「罪」とされた瞬間、発生する。罪の発生と社会によるその承認とはいつも同時なのだ。社会を統合する国家が問題とされねばならない。国家の発生についてはニーチェを引いて前にも述べた。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
孤児であり、盗みに手を染め出しており、すでに泥棒となりつつある時期。ジュネは国家に不利益を与える「犯罪者」として承認される。そして犯罪者はまず何より国家に対する「破壊者」として裁かれることになる。
「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)
反復される刑罰。その意味の不確定性ゆえに生じる刑罰の多様な活用方法。
「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)
しかし、刑罰を与えるため、刑罰を量的に計算できるものにするためには、或る種の手続きが必要不可欠だった。人間はどの人間であっても同等の人間であり、同等である以上、算定できるものとして承認されていなければならないという前提である。形式的な面だけを見ると特に国家には抜かりがない。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
そして債権者と債務者というほとんど「宥和(ゆうわ)しえない」関係に基づいて刑罰という慣習が発達した。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)
ジュネもまた「宥和(ゆうわ)しえない敵として」、「有罪と断じ」られ、「罰」された。
「わたしは社会に対抗したいと願ったが、しかしその前にすでに社会はわたしを有罪と断じ、そして泥棒であるということそれ自身よりも、その孤独な精神を恐れたところの宥和(ゆうわ)しえない敵としてわたしを罰した」(ジュネ「泥棒日記・P.358」新潮文庫)
そして罰は何度も繰り返し反復された。執拗な反復は何をもたらしただろうか。ジュネは仲間たちの姿を次のようなおもいで描き出す。
「彼らはどんなときでも哀れな卑下の姿勢でいるのだ⦅しかし、もし打(ぶ)たれれば、彼らの裡(うち)で何かしら、ぐっと固く起(た)つものがあるはずだ、ーーーそしてまさしく、彼らの裡に住む卑怯(ひきょう)者、狡猾(こうかつ)な者が、卑怯さ、狡猾さがーーーその最も堅固な最も純粋な状態に保たれているこれらのものがーーー軟(やわ)らかい鉄が淬(トランプ)によって硬(かた)くなるように、連打(トランプ)によって固く確立されるのである⦆。彼らはあくまで卑屈であろうとする。が、それが何だろう。その奇形な者も不細工なものも決して粗略にすることなく、わたしの愛は最も美しい犯罪者たちを装い飾るのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.9」新潮文庫)
彼ら彼女らは何度も繰り返し連打されることで、逆に「卑怯さ」として、「狡猾さ」として、鍛え上げられた強固な「鉄」に《なる》。ニーチェはいっている。
「概して刑罰の結果として齎(もた)らされるものは、人間においても動物においても、恐怖心の増大であり、思慮の綿密化であり、欲望の制御である。してみれば、刑罰は人間を《手なずけ》はしても、人間を『より善く』はしない、ーーーまだしもその反対のことを主張する方が一層正しいと言えるかもしれない(『損をすれば悧巧になる』と世間では言う。損害は悧巧にするだけ劣悪にもする。幸いにして愚鈍にする場合も少なくない)」(ニーチェ「道徳の系譜・P.97」岩波文庫)
この悪循環。ジュネは罰の塊になっていく。汚辱が、恥部が、良心の疚(やましさ)しさが、終わりなき罪責感が、繰り返し反復される刑罰が、ジュネのいう「垢まみれのぼろぼろの服」をまとって昼間からうろうろしているようなものだ。しかしそれはまさしくジュネを生んだ「その社会」から生まれ落ちた汚辱そのものにほかならないということができる。
「ところでその場合、社会は、それ自身の裡(うち)にこの独異なるものを内臓していたのだ、ーーーこの、やがてそれに敵対して闘うであろうところのもの、社会にとってその体内にある刃(やいば)、呵責(かしゃく)の種ーーー不安の種ーーーであり、社会自身があえて流す勇気のない血がそこから流れ出る一つの傷口となるであろうところの、この独異なるものを」(ジュネ「泥棒日記・P.358~359」新潮文庫)
