ジュネがジャヴァを愛するとき、世間の価値観では否定的に位置づけられている諸要素は何ら邪魔にならない。むしろ様々な「諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす」と述べる。
「彼の卑劣さ、意気地無さ、挙措(きょそ)や心情の低俗さ、愚かさ、臆病(おくびょう)などといった性質も、わたしがジャヴァを愛する妨げとはならない。わたしは以上のものにさらに彼の可愛らしさという性質をもつけ加えよう。これらの諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす」(ジュネ「泥棒日記・P.364」新潮文庫)
さらに次のような諸要素も列挙する。改めて並べて読んでみよう。すると、それら諸要素は多少なりともどの人間にも一般的に当てはまる諸要素に過ぎない、ということに気づくだろう。しかし重要なのは、それら諸要素が「一個の結晶体」として「イメージ」されるときだという点である。
「わたしは以上の諸性質にさらに彼の身体的諸性質、彼の頑丈(がんじょう)で仄(ほの)暗い肉体、をつけ加える。この新しい美質を言い表わそうとするとき、わたしの脳裡(のうり)に否応(いやおう)なく浮ぶイメージは、上に列挙した諸要素が、その一つ一つの断面を形づくっている一個の結晶体のイメージなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.364」新潮文庫)
この記述はただちにラヴクラフトによる次の記述を思い起こさせないわけにはいかない。
「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)
そしてまた、これらの変容が繰り返し反復されるとしよう。するとほとんど「n次元」としてしか言いようのない任意でなおかつ無限の諸断面を持つ多様体の共存の実在を想定するほかなくなってくるだろう。そしてジャヴァは、仮にジャヴァと名づけられている或る種の「煌(きら)めき」として、「独異の功力(ちから)」に《なる》。
「ジャヴァは煌(きら)めくのだ。彼の液体ーーーと彼のもろもろの炎(光輝)とーーーは、まさにわたしがジャヴァとよぶところの、そしてわたしが愛するところの、独異の功力(ちから)なのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.364~365」新潮文庫)
仮にジャヴァと名付けられている或る種の「煌(きら)めき」として、「独異の功力(ちから)」として、諸要素の融合する「合金のごときもの」として、それらすべての「ジャヴァ《における》出会い」が、ジュネを「夢中にする」ということでなくてはならない。
「わたしの言う意味をさらに明確に言えば、わたしは卑劣さをも愚かさも愛するのではなく、また、そのいずれかの《ために》ジャヴァを愛するのでもなく、それらの彼における出会いがわたしを夢中にする」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
それは、たとえばドゥルーズとガタリにいわせれば、或る「即興」(アドリヴ)であり、またこの「即興」(アドリヴ)は「世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ」ということになるだろう。
「身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作の音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.319」河出文庫)
さて、場面は変わって霧のブレスト。ロベールと性行為に耽っているとき、クレルとロベールという兄弟の顔が入れ換わって仕方がない、と半ば呆れ顔のリジアーヌ。二人を区別するにはどうすればよいのか。あるいはなぜ二人の身体が入れ換わり立ち換わりして止まないのか。見た目が似ているだけでなく性質も似ているということはなるほど重要な要素である。しかし二人を区別するための最終的な優先権はどこに求めることができるだろうか。
「クレルの勃起はそれほど堅くなかったが、少なくとも彼女があれほど夢に見たこの男根は、彼女を失望させはしなかった。それは重々しく、ふとく、どっしりしていて、上品ではないけれども、たくましい力にあふれていた。要するにリジアーヌ夫人は、この男根がロベールのそれと違っていたので、いくらか心が休まったのである。二人の兄弟は、結局その点で識別されるのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.381~382」河出文庫)
二人を区別するための最終的な優先権は、両者の《身体》あるいは肉体(筋肉)の運動の《差異》にあるということが承認されなくてはならない。リジアーヌは正当にもそう承認する。ニーチェはいっている。
