ジュネは人並み以上に敏感な感受性の持主だ。それは小説家になってから獲得されたものではない。むしろ小説家として有名になってからは徐々に失われてしまったかもしれない敏感さの持主だというべきだろう。たとえば次の文章。ジュネは若年の頃からほとんどいつも泥棒として指名手配されていた。あまり警察とつきあいが長くなると両者のあいだに奇妙な友情が出来上がってしまい、両者が本来堅持しておくべき緊張感を失ってしまうことがある。ジュネもしばしばそういう関係に陥ったことがある。しかしそれはほとんどのケースで相手の警察官がーーーその地位に関係なくーーー男性同性愛者だった場合に限られる。そうでない場合のほうが圧倒的に多い俗世間では、ジュネはいつも超人的ともいうべき鋭敏さを失わない非常にセンシティヴな態度を維持していなければならない。さぞかし疲れることも多かっただろうと思われる。しかしそのような打ち続く不安な日常生活の中でも、ときとして思いがけない憩いの場所を見つけることができる。
「すでに盗んだことがあるということのために、危険は単にわたしが盗みを働くときだけでなく、わたしの生存の各瞬間に存在しているのである。漠然(ばくぜん)とした不安がわたしの生活全体を霧のように包んでおり、それを重くしていると同時にそれを軽くしているのである。わたしの視線の澄明さと鋭敏さを保持するために、わたしの意識は、行為をする場合、必要に応じて素早くその行為を取りつくろい、その行為の意味を変えることができるように、あらゆる行為にただ軽く触れるだけでなければならないのだ。この不安がわたしを常に目ざめた状態に置く。そのためにわたしは、林の中の空地で人に見つけられた子鹿のような、驚いた様子をしているのだ。しかし不安はまた一種の眩暈(めまい)のようにわたしを引っさらい、わたしの頭脳を混乱させ、わたしを暗い地層の中に沈んでゆかせ、その中に身を潜めさせるーーーわたしが木の葉の下で、地面に木靴の音が響くのを聞くとき」(ジュネ「泥棒日記・P.307」新潮文庫)
この一節から伝わってくる一つの、そして特異ではあるものの、確実な「憩い」の感情。なるほど犯罪者としての不安は「わたしを常に目ざめた状態に置く」。頭を休める暇もない。ほんのわずかな計算違いが起きただけで「子鹿のような、驚いた様子」になったりする。するとますます怪しく思われることもあるに違いない。だからといって、まったく睡眠を取らないということは考えられない。ジュネは打ち続く不安のうちに、不安の側から或る種の誘いを受ける。「一種の眩暈(めまい)」といっている。これはまちがいなく身体の言語だ。身体の言語はジュネを「引っさらい」、「暗い地層の中に沈んでゆかせ」、「その中に身を潜めさせる」よう働きかける。「暗い地層」というのは地面の奥底という意味ではなく、ただ端的に「睡眠」を意味する。そして結局、そこそこ安心して眠ることができるところといえば、「木の葉の下」であり、なおかつ「地面に木靴の音が響くのを聞く」こともできる場所でなくてはならない。完全に安全だとは言い切れないが、少なくとも不安と緊張と冒険への意志でずっと張り詰めていた体に、いっときの「憩い」を与えることのできる、あまり人気のない場所だろうことは想像できそうだ。そのような「憩い」のうちに、ジュネはどんな夢の一つも見ることができただろうか。
ジュネたちの暮らしの中では、俗世間とはまた異なって、言葉づかいの違いが顕著であることがよくある。次のセンテンスでジュネは「ユーモア」と述べているが、正確にいえば、“wit”=「ウィット」=「機知、機転、平衡感覚」。
「ふつうその用途が正反対と思われている物同士が、組み合わさることをわたしに申出るので、わたしの会話はユーモアたっぷりなものになるのだった。『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』『いかれてるだって!』と、わたしは眼を丸くしながら繰返した。『いかれてる』。それで思い出すが、そう言えば、わたしはその頃、今述べたような精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果、針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟みを見たとき、ある絶対的な認識について啓示を受けたと思ったのだった。この誰でも知っている小さな物品の優雅さと奇異さが、《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)