なぜだろう。なぜ「社会は、それ自身の裡(うち)にこの独異なるものを内臓していた」し、今なお「内臓して」いるのか。そしてまた「この独異なるもの」は「社会自身があえて流す勇気のない血がそこから流れ出る一つの傷口となる」のだろうか。ニーチェはいう。「悪質な誹謗をうけた者は、自ら慰めてこう言うがよい、誹謗はおれの体(からだ)に吹き出した他人の病気だ。それは、社会が《一個の》(道徳的な)身体(からだ)であること、したがっておれは《他人》のために役立つべき治療を《自分の》体ではじめることができることを証明するものだ」と。
「《誹謗》。ーーー真に下劣な中傷の出どころをつかまえるときは、その火元を、決して自分の正直で単純な《敵》に求めてはいけない。なぜなら、こういう敵は、もし彼らがわれわれについてそのような中傷をでっち上げるのであれば、彼らはもともとが敵である以上、それをひとに信用してはもらえないだろうからである。けれども、かつてわれわれがしばらくのあいだ最も多く役立ってやったことのある連中、しかし何らかの理由からもはや何ひとつわれわれに期待するものはないとひそかに確信している連中、ーーーこの連中は、ああいう下劣な中傷をふきまくことができる。なぜなら、ひとつには、世間は、彼らが彼ら自身に損になるようなことは何ひとつでっちあげるはずはなかろうと考えるが故に、彼らの言うところは信用されるからである。ーーーそれほど悪質な誹謗をうけた者は、自ら慰めてこう言うがよい、誹謗はおれの体(からだ)に吹き出した他人の病気だ。それは、社会が《一個の》(道徳的な)身体(からだ)であること、したがっておれは《他人》のために役立つべき治療を《自分の》体ではじめることができることを証明するものだ、と」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二六四・P.454」ちくま学芸文庫)
社会を一個の有機体として考えれば、なるほど社会の側が犯罪者を見る目は、社会自身の恥部を見る目と一致する。ゆえに社会はますます社会から生まれた「孤独な生」に対して愚劣な裁きを与えないではいられなくなるのだ。ところが、ジュネは始めから犯罪者として生まれてきたわけではない。孤児として生まれた。ジュネのいうように世間はジュネに対して「泥棒であるということそれ自身よりも、その孤独な精神を恐れた」とある。その時点ですでに社会の中には孤児に対する恐れの感情があったことを物語っている。なぜ恐れなければならなかったのか。孤児は社会から忌み嫌われ排除される対象であり、あらかじめ蔑視対象としての烙印を押されていたからである。どこへ行っても避けられない蔑視と差別的対応。「孤独な生」は怪物へと加速する。その過程はジュネの固有性獲得への過程でもある。
さて、クレルとセブロン中尉との関係は奇妙な展開を見せる。
「艦内で、クレルは相変らず士官のための用事をしていたが、そんな勤めに堪えているクレルを、どうやら士官は軽蔑しているらしかった。若者に襲われたことを理由にして、少尉は自分の内部に冒険の芽が育ちはじめたと感じるほど、得意な気持になっていた。内心の手帖から、作者はここに次なる文章を抜いて掲げる。
『あの若いすばらしいならず者に、わたしは負けていなかった。わたしは抵抗した。殺されてもよいと思った』」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.367」河出文庫)
クレル優位だった二人の関係はだんだん転倒し始める。セブロン優位に逆転し始める。ジルの急襲に耐えることができた経験がセブロンの意識を高揚させることに貢献したのだ。ところでジュネはこう述べる。
「陸軍および海軍は、自分自身の力で冒険の生活を送ることのできない者に、出来合いの冒険を提供してくれる」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.368」河出文庫)
なるほど「出来合い」のものではあるにせよ、確かに軍隊は「冒険を提供」する。ニーチェはそれを、良心の呵責をともなわぬ「自殺への迂路(うろ)である」と述べる。