「私たちは肉体に問いたずねる」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.36」ちくま学芸文庫)
「今日でも私たちは、いまだ筋肉でもって聞き、いまだ筋肉でもって読みさえする」(ニーチェ「権力への意志・下巻・八〇九・P.325」ちくま学芸文庫)
一方、クレルとセブロン中尉との力関係の均衡が破れ、クレルはセブロンに自分の身体を与えてもいいと考えるようになる。艦船出航までの暇つぶしを装って、白昼のブレストの街路をぶらぶらしている娼婦たちに声をかけ、からかって歩くクレル。そこでクレルは偶然にもセブロン中尉と出くわす。海軍の軍規上、セブロンはクレルを注意しなければならないが寛大さを見せつけたいセブロンはクレルの遊びを黙って見逃す。すれ違いざま、クレルはセブロンの目にはっきりと焼き付くように、欠かさぬ微笑とともに「自分の背中に、肩に、尻に、瞬間のすべての力を注ぎこ」み、「誘惑せんとする彼のすべての意志が、彼の肉体のこの部分に結集」するよう振る舞う。
「そのとき、彼は微笑の観念を自分の内部に保持しながら、自分の背中に、肩に、尻に、瞬間のすべての力を注ぎこんでいたのである。要するに、誘惑せんとする彼のすべての意志が、彼の肉体のこの部分に結集していたのである。この部分こそ、彼の真の顔であり、彼の水兵としての顔なのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.385」河出文庫)
それこそクレルの、「水兵としての顔」であり、「彼の真の顔」に《なる》。
「この顔が微笑を浮べ、相手の心を動かすことができるようにと彼は望んでいた。クレルはそれをあまりにも強く望んでいたので、ほとんど目に見えない震えが、首筋から臀部まで、彼の背骨を突っ走ったほどであった。自分自身のいちばん貴重なものを、彼は士官に献呈した」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.385~386」河出文庫)
「私たちが着けている最良の仮面は、私たち自身の素顔である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一一六三・P.595」ちくま学芸文庫」)
ニーチェの言葉にしたがうとすれば、人間の「素顔」は、時と場合により、様々な形態を取りつつ移動する、ということになる。そのことは特権的な「素顔」など実はどこにも存在しないという事情を意味する。むしろ素顔はつねに変容しつつ移動しつつ状況全体を巻き込みつつ、或る過程としてしか存在しないという事情を説明している。マルクスにいわせれば、どの商品も特権性を帯びることなく脱中心化された諸運動として流通するようなものだ。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
ところがクレルの意に反してセブロンは「行動を開始しなかった」。セブロンは「規律を守らせる必要を自分の内部に十分認めていながらも」、一人の水兵が街路で少しばかり遊んでいたからといってわざわざ怒鳴りつけたりせず、規律に対する侵害を「黙許することに、一種の自由の快楽、違反した張本人との共犯の快楽を味わっていた」。
「彼は行動を開始しなかった。よしんば自分のそばに同僚がいなかったとしても、彼は行動を開始しようとは思わなかったにちがいない。というのは、この規律を守らせる必要を自分の内部に十分認めていながらも、彼はそれに違反すること、あるいはそれに対する侵害を黙許することに、一種の自由の快楽、違反した張本人との共犯の快楽を味わっていたからである。それに、こんな有頂天になった恋人同士に対しては、笑って見逃してやる態度を示すことこそ、粋なやり方であり、《最高度に味のある》(彼は心のなかでこんな言葉を使っていた)やり方ではなかろうか、と彼には思われた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.386」河出文庫)
セブロンは海軍士官として、クレルの上官として、「黙許すること」を「《最高度に味のある》」、「粋なやり方」ではなかろうかと考え、自分で自分自身に酔っていた。クレルによる規律違反、それを黙許したセブロンの規律違反、この二重の背信行為。さらに両者の共犯関係がもたらす快楽。セブロン中尉は二重の背信と共犯関係がもたらす自己陶酔の快楽に身を任せることにしたのだった。「粋」というより単なる「独り占め」に過ぎないのだが。
BGM
「彼の卑劣さ、意気地無さ、挙措(きょそ)や心情の低俗さ、愚かさ、臆病(おくびょう)などといった性質も、わたしがジャヴァを愛する妨げとはならない。わたしは以上のものにさらに彼の可愛らしさという性質をもつけ加えよう。これらの諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす」(ジュネ「泥棒日記・P.364」新潮文庫)