ジュネが仲間から指摘されたのは、度重なる逮捕で途切れ途切れになりながらも、思いがけず順調な執筆生活によって多少のお金が手に入るようになってからのことだろう。緊張感というのは何も人間の気配だけを指すわけではまったくない。むしろ生活全体を条件づけているありとあらゆる物質的物品についての感覚へ向けられた意識の総体である。人間は生活環境が変化するとともにそれまで持っていた緊張感も変化する。とっくの昔にマルクスはいっている。
「むしろ自分たちの物質的な生産と<現実的な>物質的な交通<の中で発展していく>を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.31」岩波文庫)
だから、生活の変化によって引き起こされる意識の変化の時期には、注意を怠ってはいけない。「その頃わたしがしていたような生活、絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれのあった生活」においては特に。
「わたしは出来事でさえ、その一つ一つを完全に独立したものとして感受した。読者はこのような精神状態が、その頃わたしがしていたような生活、絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれのあった生活では、どれほど危険であったかということは容易に想像していただけると思う」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)
ところで、仲間の言葉がジュネを正気に戻した「ユーモア」が実は「ウィット」だと述べたのにはわけがある。フロイトの発見によるものだが、ただ単なるユーモアや冗談には見られないけれども、しかし「ウィット」には「節約」がある、あるいは「ウィット」は言葉の「節約」であるという驚嘆すべき区別についてだ。
「機知が生み出す快感は、それが遊戯の快感であれ廃棄の快感であれ、いつでも心的消費の節約からーーーこのような把握が快感の本質に矛盾せず、さらに他の点でも実り豊かなものであることが証明されるならばーーー導き出すことができる」(フロイト「機知」『フロイト著作集4・P.343』人文書院)
多少の金銭を手にして日常生活が変化した場合、物質的に変化した生活によって日常の意識も変化しているにちがいない。実際に変化しており注意散漫になっていたため、仲間から「『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』」とからかわれたわけだ。この際、思いきって泥棒稼業を辞めるというのならまだしも、泥棒稼業を続けながら並行して執筆作業も行うというのであれば、緊張感の欠損など話にならない。あわやというところで、仲間のウィットに満ちた愛情の言葉によってジュネは現実感覚を取り戻すことができた。「『いかれてる』」。極限まで節約されたこのひとことでジュネは本来の緊張感の意味を再認識させられることになった。ジュネたちにとって、「針金」はただ単なる針金というだけではなく、「洗濯ばさみ」はただ単なる洗濯ばさみというだけでは済まされないのである。とともに、ジュネは自分が生まれついての犯罪者傾向の持主であることに或る種のノスタルジーを感じる。このノスタルジーはおそらく「『いかれてる』」という言語によって呼び覚まされたジュネ本来の生き方への悲哀でもあったろう。
「《犯罪者の悲哀》。ーーー犯罪者であることが発覚したとき、彼が苦しむのは犯罪ではなくて恥辱であり、馬鹿げたことをしたことに対する嫌悪であり、通例の生活必需品に不自由することである。この点を区別するためには、めったにないような敏感さを必要とする。刑務所や強制労働場にしばしば出入りした人ならだれでも、そこでは明確な『良心の呵責』に出会うことがどんなに珍しいかに驚く。しかもそれだけ一層多く、古くから馴染んでいる悪い犯罪への郷愁に出会う」(ニーチェ「曙光・三六六・P.333」ちくま学芸文庫)