「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫)
しかしなぜ「自殺への迂路(うろ)」なのか。なぜそれほどまでに死が、「自殺/他殺」が、目指されているのか。死の本能についてフロイトから。
「あらゆる有機的な本能は保守的で、歴史的に獲得されたものであり、退行、つまり以前の状態の復活に向けられているものとすれば、われわれは有機体の発展の成果を、外部から妨害し、偏向させる影響のせいにしなければならない。原始的生物は、そもそもの発端から変化することを欲しなかったであろうし、常に変わることのない事情のもとで、たえず同一の生活経路しか反復しなかったことであろう。究極のところ、有機体の発展に刻印をきざみつけたものは、われわれの地球と、その太陽にたいする関係の発展史にほかなるまい。保守的な有機的本能は、この押しつけられた生活経路の変化をことごとく受けいれ、反復のために保存しているのである。そのため、実はただ、ふるい目標を、新旧の二つながらの方法で追っているのに、何か変化と進歩を求める諸力があるかのような誤った印象を作り出しているのにちがいない。この、あらゆる有機体の努力の究極目標もまた、明らかにすることができよう。もし、生命の目標が未だかつて到達されたことがない状態であるならば、それは衝動の保守的な性質に矛盾するであろうから、むしろそれは、生物が、かつて棄て去った状態であり、しかも発展のあらゆる迂路を経てそれに復帰しようと努める古い出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.173~174』人文書院)
セブロンは自分を襲った犯人としてジルの顔を見せられたとき、そうではない、と嘘をついた。セブロンは海軍の中尉として、その社会的地位から考えて寛大さを見せねばならないと考えた。ということもあるし、また他方では全然ちがうことを考えていたということもある。結果的に言葉を濁して否認した。しかし危うくおかしな言葉を用いてしまったことに後で気づいている。
「もしもわたしが彼と鞄の奪い合いをしたのだったら、わたしはどんなに幸福を感じたことだろう!要するに、それはわたしの勇気を示す機会だったのだから。わたしは彼を告発していたろうか?おかしな質問だ。それは結局、わたし自身のなかに誰がいるかを明らかにするようなものではないか?警官の調査とわたしの逆上ぶりを思い出してみよう。わたしはもう少しでクレルを引渡してしまうところだった。わたしの態度、わたしの返答によって、警官は、わたしがクレルを問題にしていることを読み取りはしなかったろうか」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369」河出文庫)
さかのぼってみよう。警察はセブロン中尉の「声が《彼の顔》という言葉とともに変質するのを耳にし」ている。
「警部について言えば、士官の声が《彼の顔》という言葉とともに変質するのを耳にした」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.299」河出文庫)
このときの「《彼の顔》」の、「彼」とは誰か。ジルの顔について、霧が深くてよく見えなかったというふうに述べたその後、「《彼の顔》」はすぐそばにあったし霧はそんなに深くなかったという矛盾した発言をしている。セブロンは内心とても慌てた。セブロンは自分に襲いかかってきた暴漢ジルの前で、ジルのことなどどうでもよく、むしろクレルのことが頭の中から離れなかった。セブロンの妄想は果てしなく天翔る。
「わたしは警官が嫌いである。それなのに、わたしは危うく刑事(でか)の真似をしてしまうところだった。夢のなか以外で、クレルをヴィックの殺人犯などと考えるのは狂気の沙汰だろう。わたしとしては、彼がそうであってくれればよいがと思っているけれども、それはわたしの夢想のなかに、一個の愛の惨劇を組み立てることが可能になるからなのだ。クレルにわたしの忠誠を捧げんがためなのだ!」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369」河出文庫)