さらに次のような諸要素も列挙する。改めて並べて読んでみよう。すると、それら諸要素は多少なりともどの人間にも一般的に当てはまる諸要素に過ぎない、ということに気づくだろう。しかし重要なのは、それら諸要素が「一個の結晶体」として「イメージ」されるときだという点である。
「わたしは以上の諸性質にさらに彼の身体的諸性質、彼の頑丈(がんじょう)で仄(ほの)暗い肉体、をつけ加える。この新しい美質を言い表わそうとするとき、わたしの脳裡(のうり)に否応(いやおう)なく浮ぶイメージは、上に列挙した諸要素が、その一つ一つの断面を形づくっている一個の結晶体のイメージなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.364」新潮文庫)
この記述はただちにラヴクラフトによる次の記述を思い起こさせないわけにはいかない。
「やがて波は高さを増し、カーターの理解を深めようとして、断片となっているいまのカーターを極微の一部とする多形の実体にカーターを復帰させていた。波がカーターに告げた。宇宙のあらゆる形態はーーー四角が立方体の断面であり円が球の断面であるごとくーーー一段高い次元の類似する形態の一面が交差した結果にすぎないのだと。三次元の立方体や球は、人間が推測や夢によってしか知ることのない、四次元の類似する形態の断面ということになる。そしてこの形態も五次元の形態の断面であり、こうして次つぎと繰返していけば、原型的な無限の目眩く到達不可能な高みに達することになる」(ラヴクラフト「銀の鍵の門を越えて」『ラヴクラフト全集6・P.137~138』創元推理文庫)
そしてまた、これらの変容が繰り返し反復されるとしよう。するとほとんど「n次元」としてしか言いようのない任意でなおかつ無限の諸断面を持つ多様体の共存の実在を想定するほかなくなってくるだろう。そしてジャヴァは、仮にジャヴァと名づけられている或る種の「煌(きら)めき」として、「独異の功力(ちから)」に《なる》。
「ジャヴァは煌(きら)めくのだ。彼の液体ーーーと彼のもろもろの炎(光輝)とーーーは、まさにわたしがジャヴァとよぶところの、そしてわたしが愛するところの、独異の功力(ちから)なのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.364~365」新潮文庫)
仮にジャヴァと名付けられている或る種の「煌(きら)めき」として、「独異の功力(ちから)」として、諸要素の融合する「合金のごときもの」として、それらすべての「ジャヴァ《における》出会い」が、ジュネを「夢中にする」ということでなくてはならない。
「わたしの言う意味をさらに明確に言えば、わたしは卑劣さをも愚かさも愛するのではなく、また、そのいずれかの《ために》ジャヴァを愛するのでもなく、それらの彼における出会いがわたしを夢中にする」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
それは、たとえばドゥルーズとガタリにいわせれば、或る「即興」(アドリヴ)であり、またこの「即興」(アドリヴ)は「世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ」ということになるだろう。
「身を投げ出し、あえて即興を試みる。だが、即興することは、世界に合流し、世界と渾然一体となることなのだ。ささやかな歌に身をまかせて、わが家の外に出てみる。ふだん子供がたどっている道筋をあらわした運動や動作の音響の線に、『放浪の線』が接ぎ木され、芽をふきはじめ、それまでと違う輪と結び目が、速度と運動が、動作と音響があらわれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.319」河出文庫)
さて、場面は変わって霧のブレスト。ロベールと性行為に耽っているとき、クレルとロベールという兄弟の顔が入れ換わって仕方がない、と半ば呆れ顔のリジアーヌ。二人を区別するにはどうすればよいのか。あるいはなぜ二人の身体が入れ換わり立ち換わりして止まないのか。見た目が似ているだけでなく性質も似ているということはなるほど重要な要素である。しかし二人を区別するための最終的な優先権はどこに求めることができるだろうか。
「クレルの勃起はそれほど堅くなかったが、少なくとも彼女があれほど夢に見たこの男根は、彼女を失望させはしなかった。それは重々しく、ふとく、どっしりしていて、上品ではないけれども、たくましい力にあふれていた。要するにリジアーヌ夫人は、この男根がロベールのそれと違っていたので、いくらか心が休まったのである。二人の兄弟は、結局その点で識別されるのだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.381~382」河出文庫)