しかしそれ以上に気をつけていることがある。ジュネが自分で自分自身に課した掟といっていいだろう。殺人はしないという原則だ。殺人行為はそのあまりにもスキャンダラスな派手さ、たちどころに湧き起こる神話性、直接的すぎる強大な力、それらを一身に兼ね備えているため、殺人者を逆に英雄に置き換えてしまう危険にまとわりつかれている。単刀直入すぎる。後ろ暗さがない。汚辱さがない。なるほど太陽のような輝きをまっすぐに放ちはするものの、しかし植物のようにしなやかで柔軟性に富んだ創造的変容性がない。ただ単なる正反対ぶり、たとえば商品Aと商品Bとが貨幣を介さずにただ単に交換されただけに過ぎないような無粋さのほうに目がいってしまい、ジュネの欲する「夜陰性」が覆い隠されてしまっている。ごくふつうの商品交換の場合には、ただ単なる価値の交換だけではまったくない剰余価値を含む非対称性がある。商品Aと商品Bとのあいだに立ち、互いに違った二つの商品のあいだにある差異=非対称性を覆い隠してしまう「貨幣」。すなわちジュネの言葉を用いれば「夜陰性」。そしてそれ〔貨幣〕こそが資本独特の後ろ暗い「夜陰性」を見せつけているわけだが、一方、殺人はいとも安易にただ単なる正反対ぶりを見せつけることによって自分で自分自身を自己「神格化」してしまう。要するに殺人には詩がない。美がないのだ。ゆえにジュネは殺人を警戒する。
「殺人はわたしを、被害者=神に仕える、僧侶(そうりょ)とするおそれがある」(ジュネ「泥棒日記・P.308」新潮文庫)
しかしもし殺人が「実利的必要性」によって、「金のため」という大義名分によって行われるとすれば、殺人者はあっけなく俗世間の価値観の中へ転落し埋没し、とっさのところで「神格化」されずに済むかもしれない。
「殺人という行為が持つ効力を破壊するには、あるいは、この犯罪行為をに実利的必要を結びつけることによってそれを極度にまで無力化することで足りるかもしれない」(ジュネ「泥棒日記・P.308」新潮文庫)
そこでジュネは一つの公式を提示する。「金の威力」=「殺人という行為の威力」。両者は両極に置かれ対立することによって、互いに互いの等価性を実証し合うのである。
「わたしは数百万の金のために、人を殺すことはできるだろう。金の威力は殺人という行為の威力に敵対しうる」(ジュネ「泥棒日記・P.308」新潮文庫)
さて、クレルは表に出てこない。社会の表面で袋叩きに合わされているのはジル・テュルコという名前ばかりだ。しかしジルは日に日に犯罪者として凝固していく(ステレオタイプ化していく)自分の名にだんだん満足するようになっていた。新聞紙上を賑わせているジルの名。実際にこうむることになるかもしれない「絶望の苦しさ」は確かにある。だが、錚々たる面々に混じってマスコミの紙面の一部を占領している自分の名は、それまでただ単なる少年であり、さらに周囲から散々侮辱を受けてなお名誉回復される希望もほとんどなくしてしまった少年にとって、この事態はまさしく「名誉の称号」に《なる》。とはいえ、この時点で「名誉の称号」になっているのはあくまでもジルの名だけであって、ジル・テュルコ本人ではない。
「ジルは、クレルの理屈に手もなく説得されていた。説得されることをみずから望んでいた。大きな危険に身をさらそうという気持はすでになく、むしろ逆に、彼は《固定する》ことによって身を全うしようとしていた。彼の名前が新聞に書かれ、裁きを免れて踏みとどまるであろうように、彼の内部の何物かも、その場に踏みとどまろうとしていた。彼が口のなかに絶望の苦しさを感じていたとしても、彼の名前は、名誉の称号を受けることによって、裁きを免れていたのである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.317」河出文庫)
ジルはしかしどうしてクレルを恨まないのか。俗世間なら当然そう考える。ジルも始めのうちはクレルを恨んだ。しかし徐々にクレルへの「信頼」が自分の裡(うち)で増殖してくる。そして単純に考えればもしかしたらそれは「クレルが《あたえた》のかもしれない恐怖が混っていた」と、ジルはおもう。もしそれが本当ならそれこそどこにでもあるマインドコントロールとか洗脳といった低級下等な行為の結果に過ぎない。しかしこの場合はそうではない。クレルがもたらす「恐怖」のようなもの。それは「力《への》意志」においてクレルのほうがジルを圧倒しており、なおかつジルは、そのような「力《への》意志」としてのクレルに憧れていなければならない。そしてまた、このクレルへの憧れは、クレルと知り合う以前からそもそもジルの内部に宿っていたものでなければならない。ニーチェのいう「力《への》意志」は、マインドコントロールされたり洗脳されたりするような「奴隷道徳/隷属意志」とは何の関係もない。