暴漢がまだ右も左もわからない少年ジルなどではなく、船底の石炭置場で働く肉体美をこれ見よがしに見せつける美青年クレルであったなら。セブロンは自分が中尉という階級であることを忘れることはない。むしろ、まぎれもない中尉が単なる水兵クレルを屈辱的な姿勢で犯し抜くこと。そしてこれまでセブロンが感じてきたクレルからの軽蔑の眼差しを見返し見下ろし下僕化すること。そういうストーリーを組み立てたくて仕方がなくなる。それは卑劣な行為だろうか。というより卑劣さにおいてもクレルを凌駕することは極めて重要なプロセスをなす。これまでセブロンは卑劣にも自室の掃除を命じるという口実を利用してクレルを呼び出し、掃除のためにわざわざ自分の肉体美の驕りをこれ以上ないというほどセブロンの面前で見せつけ誘惑のかぎりを尽くしてきたクレルの卑劣さに、あまりにも悩ましい想いを掻き立てられてきた。もうこれ以上、卑劣さにおいてクレル以下に堕落するなど想像すらできない。いつでも必ずクレル以上に卑劣な中尉であるためにセブロンはよりいっそう注意深く自分で自分自身の卑劣さの活用法をきめ細かく律していかねばなるまい。しかし「力《への》意志」においてセブロンの権威をよりいっそう確かなものにするには、どうしてもクレルが殺人犯でなくてはならないという必要性が出てくる。セブロンの持つ圧倒的脅威によって殺人犯クレルを自分以下の存在へと転倒させなければならない。クレルがセブロンを誘惑するのでなく、セブロンが常にクレルを誘惑するのでなくてはならない。そしてそれは憎悪や復讐といったどこにでもごろごろ転がっているようなありふれた感情によって実現されるわけにはいかない。ひたすらクレルへ向けられておりセブロンの愛によってのみ成就された眩(まばゆ)いばかりの実践的転倒でなければ意味がない。
「後悔も、苦悩も、脈打つ顳顬(こめかみ)も、汗に濡れた髪の毛も、もはや何の助けにもならず、罪の意識に追い立てられて、彼がわたしに秘密を告白しにくるようなことがあったら!わたしが彼の懺悔聴聞僧になって、彼の罪を許してやることができたら!胸に抱いて彼を慰め、最後に徒刑場まで彼を送ってやることができたら!わたしがもっと自信をもって、彼が殺人犯だということを信じ、彼を告発し、それによってただちに彼を慰める幸福、彼の刑罰を共にする幸福を自分のものにすることができたら!」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369~370」河出文庫)
そのためにも、警察署に呼び出されたとき、思いがけず口走ってしまった「《彼の顔》」というひとことは、ともすればセブロンにとって致命傷になっていたかもしれない。
「考えてみれば、クレルはそれに気がつくことなく、おそろしい危険の瀬戸際にいたわけだ。わたしはもう少しでクレルを刑事(でか)どもに引渡してしまうところだった!」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369~370」河出文庫)
しかしセブロン中尉は艦船の士官としての義務がある。いっときの寄港地であるブレストを離れるときがそろそろ近づいていた。クレルも一緒だ。ブレストを出てバルティック海から白海まで巡航する予定らしい。ところが艦船の出航は、クレルの瓜二つの兄弟ロベールや警察官マリオ、さらにはロジェやジルとの別れのときが迫っていることを明確に示してもいた。そしてそのことは同時に、淫売屋《ラ・フェリア》の女将リジアーヌにとって男性同性愛者とはどのような人間たちであるのかを教示する、またとない機会にもなるのだ。
BGM
「もちろん、有罪者は、そしてそうであることを誇りとする者は、彼の独異性を社会に負うているのではあろう。しかし彼はその前にすでにこの彼の独異性を備えていたはずである、社会がそれを認め、そしてそれを罪となしたためには」(ジュネ「泥棒日記・P.358」新潮文庫)
有罪性あるいは独異性。それは「社会」によって「認め」られ、さらに「罪」とされた瞬間、発生する。罪の発生と社会によるその承認とはいつも同時なのだ。社会を統合する国家が問題とされねばならない。国家の発生についてはニーチェを引いて前にも述べた。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・P.101~102」岩波文庫)
孤児であり、盗みに手を染め出しており、すでに泥棒となりつつある時期。ジュネは国家に不利益を与える「犯罪者」として承認される。そして犯罪者はまず何より国家に対する「破壊者」として裁かれることになる。