二人を区別するための最終的な優先権は、両者の《身体》あるいは肉体(筋肉)の運動の《差異》にあるということが承認されなくてはならない。リジアーヌは正当にもそう承認する。ニーチェはいっている。
「私たちは肉体に問いたずねる」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九二・P.36」ちくま学芸文庫)
「今日でも私たちは、いまだ筋肉でもって聞き、いまだ筋肉でもって読みさえする」(ニーチェ「権力への意志・下巻・八〇九・P.325」ちくま学芸文庫)
一方、クレルとセブロン中尉との力関係の均衡が破れ、クレルはセブロンに自分の身体を与えてもいいと考えるようになる。艦船出航までの暇つぶしを装って、白昼のブレストの街路をぶらぶらしている娼婦たちに声をかけ、からかって歩くクレル。そこでクレルは偶然にもセブロン中尉と出くわす。海軍の軍規上、セブロンはクレルを注意しなければならないが寛大さを見せつけたいセブロンはクレルの遊びを黙って見逃す。すれ違いざま、クレルはセブロンの目にはっきりと焼き付くように、欠かさぬ微笑とともに「自分の背中に、肩に、尻に、瞬間のすべての力を注ぎこ」み、「誘惑せんとする彼のすべての意志が、彼の肉体のこの部分に結集」するよう振る舞う。
「そのとき、彼は微笑の観念を自分の内部に保持しながら、自分の背中に、肩に、尻に、瞬間のすべての力を注ぎこんでいたのである。要するに、誘惑せんとする彼のすべての意志が、彼の肉体のこの部分に結集していたのである。この部分こそ、彼の真の顔であり、彼の水兵としての顔なのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.385」河出文庫)
それこそクレルの、「水兵としての顔」であり、「彼の真の顔」に《なる》。
「この顔が微笑を浮べ、相手の心を動かすことができるようにと彼は望んでいた。クレルはそれをあまりにも強く望んでいたので、ほとんど目に見えない震えが、首筋から臀部まで、彼の背骨を突っ走ったほどであった。自分自身のいちばん貴重なものを、彼は士官に献呈した」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.385~386」河出文庫)
「私たちが着けている最良の仮面は、私たち自身の素顔である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一一六三・P.595」ちくま学芸文庫」)
ニーチェの言葉にしたがうとすれば、人間の「素顔」は、時と場合により、様々な形態を取りつつ移動する、ということになる。そのことは特権的な「素顔」など実はどこにも存在しないという事情を意味する。むしろ素顔はつねに変容しつつ移動しつつ状況全体を巻き込みつつ、或る過程としてしか存在しないという事情を説明している。マルクスにいわせれば、どの商品も特権性を帯びることなく脱中心化された諸運動として流通するようなものだ。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
ところがクレルの意に反してセブロンは「行動を開始しなかった」。セブロンは「規律を守らせる必要を自分の内部に十分認めていながらも」、一人の水兵が街路で少しばかり遊んでいたからといってわざわざ怒鳴りつけたりせず、規律に対する侵害を「黙許することに、一種の自由の快楽、違反した張本人との共犯の快楽を味わっていた」。
「彼は行動を開始しなかった。よしんば自分のそばに同僚がいなかったとしても、彼は行動を開始しようとは思わなかったにちがいない。というのは、この規律を守らせる必要を自分の内部に十分認めていながらも、彼はそれに違反すること、あるいはそれに対する侵害を黙許することに、一種の自由の快楽、違反した張本人との共犯の快楽を味わっていたからである。それに、こんな有頂天になった恋人同士に対しては、笑って見逃してやる態度を示すことこそ、粋なやり方であり、《最高度に味のある》(彼は心のなかでこんな言葉を使っていた)やり方ではなかろうか、と彼には思われた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.386」河出文庫)
セブロンは海軍士官として、クレルの上官として、「黙許すること」を「《最高度に味のある》」、「粋なやり方」ではなかろうかと考え、自分で自分自身に酔っていた。クレルによる規律違反、それを黙許したセブロンの規律違反、この二重の背信行為。さらに両者の共犯関係がもたらす快楽。セブロン中尉は二重の背信と共犯関係がもたらす自己陶酔の快楽に身を任せることにしたのだった。「粋」というより単なる「独り占め」に過ぎないのだが。
BGM