「《奴隷道徳》については事情は異なる。圧制された者、圧迫された者、忍苦するもの、自由のない者、自己自らに確信のない者、および疲労した者たちが道徳を云々するとすれば、何が彼らの道徳的評価の共通点となるであろうか。恐らくは人間の全状況に対する厭世主義的な猜疑が表出され、多分は人間およびその状況に対する有罪が宣告されるであろう。奴隷の眼差(まなざ)しは、強力な者たちの徳に対して好意をもたない。彼は懐疑と不信をもつ。彼はそこで尊重されるすべての『よきもの』に対して《敏感な》不信をもつ。ーーー彼はそこでの幸福はそれ自身、本物ではないと自分に説得しようとする。その逆に、忍苦する者にその生存を楽にするに役立つような特性が引き出され、照明を浴びせられる。ここでは同情が、親切な援助を厭わぬ手が、温情が、忍耐が、勤勉が、謙譲が、友誼が尊重せられることになる。ーーーそれというのも、これらのものはここでは、生存の圧迫を耐(こら)えるために最も有益な特性であり、殆ど唯一の手段だからである。奴隷道徳は本質的に功利道徳である。ここにあの『善』と『《悪》』という有名な対立を燃え上がらせる火床(ひどこ)がある。ーーーすなわち、力と危険性が悪に属するものと感じられる。或る種の怖ろしさ、軽侮の念が生じることを許さない巧みさと強さは悪であると感じられる。従って奴隷道徳によれば、『悪人』とは恐怖を撹(か)き立てるものである。主人道徳によれば、『わるい』〔劣悪な〕人間は軽蔑すべきものとして感じられる。この対立がその尖端に達するのは、奴隷道徳の帰結に従って、ついにこの道徳における『善人』の上にすら一抹の軽蔑がーーーたとい軽く好意的なものであってもーーー吹きかけられるときである。奴隷的な考え方の内部における善人とは、とにかく《危険でない》人間でなくてはならないからである。この人間は善良な、欺(だま)され易い、恐らく些(いささ)か愚鈍で、つまり《お人好し》なのである」(ニーチェ「善悪の彼岸・二六〇・P.272」岩波文庫)
というように「《奴隷道徳》」には、相手に対する途方もない差別意識があからさまに露呈している。自分にとって何らの恐怖も不安も鋭さも与え《ない》、ただ単なる《お人好し》に対する差別意識、ただ単なる《お人好し》を相手にしたときにのみ出現する鼻持ちならない自分の優位性が充満している。それをニーチェは「悪い空気」と呼んで告発する。
「頭を垂れ、口中に苦さを噛みしめながら、ジルは自分の二つの殺人のイメージを心の中に見つめていた。大きな徒労感のために、彼は甘んじてこれらの殺人を認めざるを得ないような気持になっていた。結局、自分の人生が地獄への道に迷いこんでしまったのだ、と思わざるを得なかった。クレルに対して、彼ははげしい怒りを感じていたが、同時にまた、絶対の信頼をも感じていた。そしてこの信頼には、奇妙なことにクレルが《あたえた》のかもしれない恐怖が混っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.318~319」河出文庫)
ジルがクレルの裡(うち)に漠然と感じているのは自分をはるかに凌駕する「力《への》意志」であって、それはクレルがブレストの街中に繁殖させようとしている「卵」なのだ。ところがニーチェの諸作品は、「力《への》意志」を力説しているにもかかわらず、社会的勝利者である資本至上主義者にはまったく受けない。むしろ危険思想として取り扱われている。その理由は今引いた通り、ニーチェが軽蔑して止まない「奴隷道徳/隷属意志」が俗世間のあいだでふつうに機能することができている限りで、始めて資本は安心して資本主義を貫徹することができるからである。逆に、ジルの眼にはクレルの姿が、次のように、堂々たる強度が流動するさまとしてまざまざと見えるのだ。
「《無垢な悪党》。ーーーそれぞれの種類の悪徳や破廉恥に至るゆるやかな、一歩一歩の道がある。その終点にゆきつくと、良心のやましさの蠅の群れは、行路者のもとから完全に飛び去ってしまう。そして彼は、全くの大悪党でありながら、無垢な人間として歩きまわる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・八四・P.70」ちくま学芸文庫)
一方、クレルはクレルで、言ってしまえば、そこらへんの街中にいる単なる悪党の一人に過ぎない。しかしクレルは未熟ななりに「暗闇」の中で精一杯「深呼吸」する悦びをすでに身につけてはいる。
「クレルは夜を手なずけていた。影のあらゆる表現と親しくなることを心得ていたし、自分のなかに宿している最も危険な怪物で暗闇をいっぱいにすることをも心得ていた。それから、鼻から空気を深く吸いこむことによって、彼はこれらの怪物を征服するのであった。いま、夜は完全に彼の所有に帰してはいなかったけれども、彼に対して従順になっていた。彼は自分の犯罪の嫌らしい仲間とともに暮すことに慣れており、自分の犯罪に関する、小型の帳簿のようなものを持っていた。彼が自分だけのために《おれの街路の花々》と名づけていた、殺人の帳簿である。この帳簿には、犯罪が起った場所の見取図が描かれていた。物を描くことができない場合には、その物の名前が記入されていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.320」河出文庫)