「犯罪者は何よりもまず『破壊者』であり、これまで関与してきた共同生活のあらゆる財産や快適に関して言えば、《全体に対する》契約や言質の破棄者である。犯罪者は、単に自己のあらかじめ受け取った便益や前借を返済しないばかりか、債権者に喰ってかかりさえもする債務者である。それゆえに彼は、その後は当然これらの財産や便益をことごとく喪失するのみならずーーーむしろ今や《それらの財産がいかに重要なものであったか》を思い知らされる。被害者たる債権者、すなわち共同体の怒りは、犯罪者を再び法の保護外の野蛮な追放の状態へ突き戻し、そういう状態からの従来の保護を解く。つまり共同体は犯罪者を除斥するーーーそして今やあらゆる種類の敵意は彼の上に注がれてよいことになる。『刑罰』はこの開花段階においては、あの憎悪され保護を解かれ抑圧された敵、一切の権利と保護のみでなく、一切の恩恵をも喪失した敵に対する正常な関係の単なる模写であり、《真似事》であるにすぎない。従ってそこにあるのは、あらゆる無慈悲と残忍とに充ちた《征服せられたる者は禍なるかな!》の軍律と祝勝のみだ。ーーーこのことからして、刑罰が歴史上に現われた際に取ったあらゆる《形式》が戦争そのもの(戦争の犠牲祭をも含めて)によって与えられたものであることが明らかになる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.81~82」岩波文庫)
反復される刑罰。その意味の不確定性ゆえに生じる刑罰の多様な活用方法。
「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)
しかし、刑罰を与えるため、刑罰を量的に計算できるものにするためには、或る種の手続きが必要不可欠だった。人間はどの人間であっても同等の人間であり、同等である以上、算定できるものとして承認されていなければならないという前提である。形式的な面だけを見ると特に国家には抜かりがない。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
そして債権者と債務者というほとんど「宥和(ゆうわ)しえない」関係に基づいて刑罰という慣習が発達した。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・P.70」岩波文庫)
ジュネもまた「宥和(ゆうわ)しえない敵として」、「有罪と断じ」られ、「罰」された。
「わたしは社会に対抗したいと願ったが、しかしその前にすでに社会はわたしを有罪と断じ、そして泥棒であるということそれ自身よりも、その孤独な精神を恐れたところの宥和(ゆうわ)しえない敵としてわたしを罰した」(ジュネ「泥棒日記・P.358」新潮文庫)
そして罰は何度も繰り返し反復された。執拗な反復は何をもたらしただろうか。ジュネは仲間たちの姿を次のようなおもいで描き出す。
「彼らはどんなときでも哀れな卑下の姿勢でいるのだ⦅しかし、もし打(ぶ)たれれば、彼らの裡(うち)で何かしら、ぐっと固く起(た)つものがあるはずだ、ーーーそしてまさしく、彼らの裡に住む卑怯(ひきょう)者、狡猾(こうかつ)な者が、卑怯さ、狡猾さがーーーその最も堅固な最も純粋な状態に保たれているこれらのものがーーー軟(やわ)らかい鉄が淬(トランプ)によって硬(かた)くなるように、連打(トランプ)によって固く確立されるのである⦆。彼らはあくまで卑屈であろうとする。が、それが何だろう。その奇形な者も不細工なものも決して粗略にすることなく、わたしの愛は最も美しい犯罪者たちを装い飾るのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.9」新潮文庫)
彼ら彼女らは何度も繰り返し連打されることで、逆に「卑怯さ」として、「狡猾さ」として、鍛え上げられた強固な「鉄」に《なる》。ニーチェはいっている。
「概して刑罰の結果として齎(もた)らされるものは、人間においても動物においても、恐怖心の増大であり、思慮の綿密化であり、欲望の制御である。してみれば、刑罰は人間を《手なずけ》はしても、人間を『より善く』はしない、ーーーまだしもその反対のことを主張する方が一層正しいと言えるかもしれない(『損をすれば悧巧になる』と世間では言う。損害は悧巧にするだけ劣悪にもする。幸いにして愚鈍にする場合も少なくない)」(ニーチェ「道徳の系譜・P.97」岩波文庫)
この悪循環。ジュネは罰の塊になっていく。汚辱が、恥部が、良心の疚(やましさ)しさが、終わりなき罪責感が、繰り返し反復される刑罰が、ジュネのいう「垢まみれのぼろぼろの服」をまとって昼間からうろうろしているようなものだ。しかしそれはまさしくジュネを生んだ「その社会」から生まれ落ちた汚辱そのものにほかならないということができる。
「ところでその場合、社会は、それ自身の裡(うち)にこの独異なるものを内臓していたのだ、ーーーこの、やがてそれに敵対して闘うであろうところのもの、社会にとってその体内にある刃(やいば)、呵責(かしゃく)の種ーーー不安の種ーーーであり、社会自身があえて流す勇気のない血がそこから流れ出る一つの傷口となるであろうところの、この独異なるものを」(ジュネ「泥棒日記・P.358~359」新潮文庫)
なぜだろう。なぜ「社会は、それ自身の裡(うち)にこの独異なるものを内臓していた」し、今なお「内臓して」いるのか。そしてまた「この独異なるもの」は「社会自身があえて流す勇気のない血がそこから流れ出る一つの傷口となる」のだろうか。ニーチェはいう。「悪質な誹謗をうけた者は、自ら慰めてこう言うがよい、誹謗はおれの体(からだ)に吹き出した他人の病気だ。それは、社会が《一個の》(道徳的な)身体(からだ)であること、したがっておれは《他人》のために役立つべき治療を《自分の》体ではじめることができることを証明するものだ」と。
「《誹謗》。ーーー真に下劣な中傷の出どころをつかまえるときは、その火元を、決して自分の正直で単純な《敵》に求めてはいけない。なぜなら、こういう敵は、もし彼らがわれわれについてそのような中傷をでっち上げるのであれば、彼らはもともとが敵である以上、それをひとに信用してはもらえないだろうからである。けれども、かつてわれわれがしばらくのあいだ最も多く役立ってやったことのある連中、しかし何らかの理由からもはや何ひとつわれわれに期待するものはないとひそかに確信している連中、ーーーこの連中は、ああいう下劣な中傷をふきまくことができる。なぜなら、ひとつには、世間は、彼らが彼ら自身に損になるようなことは何ひとつでっちあげるはずはなかろうと考えるが故に、彼らの言うところは信用されるからである。ーーーそれほど悪質な誹謗をうけた者は、自ら慰めてこう言うがよい、誹謗はおれの体(からだ)に吹き出した他人の病気だ。それは、社会が《一個の》(道徳的な)身体(からだ)であること、したがっておれは《他人》のために役立つべき治療を《自分の》体ではじめることができることを証明するものだ、と」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・二六四・P.454」ちくま学芸文庫)
社会を一個の有機体として考えれば、なるほど社会の側が犯罪者を見る目は、社会自身の恥部を見る目と一致する。ゆえに社会はますます社会から生まれた「孤独な生」に対して愚劣な裁きを与えないではいられなくなるのだ。ところが、ジュネは始めから犯罪者として生まれてきたわけではない。孤児として生まれた。ジュネのいうように世間はジュネに対して「泥棒であるということそれ自身よりも、その孤独な精神を恐れた」とある。その時点ですでに社会の中には孤児に対する恐れの感情があったことを物語っている。なぜ恐れなければならなかったのか。孤児は社会から忌み嫌われ排除される対象であり、あらかじめ蔑視対象としての烙印を押されていたからである。どこへ行っても避けられない蔑視と差別的対応。「孤独な生」は怪物へと加速する。その過程はジュネの固有性獲得への過程でもある。
さて、クレルとセブロン中尉との関係は奇妙な展開を見せる。
「艦内で、クレルは相変らず士官のための用事をしていたが、そんな勤めに堪えているクレルを、どうやら士官は軽蔑しているらしかった。若者に襲われたことを理由にして、少尉は自分の内部に冒険の芽が育ちはじめたと感じるほど、得意な気持になっていた。内心の手帖から、作者はここに次なる文章を抜いて掲げる。