クレルの几帳面さ。帳簿の中にしっかりと登記すること。それは征服するということであり自己固有化するということであり、政治-経済的な意味でいえば領土化することにほかならない。クレルは悪人だろうか。とすれば全世界の資本もまた悪人の大集団だということにならないだろうか。その意味でクレルは地方都市ブレストのボーダー(変則者、極限、壁)として知らず知らず振る舞っていることになるだろう。
BGM
「すでに盗んだことがあるということのために、危険は単にわたしが盗みを働くときだけでなく、わたしの生存の各瞬間に存在しているのである。漠然(ばくぜん)とした不安がわたしの生活全体を霧のように包んでおり、それを重くしていると同時にそれを軽くしているのである。わたしの視線の澄明さと鋭敏さを保持するために、わたしの意識は、行為をする場合、必要に応じて素早くその行為を取りつくろい、その行為の意味を変えることができるように、あらゆる行為にただ軽く触れるだけでなければならないのだ。この不安がわたしを常に目ざめた状態に置く。そのためにわたしは、林の中の空地で人に見つけられた子鹿のような、驚いた様子をしているのだ。しかし不安はまた一種の眩暈(めまい)のようにわたしを引っさらい、わたしの頭脳を混乱させ、わたしを暗い地層の中に沈んでゆかせ、その中に身を潜めさせるーーーわたしが木の葉の下で、地面に木靴の音が響くのを聞くとき」(ジュネ「泥棒日記・P.307」新潮文庫)
この一節から伝わってくる一つの、そして特異ではあるものの、確実な「憩い」の感情。なるほど犯罪者としての不安は「わたしを常に目ざめた状態に置く」。頭を休める暇もない。ほんのわずかな計算違いが起きただけで「子鹿のような、驚いた様子」になったりする。するとますます怪しく思われることもあるに違いない。だからといって、まったく睡眠を取らないということは考えられない。ジュネは打ち続く不安のうちに、不安の側から或る種の誘いを受ける。「一種の眩暈(めまい)」といっている。これはまちがいなく身体の言語だ。身体の言語はジュネを「引っさらい」、「暗い地層の中に沈んでゆかせ」、「その中に身を潜めさせる」よう働きかける。「暗い地層」というのは地面の奥底という意味ではなく、ただ端的に「睡眠」を意味する。そして結局、そこそこ安心して眠ることができるところといえば、「木の葉の下」であり、なおかつ「地面に木靴の音が響くのを聞く」こともできる場所でなくてはならない。完全に安全だとは言い切れないが、少なくとも不安と緊張と冒険への意志でずっと張り詰めていた体に、いっときの「憩い」を与えることのできる、あまり人気のない場所だろうことは想像できそうだ。そのような「憩い」のうちに、ジュネはどんな夢の一つも見ることができただろうか。
ジュネたちの暮らしの中では、俗世間とはまた異なって、言葉づかいの違いが顕著であることがよくある。次のセンテンスでジュネは「ユーモア」と述べているが、正確にいえば、“wit”=「ウィット」=「機知、機転、平衡感覚」。
「ふつうその用途が正反対と思われている物同士が、組み合わさることをわたしに申出るので、わたしの会話はユーモアたっぷりなものになるのだった。『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』『いかれてるだって!』と、わたしは眼を丸くしながら繰返した。『いかれてる』。それで思い出すが、そう言えば、わたしはその頃、今述べたような精神の贅沢(ぜいたく)きわまる超脱の結果、針金に一つだけ棄て置かれてあった洗濯挟みを見たとき、ある絶対的な認識について啓示を受けたと思ったのだった。この誰でも知っている小さな物品の優雅さと奇異さが、《わたしを少しも驚かさずに、わたしに顕われたのだった》」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)
ジュネが仲間から指摘されたのは、度重なる逮捕で途切れ途切れになりながらも、思いがけず順調な執筆生活によって多少のお金が手に入るようになってからのことだろう。緊張感というのは何も人間の気配だけを指すわけではまったくない。むしろ生活全体を条件づけているありとあらゆる物質的物品についての感覚へ向けられた意識の総体である。人間は生活環境が変化するとともにそれまで持っていた緊張感も変化する。とっくの昔にマルクスはいっている。