『あの若いすばらしいならず者に、わたしは負けていなかった。わたしは抵抗した。殺されてもよいと思った』」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.367」河出文庫)
クレル優位だった二人の関係はだんだん転倒し始める。セブロン優位に逆転し始める。ジルの急襲に耐えることができた経験がセブロンの意識を高揚させることに貢献したのだ。ところでジュネはこう述べる。
「陸軍および海軍は、自分自身の力で冒険の生活を送ることのできない者に、出来合いの冒険を提供してくれる」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.368」河出文庫)
なるほど「出来合い」のものではあるにせよ、確かに軍隊は「冒険を提供」する。ニーチェはそれを、良心の呵責をともなわぬ「自殺への迂路(うろ)である」と述べる。
「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫)
しかしなぜ「自殺への迂路(うろ)」なのか。なぜそれほどまでに死が、「自殺/他殺」が、目指されているのか。死の本能についてフロイトから。
「あらゆる有機的な本能は保守的で、歴史的に獲得されたものであり、退行、つまり以前の状態の復活に向けられているものとすれば、われわれは有機体の発展の成果を、外部から妨害し、偏向させる影響のせいにしなければならない。原始的生物は、そもそもの発端から変化することを欲しなかったであろうし、常に変わることのない事情のもとで、たえず同一の生活経路しか反復しなかったことであろう。究極のところ、有機体の発展に刻印をきざみつけたものは、われわれの地球と、その太陽にたいする関係の発展史にほかなるまい。保守的な有機的本能は、この押しつけられた生活経路の変化をことごとく受けいれ、反復のために保存しているのである。そのため、実はただ、ふるい目標を、新旧の二つながらの方法で追っているのに、何か変化と進歩を求める諸力があるかのような誤った印象を作り出しているのにちがいない。この、あらゆる有機体の努力の究極目標もまた、明らかにすることができよう。もし、生命の目標が未だかつて到達されたことがない状態であるならば、それは衝動の保守的な性質に矛盾するであろうから、むしろそれは、生物が、かつて棄て去った状態であり、しかも発展のあらゆる迂路を経てそれに復帰しようと努める古い出発点の状態であるに相違ない。もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.173~174』人文書院)
セブロンは自分を襲った犯人としてジルの顔を見せられたとき、そうではない、と嘘をついた。セブロンは海軍の中尉として、その社会的地位から考えて寛大さを見せねばならないと考えた。ということもあるし、また他方では全然ちがうことを考えていたということもある。結果的に言葉を濁して否認した。しかし危うくおかしな言葉を用いてしまったことに後で気づいている。
「もしもわたしが彼と鞄の奪い合いをしたのだったら、わたしはどんなに幸福を感じたことだろう!要するに、それはわたしの勇気を示す機会だったのだから。わたしは彼を告発していたろうか?おかしな質問だ。それは結局、わたし自身のなかに誰がいるかを明らかにするようなものではないか?警官の調査とわたしの逆上ぶりを思い出してみよう。わたしはもう少しでクレルを引渡してしまうところだった。わたしの態度、わたしの返答によって、警官は、わたしがクレルを問題にしていることを読み取りはしなかったろうか」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369」河出文庫)
さかのぼってみよう。警察はセブロン中尉の「声が《彼の顔》という言葉とともに変質するのを耳にし」ている。
「警部について言えば、士官の声が《彼の顔》という言葉とともに変質するのを耳にした」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.299」河出文庫)
このときの「《彼の顔》」の、「彼」とは誰か。ジルの顔について、霧が深くてよく見えなかったというふうに述べたその後、「《彼の顔》」はすぐそばにあったし霧はそんなに深くなかったという矛盾した発言をしている。セブロンは内心とても慌てた。セブロンは自分に襲いかかってきた暴漢ジルの前で、ジルのことなどどうでもよく、むしろクレルのことが頭の中から離れなかった。セブロンの妄想は果てしなく天翔る。
「わたしは警官が嫌いである。それなのに、わたしは危うく刑事(でか)の真似をしてしまうところだった。夢のなか以外で、クレルをヴィックの殺人犯などと考えるのは狂気の沙汰だろう。わたしとしては、彼がそうであってくれればよいがと思っているけれども、それはわたしの夢想のなかに、一個の愛の惨劇を組み立てることが可能になるからなのだ。クレルにわたしの忠誠を捧げんがためなのだ!」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369」河出文庫)
暴漢がまだ右も左もわからない少年ジルなどではなく、船底の石炭置場で働く肉体美をこれ見よがしに見せつける美青年クレルであったなら。セブロンは自分が中尉という階級であることを忘れることはない。むしろ、まぎれもない中尉が単なる水兵クレルを屈辱的な姿勢で犯し抜くこと。そしてこれまでセブロンが感じてきたクレルからの軽蔑の眼差しを見返し見下ろし下僕化すること。そういうストーリーを組み立てたくて仕方がなくなる。それは卑劣な行為だろうか。というより卑劣さにおいてもクレルを凌駕することは極めて重要なプロセスをなす。これまでセブロンは卑劣にも自室の掃除を命じるという口実を利用してクレルを呼び出し、掃除のためにわざわざ自分の肉体美の驕りをこれ以上ないというほどセブロンの面前で見せつけ誘惑のかぎりを尽くしてきたクレルの卑劣さに、あまりにも悩ましい想いを掻き立てられてきた。もうこれ以上、卑劣さにおいてクレル以下に堕落するなど想像すらできない。いつでも必ずクレル以上に卑劣な中尉であるためにセブロンはよりいっそう注意深く自分で自分自身の卑劣さの活用法をきめ細かく律していかねばなるまい。しかし「力《への》意志」においてセブロンの権威をよりいっそう確かなものにするには、どうしてもクレルが殺人犯でなくてはならないという必要性が出てくる。セブロンの持つ圧倒的脅威によって殺人犯クレルを自分以下の存在へと転倒させなければならない。クレルがセブロンを誘惑するのでなく、セブロンが常にクレルを誘惑するのでなくてはならない。そしてそれは憎悪や復讐といったどこにでもごろごろ転がっているようなありふれた感情によって実現されるわけにはいかない。ひたすらクレルへ向けられておりセブロンの愛によってのみ成就された眩(まばゆ)いばかりの実践的転倒でなければ意味がない。
「後悔も、苦悩も、脈打つ顳顬(こめかみ)も、汗に濡れた髪の毛も、もはや何の助けにもならず、罪の意識に追い立てられて、彼がわたしに秘密を告白しにくるようなことがあったら!わたしが彼の懺悔聴聞僧になって、彼の罪を許してやることができたら!胸に抱いて彼を慰め、最後に徒刑場まで彼を送ってやることができたら!わたしがもっと自信をもって、彼が殺人犯だということを信じ、彼を告発し、それによってただちに彼を慰める幸福、彼の刑罰を共にする幸福を自分のものにすることができたら!」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369~370」河出文庫)
そのためにも、警察署に呼び出されたとき、思いがけず口走ってしまった「《彼の顔》」というひとことは、ともすればセブロンにとって致命傷になっていたかもしれない。
「考えてみれば、クレルはそれに気がつくことなく、おそろしい危険の瀬戸際にいたわけだ。わたしはもう少しでクレルを刑事(でか)どもに引渡してしまうところだった!」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.369~370」河出文庫)
しかしセブロン中尉は艦船の士官としての義務がある。いっときの寄港地であるブレストを離れるときがそろそろ近づいていた。クレルも一緒だ。ブレストを出てバルティック海から白海まで巡航する予定らしい。ところが艦船の出航は、クレルの瓜二つの兄弟ロベールや警察官マリオ、さらにはロジェやジルとの別れのときが迫っていることを明確に示してもいた。そしてそのことは同時に、淫売屋《ラ・フェリア》の女将リジアーヌにとって男性同性愛者とはどのような人間たちであるのかを教示する、またとない機会にもなるのだ。
BGM