「むしろ自分たちの物質的な生産と<現実的な>物質的な交通<の中で発展していく>を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.31」岩波文庫)
だから、生活の変化によって引き起こされる意識の変化の時期には、注意を怠ってはいけない。「その頃わたしがしていたような生活、絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれのあった生活」においては特に。
「わたしは出来事でさえ、その一つ一つを完全に独立したものとして感受した。読者はこのような精神状態が、その頃わたしがしていたような生活、絶えず目ざめていなければならず、いろいろな物品の世間的な意味を見失えば直ちに捕まるおそれのあった生活では、どれほど危険であったかということは容易に想像していただけると思う」(ジュネ「泥棒日記・P.185」新潮文庫)
ところで、仲間の言葉がジュネを正気に戻した「ユーモア」が実は「ウィット」だと述べたのにはわけがある。フロイトの発見によるものだが、ただ単なるユーモアや冗談には見られないけれども、しかし「ウィット」には「節約」がある、あるいは「ウィット」は言葉の「節約」であるという驚嘆すべき区別についてだ。
「機知が生み出す快感は、それが遊戯の快感であれ廃棄の快感であれ、いつでも心的消費の節約からーーーこのような把握が快感の本質に矛盾せず、さらに他の点でも実り豊かなものであることが証明されるならばーーー導き出すことができる」(フロイト「機知」『フロイト著作集4・P.343』人文書院)
多少の金銭を手にして日常生活が変化した場合、物質的に変化した生活によって日常の意識も変化しているにちがいない。実際に変化しており注意散漫になっていたため、仲間から「『お前さん、この頃だいぶいかれているぜ、まったく』」とからかわれたわけだ。この際、思いきって泥棒稼業を辞めるというのならまだしも、泥棒稼業を続けながら並行して執筆作業も行うというのであれば、緊張感の欠損など話にならない。あわやというところで、仲間のウィットに満ちた愛情の言葉によってジュネは現実感覚を取り戻すことができた。「『いかれてる』」。極限まで節約されたこのひとことでジュネは本来の緊張感の意味を再認識させられることになった。ジュネたちにとって、「針金」はただ単なる針金というだけではなく、「洗濯ばさみ」はただ単なる洗濯ばさみというだけでは済まされないのである。とともに、ジュネは自分が生まれついての犯罪者傾向の持主であることに或る種のノスタルジーを感じる。このノスタルジーはおそらく「『いかれてる』」という言語によって呼び覚まされたジュネ本来の生き方への悲哀でもあったろう。
「《犯罪者の悲哀》。ーーー犯罪者であることが発覚したとき、彼が苦しむのは犯罪ではなくて恥辱であり、馬鹿げたことをしたことに対する嫌悪であり、通例の生活必需品に不自由することである。この点を区別するためには、めったにないような敏感さを必要とする。刑務所や強制労働場にしばしば出入りした人ならだれでも、そこでは明確な『良心の呵責』に出会うことがどんなに珍しいかに驚く。しかもそれだけ一層多く、古くから馴染んでいる悪い犯罪への郷愁に出会う」(ニーチェ「曙光・三六六・P.333」ちくま学芸文庫)
しかしそれ以上に気をつけていることがある。ジュネが自分で自分自身に課した掟といっていいだろう。殺人はしないという原則だ。殺人行為はそのあまりにもスキャンダラスな派手さ、たちどころに湧き起こる神話性、直接的すぎる強大な力、それらを一身に兼ね備えているため、殺人者を逆に英雄に置き換えてしまう危険にまとわりつかれている。単刀直入すぎる。後ろ暗さがない。汚辱さがない。なるほど太陽のような輝きをまっすぐに放ちはするものの、しかし植物のようにしなやかで柔軟性に富んだ創造的変容性がない。ただ単なる正反対ぶり、たとえば商品Aと商品Bとが貨幣を介さずにただ単に交換されただけに過ぎないような無粋さのほうに目がいってしまい、ジュネの欲する「夜陰性」が覆い隠されてしまっている。ごくふつうの商品交換の場合には、ただ単なる価値の交換だけではまったくない剰余価値を含む非対称性がある。商品Aと商品Bとのあいだに立ち、互いに違った二つの商品のあいだにある差異=非対称性を覆い隠してしまう「貨幣」。すなわちジュネの言葉を用いれば「夜陰性」。そしてそれ〔貨幣〕こそが資本独特の後ろ暗い「夜陰性」を見せつけているわけだが、一方、殺人はいとも安易にただ単なる正反対ぶりを見せつけることによって自分で自分自身を自己「神格化」してしまう。要するに殺人には詩がない。美がないのだ。ゆえにジュネは殺人を警戒する。
「殺人はわたしを、被害者=神に仕える、僧侶(そうりょ)とするおそれがある」(ジュネ「泥棒日記・P.308」新潮文庫)
しかしもし殺人が「実利的必要性」によって、「金のため」という大義名分によって行われるとすれば、殺人者はあっけなく俗世間の価値観の中へ転落し埋没し、とっさのところで「神格化」されずに済むかもしれない。
「殺人という行為が持つ効力を破壊するには、あるいは、この犯罪行為をに実利的必要を結びつけることによってそれを極度にまで無力化することで足りるかもしれない」(ジュネ「泥棒日記・P.308」新潮文庫)
そこでジュネは一つの公式を提示する。「金の威力」=「殺人という行為の威力」。両者は両極に置かれ対立することによって、互いに互いの等価性を実証し合うのである。
「わたしは数百万の金のために、人を殺すことはできるだろう。金の威力は殺人という行為の威力に敵対しうる」(ジュネ「泥棒日記・P.308」新潮文庫)
さて、クレルは表に出てこない。社会の表面で袋叩きに合わされているのはジル・テュルコという名前ばかりだ。しかしジルは日に日に犯罪者として凝固していく(ステレオタイプ化していく)自分の名にだんだん満足するようになっていた。新聞紙上を賑わせているジルの名。実際にこうむることになるかもしれない「絶望の苦しさ」は確かにある。だが、錚々たる面々に混じってマスコミの紙面の一部を占領している自分の名は、それまでただ単なる少年であり、さらに周囲から散々侮辱を受けてなお名誉回復される希望もほとんどなくしてしまった少年にとって、この事態はまさしく「名誉の称号」に《なる》。とはいえ、この時点で「名誉の称号」になっているのはあくまでもジルの名だけであって、ジル・テュルコ本人ではない。
「ジルは、クレルの理屈に手もなく説得されていた。説得されることをみずから望んでいた。大きな危険に身をさらそうという気持はすでになく、むしろ逆に、彼は《固定する》ことによって身を全うしようとしていた。彼の名前が新聞に書かれ、裁きを免れて踏みとどまるであろうように、彼の内部の何物かも、その場に踏みとどまろうとしていた。彼が口のなかに絶望の苦しさを感じていたとしても、彼の名前は、名誉の称号を受けることによって、裁きを免れていたのである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.317」河出文庫)
ジルはしかしどうしてクレルを恨まないのか。俗世間なら当然そう考える。ジルも始めのうちはクレルを恨んだ。しかし徐々にクレルへの「信頼」が自分の裡(うち)で増殖してくる。そして単純に考えればもしかしたらそれは「クレルが《あたえた》のかもしれない恐怖が混っていた」と、ジルはおもう。もしそれが本当ならそれこそどこにでもあるマインドコントロールとか洗脳といった低級下等な行為の結果に過ぎない。しかしこの場合はそうではない。クレルがもたらす「恐怖」のようなもの。それは「力《への》意志」においてクレルのほうがジルを圧倒しており、なおかつジルは、そのような「力《への》意志」としてのクレルに憧れていなければならない。そしてまた、このクレルへの憧れは、クレルと知り合う以前からそもそもジルの内部に宿っていたものでなければならない。ニーチェのいう「力《への》意志」は、マインドコントロールされたり洗脳されたりするような「奴隷道徳/隷属意志」とは何の関係もない。
「《奴隷道徳》については事情は異なる。圧制された者、圧迫された者、忍苦するもの、自由のない者、自己自らに確信のない者、および疲労した者たちが道徳を云々するとすれば、何が彼らの道徳的評価の共通点となるであろうか。恐らくは人間の全状況に対する厭世主義的な猜疑が表出され、多分は人間およびその状況に対する有罪が宣告されるであろう。奴隷の眼差(まなざ)しは、強力な者たちの徳に対して好意をもたない。彼は懐疑と不信をもつ。彼はそこで尊重されるすべての『よきもの』に対して《敏感な》不信をもつ。ーーー彼はそこでの幸福はそれ自身、本物ではないと自分に説得しようとする。その逆に、忍苦する者にその生存を楽にするに役立つような特性が引き出され、照明を浴びせられる。ここでは同情が、親切な援助を厭わぬ手が、温情が、忍耐が、勤勉が、謙譲が、友誼が尊重せられることになる。ーーーそれというのも、これらのものはここでは、生存の圧迫を耐(こら)えるために最も有益な特性であり、殆ど唯一の手段だからである。奴隷道徳は本質的に功利道徳である。ここにあの『善』と『《悪》』という有名な対立を燃え上がらせる火床(ひどこ)がある。ーーーすなわち、力と危険性が悪に属するものと感じられる。或る種の怖ろしさ、軽侮の念が生じることを許さない巧みさと強さは悪であると感じられる。従って奴隷道徳によれば、『悪人』とは恐怖を撹(か)き立てるものである。主人道徳によれば、『わるい』〔劣悪な〕人間は軽蔑すべきものとして感じられる。この対立がその尖端に達するのは、奴隷道徳の帰結に従って、ついにこの道徳における『善人』の上にすら一抹の軽蔑がーーーたとい軽く好意的なものであってもーーー吹きかけられるときである。奴隷的な考え方の内部における善人とは、とにかく《危険でない》人間でなくてはならないからである。この人間は善良な、欺(だま)され易い、恐らく些(いささ)か愚鈍で、つまり《お人好し》なのである」(ニーチェ「善悪の彼岸・二六〇・P.272」岩波文庫)
というように「《奴隷道徳》」には、相手に対する途方もない差別意識があからさまに露呈している。自分にとって何らの恐怖も不安も鋭さも与え《ない》、ただ単なる《お人好し》に対する差別意識、ただ単なる《お人好し》を相手にしたときにのみ出現する鼻持ちならない自分の優位性が充満している。それをニーチェは「悪い空気」と呼んで告発する。
「頭を垂れ、口中に苦さを噛みしめながら、ジルは自分の二つの殺人のイメージを心の中に見つめていた。大きな徒労感のために、彼は甘んじてこれらの殺人を認めざるを得ないような気持になっていた。結局、自分の人生が地獄への道に迷いこんでしまったのだ、と思わざるを得なかった。クレルに対して、彼ははげしい怒りを感じていたが、同時にまた、絶対の信頼をも感じていた。そしてこの信頼には、奇妙なことにクレルが《あたえた》のかもしれない恐怖が混っていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.318~319」河出文庫)
ジルがクレルの裡(うち)に漠然と感じているのは自分をはるかに凌駕する「力《への》意志」であって、それはクレルがブレストの街中に繁殖させようとしている「卵」なのだ。ところがニーチェの諸作品は、「力《への》意志」を力説しているにもかかわらず、社会的勝利者である資本至上主義者にはまったく受けない。むしろ危険思想として取り扱われている。その理由は今引いた通り、ニーチェが軽蔑して止まない「奴隷道徳/隷属意志」が俗世間のあいだでふつうに機能することができている限りで、始めて資本は安心して資本主義を貫徹することができるからである。逆に、ジルの眼にはクレルの姿が、次のように、堂々たる強度が流動するさまとしてまざまざと見えるのだ。
「《無垢な悪党》。ーーーそれぞれの種類の悪徳や破廉恥に至るゆるやかな、一歩一歩の道がある。その終点にゆきつくと、良心のやましさの蠅の群れは、行路者のもとから完全に飛び去ってしまう。そして彼は、全くの大悪党でありながら、無垢な人間として歩きまわる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・八四・P.70」ちくま学芸文庫)
一方、クレルはクレルで、言ってしまえば、そこらへんの街中にいる単なる悪党の一人に過ぎない。しかしクレルは未熟ななりに「暗闇」の中で精一杯「深呼吸」する悦びをすでに身につけてはいる。
「クレルは夜を手なずけていた。影のあらゆる表現と親しくなることを心得ていたし、自分のなかに宿している最も危険な怪物で暗闇をいっぱいにすることをも心得ていた。それから、鼻から空気を深く吸いこむことによって、彼はこれらの怪物を征服するのであった。いま、夜は完全に彼の所有に帰してはいなかったけれども、彼に対して従順になっていた。彼は自分の犯罪の嫌らしい仲間とともに暮すことに慣れており、自分の犯罪に関する、小型の帳簿のようなものを持っていた。彼が自分だけのために《おれの街路の花々》と名づけていた、殺人の帳簿である。この帳簿には、犯罪が起った場所の見取図が描かれていた。物を描くことができない場合には、その物の名前が記入されていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.320」河出文庫)
クレルの几帳面さ。帳簿の中にしっかりと登記すること。それは征服するということであり自己固有化するということであり、政治-経済的な意味でいえば領土化することにほかならない。クレルは悪人だろうか。とすれば全世界の資本もまた悪人の大集団だということにならないだろうか。その意味でクレルは地方都市ブレストのボーダー(変則者、極限、壁)として知らず知らず振る舞っていることになるだろう。
BGM